悠里の過去
悠里には姉の恋と、兄の稔がいる。しかし実はもう一人、年子の姉がいた。
名前は愛里といい、双子ではないのに容貌は悠里とそっくりで性格も似たものどうしであり、姉妹仲もとても良好だった。
転機が訪れたのは、悠里の実家が天寿と関わりを持ち始めた頃である。天寿で雪解け水をテーマにした清涼飲料水を開発することになり、協力を仰いだ相手がオオタホールディングス傘下のオオタ食品工業であった。
商談の中で天寿社長にして星花女子学園理事長、伊ヶ崎波奈は悠里の祖父に星花女子学園について話をしたことがあった。波奈にとってはビジネスと関係のない雑談で軽い気持ちで紹介しただけのことらしいが、悠里の祖父はいたく気に入ったようで、当時小学六年生だった愛里に星花女子学園の受験を薦めた。
故郷を離れることにはなるが寮が完備されていて、成績優秀であれば一人部屋の寮に移ることもできる。何よりも愛里と同じく経営者の娘や孫が多く在籍するお嬢様学校であり、友人ができやすく刺激を受けることも多そうだったのが愛里の目にも魅力的に映り、喜んで星花女子学園を受験することを決めたのである。
だが、悠里は受験に反対した。
「愛里お姉ちゃんと離れるのはイヤ!」
この頃は恋が長野市にある大学に通っており、下宿生活を送っていたものの実家から特急バスで一時間少しかかる程度の距離だったから頻繁に帰宅しており、悠里に寂しい思いをさせていなかった。しかし太田家がある村から空の宮市までは、いくら隣県といえども遠い。そもそも太田家の者は親類含めて長野県から長期間離れて暮らした者がおらず、県外で暮らすことは冒険に行くことに等しかった。
「もー、一生の別れになるわけじゃないんだからさあ」
「イヤイヤイヤ!」
ごねる悠里に、愛里は優しく言い聞かせた。
「お姉ちゃんはね、もっとビッグになりたいの」
「び、ビッグ?」
「そう。じいじが言うんだよ。星花女子はお前をビッグにしてくれるぞって」
「よくわかんねえ……」
「何でも、ウチのスキー場をはした金で買えるぐらいのお金持ちの子がいっぱいいるんだって。そういう子たちと一緒に勉強したらビッグになれるでしょ」
「まじかよ」
このとき、悠里の頭の中ではヴェルサイユ宮殿のように豪奢な星花女子学園の校舎と華やかなドレスのような制服で着飾った生徒の姿が想像されていた。
「悠里も寂しかったら来年受験してみたらいいじゃん。一年だけ寂しいのを辛抱して勉強して、受かったらまた私と一緒に暮らせるよ」
「だけど友達と離れ離れになっちまうし……」
「ちょっと遠いところに行ったぐらいでつきあいがなくなるような薄情なお友達はあんたにはいないでしょ。それに、あんたはどこ行ったって友達できる性格してるんだから、思い切って外に出てみたら?」
愛里は受験勉強を始めていなかったのに、もう星花女子学園の生徒になったつもりでいた。もう引き止めるのは無理だと悟った悠里は、せめてビッグになれるよう応援することに決めたのだった。
そして年が明けて、星花女子学園中等部入試二日前の日。翌日は母親と一緒に空の宮市に前泊するという段取りになっていたため旅支度を整えつつ、愛里は最後の追い込みをかけていた。
「お姉ちゃん、調子どう?」
「なかなか良いかも。じいじが星花女子の赤本を取り寄せてくれたから傾向もばっちり掴めたし」
「おー、楽しみだ。まあいったん休憩して」
悠里はおやきを差し出した。まんじゅうに似た北信地方の郷土料理で、小麦粉の皮の中に様々な具材が詰められる。おかずにもおやつにもなれる万能の食べ物である。
「いただきまーす」
愛里はあっという間にあんこ入りのおやきを平らげてしまった。
「早えな!」
「だって頭使うと糖分足りなくなって小腹空いて仕方ないもん。ちょっと外の空気吸ってくる」
「あいよー」
この何気ないやり取りが姉妹の最後の会話となってしまった。
近くの広い道を散歩していたところ、スリップした乗用車が歩道を乗り上げて突っ込んできたのである。
*
「急なことすぎて何が何だかでしたけど、お姉ちゃんが永久にいなくなっちゃったんだってちゃんと理解したのは、お骨になったときでした」
「そう、あんたも辛いことがあったんだ。まあその……」
杏花は悠里にかける適切な言葉を探しあぐねているように見えた。
「あたしがここに来たのは、お姉ちゃんが見たかった風景を見るためなんです。宮殿のような校舎も無ければドレスのような制服でもなかったけど、ここは本当に楽しい」
最初は県外で暮らす不安があったが、愛里の言った通り、すぐに友達に困ることはなくなった。特に小口莉子という同県人の同期と出会えたのは奇跡に近かったかもしれない。
「あんたは偉いよね」
杏花が口を開く。
「言っておくけど嫌味じゃないから。その、あたしなんかと違って、あんたはお姉さんの死と真正面から向かい合った結果ここに来たわけじゃない。だけど、お姉さんのこと思い出して辛くなったりしないの?」
「辛かったのはお姉ちゃんが死んでから受験するまでの一年間だけでした。今は全然ですけど。お墓参りもちゃんとしてますからね。この前のスキー学習は最終日がたまたま命日だったんで、本当だったらそのまま寮に戻る予定だったんですけど、ワガママ言って実家に帰らせてもらいました」
「そうか……あたしなんか、みれいのお墓参りに行けてないのに。実家にも全然帰ってないし」
杏花は自嘲的な口ぶりを見せた。
「あの、佐瀬さんが故郷を嫌いになった原因が近寄ろうとしてきてますけど、そのときはあたしが力になりますからね」
「具体的にどう力になるっていうの?」
「それは……実はあたしの実家、信州リゾートスキー場とスキー学習に使ったホテルを経営してるんですけど、何度かflip-flopと仕事してまして。この前のコラボライブもうちの実家が関わってましたし。だからまふゆさんの動きはこっちでもわかると思うんで、何か変なことしようとしたらすぐ耳に入れるようにしますから」
あっ! と悠里は大声を出した。
「じいじはflip-flopのメンバーと変なことしてませんから!」
「じいじって、スキー場を経営してる人?」
「ですです。じいじはいい加減なところがあるけど公私混同はしない人なんで。だから……」
「100%そうだと言い切れる?」
悠里は言葉を詰まらせた。昔、祖父から直々に浮気がバレて妻に冬の川へ突き落とされて死にかけたという逸話を明け透けに聞かされたことがあったからだ。
「うーん、99%ぐらいかなあ……」
トーンダウンした。きつい目つきで睨まれて首をすくめたが、杏花はふうっとため息を吐いた。
「こんなに人としゃべったの、入学してから初めてだわ」
「はあ。やっぱりルームメイトさんとはしゃべらない?」
「ほとんどね。その方が気が楽だし」
譲葉の言う通り、お互い険悪ではなさそうではあるが、やはり悠里にとって理解し難い関係性である。
「だけど、あんたと話したら何というか、胸から鉛が取れたみたいな感じになった」
「え」
「温室育ちっぽくてイラつく顔してるけど、何でだろうね」
気が楽だとは言ったが、重たいものを抱えすぎて麻痺していただけではないかと悠里は考える。やはりこの人には腹を割って話す相手が必要だ。それは今のところ、自分しかいない。
悠里は椅子から降りて正座し、杏花の顔を見上げた。
「本当に、あたしにできることなら何でもしますから。愚痴だって聞きます。お前を見てたらイライラする、とかでもいいです。自分ひとりだけで抱え込まないでください」
土下座とまではいかないものの、両手をついて懇願する。
杏花は「あーもういいから椅子に座りなって」とめんどくさそうに言って、ベッドから降りミニ冷蔵庫に手をかけた。
「あたしのことはあたしで何とかするから」
「いや、無理しちゃダメですよ」
「それはあんたにも言えることじゃないの?」
ボトル缶のコーヒーを2本取り出して、うち1本を悠里に渡してきた。
「え、いいんスか」
「一応、部屋まで運んでくれたお礼はしとかなきゃでしょ」
「ありがとうございます! いただきます!」
悠里は仰々しく両手で受け取った。
「ま、あんたは立ち直り早いっぽいけど」
「よく言われます」
「羨ましいよ。嫌味じゃなくて」
杏花のきつい目つきが緩む。それだけだったが、悠里にとっては全く別人のように映った。
この人はこんな優しげな表情ができるのか、と。
「衛藤さん外で待ちっぱなしだし、今日のところはもう帰って」
「わ、もうこんな時間か」
せいぜい10分程度しか話をしていないと思っていたが、それよりもだいぶ時計が進んでいた。
「お邪魔してすみませんでした。おやすみなさい」
「おやすみ」
部屋から出て広間に向かうと、譲葉がソファーに座ってスマートフォンを見ていた。
「長くなってすいません。今終わりました」
「それ、あの子から貰ったの?」
「そうです。貰っちゃいました」
「和やかに話できたみたいね」
終始和やかとまではいかなかったが、杏花の苦しみを共有して、少しでも気持ちを楽にできたことは大きな前進といえた。