思い出の茶
「なあ、今日めっちゃ温くね?」
悠里は白い息を吐いた。温いと言っても息は凍るが、天気予報によれば最高気温11℃最低気温6℃と、1月中旬にしては例年より高い。
「先月の雪がウソみたいだよね」
「まあ、来週また寒くなるらしいけど……ん?」
校舎の前に金髪の生徒がいるのを見つけた悠里は、駆け寄って挨拶した。
「佐瀬さんおはようございます!」
「おはよ」
杏花は口調こそぶっきらぼうだったが、手を上げてはっきりと挨拶を返していた。すぐさま校舎に入っていったものの、やり取りを見た莉子は口をポカーンと開けていた。
「ま、まともに挨拶してるなんて……あんたら昨日だけでどんだけ仲良くなったの?」
「仲良くなりてえなら今がチャンスって言ったろ?」
「そうだけど、まさかここまで……でも、佐瀬さんも元気そうで良かったね。太田ちゃんという人薬が効いたかな?」
「どうだろうな」
因縁のまふゆが杏花の居場所を知ってしまった以上、手紙を送りつけてそれで終わりというはずがない。杏花は今まで通りふてぶてしさを見せていたものの、恐らくは虚勢だろう。
親友の人生を破壊し、自分の夢も壊した人間が近づこうとしていることに対して平気でいられるわけがない。
*
この日は料理部の活動がなかったため、茶道部にお邪魔した。料理部では不評だったざざむしをお裾分けすると大いに喜ばれ、早速その場でざざむしパーティが開かれていろんな意味で盛り上がり、つい長居をして下校時刻ギリギリになってしまった。
ざざむしのお礼としていつも通り茶葉を貰ったが、無地のアルミ袋に入っていて銘柄が全くわからない。茶道部員に聞いても「飲んでみな、飛ぶぞ!」とどこかで聞いたようなセリフしか返ってこなかった。しかし香りを嗅いでみたところほんのりと上品な甘さがあり、そこらで売っている安物ではなさそうなのはわかった。ちなみに茶葉は五袋分あり、一人では飲みきれる量ではない。
弓道場の側を通ると、ちょうど部活帰りの杏花と出くわした。
「あ、お疲れ様っスー」
「おつかれ」
杏花は塩対応とはいえ、朝同様挨拶を返してくれた。
「茶道部でお茶貰ったんスけど、佐瀬さんもどうです?」
「お茶?」
以前だったら恐らく即「いらない」と突っぱねられていたはずだが、食いついてきた。
「茶道部の連中、惜しげもなくこんなにたくさんくれたもんだからおぐっさんと楽しむだけじゃあ勿体なくて。あ、おぐっさんってのはあたしのルームメイトです」
「前に一緒にいた子?」
「ですです。おぐっさん、実は諏訪出身なんすよ」
「まだいたの。長野から来たのが」
杏花は一瞬だけとはいえ嫌な顔をした。以前長野のことを呪われた土地と言い放ったが、長野に関する話題が出るとやはり気分がいいものではないらしい。調子に乗りすぎたかな、と悠里は少し反省する。
「まあそれはともかく、お茶美味いっすよ。どこの銘柄か知りませんけど、茶道部の茶はハズレはないんで」
「……せっかくだから一袋だけ貰っとくわ」
「ありがとうございまーす!」
悠里の表情がパッと明るくなった。
「やっぱ、何かムカつく顔してるわ」
「えへへー」
「……」
杏花は無言で高等部桜花寮の中に入っていった。それでも茶葉を渡せただけで大満足であり、部屋に戻るなりハイテンションな状態で成果を莉子に話したものだから驚き呆れられた。
*
杏花が温かい緑茶を飲んでいることに、ルームメイトの譲葉は特に関心を示すそぶりを見せなかった。横目で見ると机に向かって音楽を聞きながら本を読んでいるが、それは全国展開している焼肉チェーン店「なかさわ」の社長が記した自伝であった。
商業科の三年生は学年末試験代わりに企業経営者の著書を読んでレポートを書く、という最後の課題が渡される。弓道部の先輩に商業科がいたが、課題について同期と話をして盛り上がっていたのを側で聞いてそのことを知った。
杏花は何で「なかさわ」の社長の本を選んだのか少し気になったが、尋ねようとはせず、再び緑茶に口をつける。深い甘味と渋味が口の中に広がる。それは昔よく味わったものと同じであった。どこの銘柄か知らないと悠里は言っていたが、杏花の舌ははっきりと覚えている。
忌まわしく暗い故郷での、唯一の光ともいえるみれいとの思い出。彼女の出身地天龍村も実は茶の産地であり、実家は茶畑を営んでいた。アイドルになるために長野市の親族の家に移り住んだ後も、実家から茶葉が絶えず仕送りされてきて、杏花はよくおすそ分けを頂いていた。その味を忘れるはずがない。
「喉が乾いたときには熱いお茶がいいんだよ」
みれいはいつもそう言って、暑い夏の日でも熱い緑茶を飲んでいたことを思い出す。杏花もつきあって飲んでみたが、汗がぶわっと噴き出してきて、その後に心地よい清涼感が湧き上がってきたものだった。
冬の時期、部屋の中は暖房が効いているが緑茶を飲んでも汗はかかない。それでもみれいとの楽しかったひとときに浸るには十分だった。彼女が非業の死を遂げたときは、二度と飲まないものだと思っていたが。
杏花は立ち上がり、譲葉が本に集中している隙に部屋からそっと出た。用を足しに行くときはいつも無言だが、今に限れば気づかれるのも嫌だった。
トイレの中は暖房が効いておらず冷え切った空間となっていて、誰もいない。節電のために蛍光灯が一本抜かれていて、一番奥の個室は光があまり届かない場所となっている。杏花はそこに入り、鍵をかけた。
その途端に、抑えていたものが溢れ出した。
「みれい……みれい……!」
ルームメイトがいるときでも、知られないように涙を流すことは今までに何度かあった。しかし今回ばかりは感情を制御できそうになかった。暗く狭い個室の中で、長い時間慟哭した。杏花がトイレに行ったことを譲葉が知っていれば。さすがの彼女も帰ってこない杏花を心配して様子を見に来ていたかもしれない。
悲しみを流しきった後に部屋に戻ったが、ドアを閉めた際に大きな音を立ててしまった。それでも譲葉は本に目を通したまま一瞥すらしなかった。冷淡が過ぎるが、あれこれ探られるよりマシである。
長い間冷えた場所にいたにも関わらず、逆に体が熱く感じる。緑茶の温もりがまだ残っているかのように。
「みれい。あたし、抗ってみせるから……」
杏花は机に向かい、筆記用具とルーズリーフを取り出した。
逃げるのはもう終わりにしなくてはいけない。大切な人を失っても逃げなかった者がいるのだから。