対決
「佐瀬さん、気をしっかり持って――」
「あんたに言われなくてもわかってるわよ」
杏花の目つきは相変わらず鋭い。その目がドアに向けられた。
「失礼しまーす」
たるい感じの声とともに、まず、グレーの高級スーツに身を包んだ男が入ってきた。芸能事務所「ロゼ」の二代目社長、銭永龍である。髪は金色に染めたツーブロックで、あごひげを生やし、全く悪趣味としか言いようがない金のネックレスを首にかけている。見た目は実業家というより、もはやその筋の人に近い。
続いてまふゆが入ってきた。こちらもスーツ姿だが、その色はメンバーカラーと同じく赤色である。清楚なイメージを振りまいていたとは思えないほどのけばけばしさに、悠里は目をそむけたくなった。
「あれ? 何でこの場にあなたが?」
まふゆが悠里に問いかけたが、代わりに杏花が冷たい口調で言葉を投げかけた。
「お久しぶりですね、平林さん」
芸名ではなく本名で呼んだのは、拒絶の意志表明にほかならない。だがまふゆは意に介さず、杏花に向けて目をぎらつかせた。
「あんず、会いたかったわ!」
「その名前で呼ばないでください。今のあたしは佐瀬杏花です」
亡き親友に行ったまふゆの仕打ちを考えれば殴りかかっていてもおかしくはないが、今の所は冷静であろうと努めているらしい。
「お久しぶりあんずちゃーん。どしたん、髪の毛、俺みたいにキンキンに染めちゃって」
銭永がニヤニヤしながらかったるそうな口調で聞いてきたが、これも「別に何もありません」とだけ返す。
「ありゃりゃ、あんずちゃんってそんな塩対応する子だったっけ? 昔はもっと愛想良かったのになあ」
「……」
「銭永社長。積もる話もありましょうが、どうぞおかけください」
波奈が席を勧めると、まふゆは一礼して着席したが、銭永は先程の悠里よりも不躾にどかっと座り込んだ。
「イメージチェンジされたのですね。以前お会いしたときは霞が関の官僚みたいにお硬い感じでしたのに」
「まあちょっと、ね!」
銭永の浮かべた笑みは下品で汚らしい。悠里は波奈を横目でチラッとみたが、こめかみがひくついていた。
「さて、長野からわざわざご足労頂きありがとうございます。早速ですが、flip-flop様のメジャーデビューの件ですけれども……」
「ああ、こっちからもちょうど言おうと思ってたところでしてねえ。あれ、なかったことにしてくれませんかねえ?」
「はい?」
波奈は眉をしかめた。
「なかったことに、とは?」
こちら側から白紙撤回を突きつけるつもりだったために、波奈の声にもさすがに動揺の色が含まれている。
「実はあ、別の事務所から熱烈なお誘いが来てるんですよ。規模的にはそんなに大したことないんですけど、少なくとも天寿さんところよりかは大きいところでねえ」
「どこですか?」
「ホット・チリソースさんですよ。ご存知でしょ?」
ホット・チリソース。中堅芸能事務所だが所属アイドルは全て過激なセクシー路線をウリにしており、そこからさらにセクシー女優に転向したアイドルも複数いるほどである。悠里たちは存在を知らなかったが、芸能事務所に勤めていたことがある七海が声を荒げた。
「あのAVメーカーもどきの事務所ですか? flip-flopのコンセプトと全く合わないと思いますが」
「コンセプトなんかどうでもいいっしょ? 全部ぶち壊して一から作り直すんだからさあ」
銭永はあからさまにナメた態度を取り始めた。
「伊ヶ崎さん、あんた『是非ともflip-flopを長野から全国に羽ばたかせてみたい』って言ってましたよねえ。だけど俺はねえ、flip-flopのイメージを全部ぶっ壊して少女から大人になってもらいたいんですよ。まふゆちゃん見てくださいよ。見た目清楚っぽいけどどこかエロっぽくないですか? エロ路線で売り出したらもっと売れますよ?」
卑猥な単語が出ようともまふゆは平然と、それどころか誇らしげな態度を見せていたが、その他の者たちにとっては聞くに堪えなかった。波奈はわざとらしく大きなため息をつく。
「わかりました。残念ですがこの話は無かったことにさせていただきます。しかしもう一点重要なお話があります。佐瀬杏花がこの場にいる時点でお察しとは思いますが、そちらのまふゆさんがですね――」
「あー、その件はまふゆちゃんのお口からどうぞ」
銭永が遮った。悠里はこの無礼極まりない男の口を縫い合わせてやりたかったが、恐らく杏花の方は八つ裂きにしてやるぐらいでは足りないほどの怒りを持っていることだろう。
「じゃあ単刀直入に言うわ。あんず、さっさと学校なんか辞めて私たちと一緒に来るのよ」
「なっ……」
杏花はたちまち激昂し、立ち上がって掴みかかろうとしたが悠里と波奈が二人がかりで止めに入った。
「平林……あんた自分で何言ってるかわかってんのか!?」
杏花は二人を振りほどいて向かおうとした。七海も怒りをこめた口調になる。
「まったく笑えない冗談ですね。佐瀬さんは未成年ですよ?」
「何言ってんの。セクシー女優になるわけじゃないんだからさあ」
銭永がヘラヘラ笑いながら言った。その態度が杏花の怒りを増幅させる。
「あんたら、本当にクズの中のクズだわ。みれいを殺しといてよくも……!」
まふゆは急に真顔になって、一枚の紙を机に差し出した。
「それ、あなたの契約書のコピーよ。読みやすいようにアンダーラインを引いといたからよく読みなさい」
赤い線が引かれた箇所にはこう書かれていた。
――不祥事、契約違反行為、その他事務所に損害を与える行為を行った場合、損害賠償を請求できるものとします
銭永からもヘラヘラした笑みが消える。
「あんずちゃん。君、事務所辞めるときに仮病使ったよね? わざわざ診断書をお父さんの知り合いのお医者さんに書いてもらってさあ。これって詐欺だよねえ? 事務所に損害を与えることしちゃってるよねえ?」
「それは……でもそうでもしなきゃ辞めさせてくれなかったでしょ!」
「でも詐欺は詐欺でしょ。ねえ伊ヶ崎社長、診断書を偽造するような悪い子を生徒として置いといていいんですか?」
まふゆも畳み掛けるように言う。
「あんず。龍ちゃんはね、元の鞘に収まったら許してやるって言ってたわ。あなたにも良心の呵責というものがあるのなら、誠意を見せて欲しいものね」
まふゆの言葉には全く説得力がなかったが、杏花にはアイドルになって欲しいという家族の期待を裏切った後ろめたさがある。そのトラウマが想起されたのか、急にへなへなと椅子にへたり込んでしまった。
「い、いや……もうやめて……」
「やめて、じゃないのよ。あなたには私が芸能界で羽ばたく姿を間近で見てもらわなきゃね!」
まふゆは美しくも歪んだ笑みを浮かべたが、束の間だった。
パーン、という何か破裂したみたいな音とともに、まふゆの首が横に向いた。
「あー、ごめん。手が滑っちまったわ」
悠里の平手打ちがまふゆの頬を捉えていた。応接室の時間が凍りついた。