2-2:レトロな車
……あの花の香りがする……
テレマ研究施設に現れた、あの娘の香りだ。
蜂蜜を垂らしたような、つややかな髪。すよすよした頬に、しっとりぷにぷにと柔らかい唇。潤んだ瞳に光る涙が、とても綺麗だった。
〔センセ……〕
妖艶さと可愛さの狭間で、その娘が微笑む。
可愛い子だと、思った。全部奪い去りたくなるような。
そうとも、この1年……
……なんだか鼻がムズムズする。
奥まって、とっさに出たクシャミに夢が弾け飛ぶ。
目前、目を丸くしたエレナが、ポニーテールの先を引っ込めた。そしていたずらっ子のように、にんまりと笑う。
「おはよ、センセ」
ロレンツォは鼻を摘まむようにこすって首を振った。こいつめ、毛先で鼻をくすぐりやがったな。
夕闇せまる写真部で2人きり、ロレンツォがあたりを見て大きく背伸びした。
「ぁ~……やっと終わったのか。こんな部活内容なら、今度から俺は参加しないからな。ったく……」
言って頭をボリボリとかき、野暮ったく立ち上がる。
渡り廊下から見える中庭や、遠くの運動場に人影はない。みんなすっかり下校しているようだった。
部室に鍵をかけたロレンツォは、ふとエレナを見た。エレナは何がおかしいのか、まだくすぐったげに笑んでいる。
「ねぇセンセ、デートしよっか」
突如、腕を絡ませたエレナが小悪魔的な上目遣いに笑む。豊満な谷間に腕が包まれた。
「っ何……、おい、からかうな。そういうのやめろ」
「ご褒美。上手にシット(お座り)できましたね~、イイ子イイ子」
エレナが片手を伸ばし、ロレンツォの頭を撫でる。ちょっと屈まされたロレンツォは、女の子らしい華奢さと柔らかさに、気まずそうに咳払いした。
(香水くさい大人と違って、女の子はこんないい匂いがするもんなのか……?)
思って、思わず首をふる。そして、エレナに指を突きつけた。
「大人を犬扱いするな。俺はお前を監視しているんだからな。懐柔しようったって無駄だ」
ロレンツォは意地悪たっぷりな声音で言って、フンと腕を引き抜いた。
その耳の赤さにエレナが目を細める。
(……ホント、野良犬みたいで、かっわい!)
ぶっきらぼうにしてるのに、寝顔があまりにあどけなくて、ついつい眺めてしまったのだ。
野良犬に餌をあげているような気分に近いものがあった。野良犬はこちらに唸り警戒こそすれ、餌をあげたらやや尻尾を振りつつ、おずおずと餌を食べるのだ。ちょうど、今のロレンツォのように。
ロレンツォの後ろにエレナが続く。渡り廊下の真ん中で、肩越しにロレンツォは振り返った。じろりと見て、手をシッシッと払う。
「足にする気だろ。学園タクシーを呼んで早く帰れ帰れ」
その手をとったエレナがじっと見上げる。小悪魔的に小首をかしげ、潤んだ瞳がロレンツォを捉えた。
とたんエレナに襟首を掴まれ、うんと引き寄せられる。
「ねえセンセ。もう夜になっちゃうよ? 私、センセーの車でイイとこにいきたいな」
耳をくすぐるかのように、甘い声が可愛く囁く。女日照りのロレンツォの脳裏に、思わずラブホ街が駆け巡った。
「い……い、イイとこ……?」
思わずやや裏返った声に、エレナは恥じらうような笑みを返す。
「うん。そこでセンセーの男らしいトコ、いーっぱい見せて?」
フリーズするロレンツォの腕に絡みついたエレナは、半ば引き摺るように駐車場へと向かった。
「……い、いやいやいや待て待て、ダメだダメだ生徒相手に行きずりはダメだ……!」
フリーズから首を振ったロレンツォが、自身に念仏を唱え踏みとどまろうも、エレナは止まらない。
校門を抜け、でこぼこした黄金街道に足がもつれた。
「待て、そういうのはそういう時にその、大事にしろ若いんだから……!」
エレナは船頭のように、広い駐車場に残るロレンツォの車を見た。
「エレナおっそーい! グレムリン寝ちゃうよー?」
駐車場から返る声に、ロレンツォがはたと顔を上げる。黒い影が2人、ミシェル達がエレナに手招きしていた。
ミシェルがやれやれといった様子で腕を組み、縁石に腰かけていた桜蘭が待っていましたと言わんばかりに立ち上がる。
エレナは大手を振って2人に応えた。
「ごめーん! センセー送ってくれるって! ……じゃ、今からグレムリン駆除に行くわよ。ナビ先までお願いね、センセ」
絡み付いていた腕を抜き、ロレンツォは襟を正した。そしてエレナをじろりと見下ろす。
「……それみろ、やっぱり足にする気じゃないか」
それにエレナはちろりと舌を出す。なんとも小悪魔な笑みだった。
ロレンツォは目をウェスタンポリスのように眇め、エレナにデコピンした。
びっくりオデコに手をやったエレナに鼻で笑う。生意気な小娘にやってやったのだ。
エレナはちょっと恥ずかし気に頬を膨らませた。
「……もうっ、生意気なわんわんね。さっさと送ってよね」
それにロレンツォはへいへいと返し、キーを挿したのだった。
ロレンツォの車は、蛙をペッタンコにしたあと申し分程度に膨らませたような、レトロな車だった。
「よろしく顧問」
とミシェル。
「安全運転でお願いしますわね」と、桜蘭が笑顔で続く。
後部座席に乗り込んだ2人は、車内の様子に一瞬言葉を失った。
「なにこのジャケットの山……。うわっナクドマルドのゴミがそのまま……」ミシェルがゴミをエンガチョ摘みに隅へと寄せる。
「掃除をされたのはいつでしょうか、ほこりが……」
桜蘭はややドン引きに、口元をおさえこじんまりと座った。こんな劣悪な車内は初めてだったのだ。
エレナは助手席に座って、あちこち見回した。
ロックはキノコみたいだし、窓は手動だし、シフトレバーは妙に細長い。なんとも不思議な車だ。
すっかり役目を終えた芳香剤をつついたエレナは、嬉しそうに足を遊ばせ、ゆるいシートベルトを締めた。
「エイリアン・バスターズ専用車、記念すべき初始動ね」
「勝手に専用車にすんなっての」と、ロレンツォがキーを何回かまわし、ようやくエンジンが目を覚ます。
オンボロ車は痰が絡んだ老人のように大きく咳き込み、ゆっくりと滑り出した。砂利道で木箱を押すような座り心地に、ミシェルと桜蘭はギョッと見合わせ、バックミラーのロレンツォを見る。
「大丈夫? この車……」
ロレンツォは百も承知に視線を返した。
「悪いか。じいちゃんの代からのビンテージなんだよ、嫌なら降りろ」
言って、助手席のエレナをちらと見た。
エレナは手を叩いて大笑いし、ロレンツォに振り返る。
「こんなの初めて~! おもしろい!」
ロレンツォはフンと軽く笑った。嫌味のまったくないエレナの態度に、悪い気はしなかった。
エンジンが温まるにつれ、次第に安定した走りになっていく。エレナ達の瑞々しい会話に華を添えるように、ぼけたラジオが陽気に歌っていた。
ロレンツォはふとした。
車に女性を乗せるのは1年ぶりだった。女性経験がないわけではないが、女は苦手なのだ。
急に不機嫌になるし、髪を切っただけでいちいち褒めなきゃいけないし、ブランド物じゃないとキレるし、寂しいという理由で簡単に浮気するし、あげく男らしくエスコートしろだの記念日を大事にしろだの文句をつけて、都合が悪くなればさっさと鞍替えする。
女は面倒で残酷で気まぐれなのだ。隣で可憐なかおりを漂わせる、この女狐のように。
「あ、センセー、自販機前で停めて? のど乾いた」
エレナの声に、ロレンツォは「へいへい」と生返事で自販機前に停める。
外気は知らないにおいがした。走り始めて1時間、山を越えるとにおいが変わる。
小虫がラリッたヤク中のように、自販機の光に向かって何度も激突していた。
後ろではやれどれを飲むだのアレがおいしいだの、たかがドリンク1つで随分賑やかだ。
年頃の小娘らしく元気な3人を横目、ロレンツォが紙幣を突っ込んで指先を遊ばせる。
「おい、どれにするんだ」
それにミシェルが感心に声をあげた。
「お、もしかして顧問、全員分奢ってくれるの? 太っ腹だね、さすが大人。あたしはイチゴオーレ」
エレナがそれに続き、ロレンツォの腕をぺちぺちと叩く。
「さっすがセンセ、かっこいー! 私、ヘブシ」
桜蘭は乗車からテンションが下がったままだ。静かに2人に続く。
「……私はミネラルウォーターで結構ですわ……」
ドリンク程度で随分可愛いものだった。まだげんなりしたままの桜蘭はともかくとして、なんだかんだで年頃の小娘なのだ。
そのチョロさにちょっと笑ったロレンツォは、気分よくボタンを押したのだった。
最後の1本をうけとって、エレナが嬉しそうに噴き出した。
「やーん、ちょっとヨイショされただけで皆のドリンク買っちゃうなんて、センセーちょろすぎ~」
ミシェルがエレナを軽くチョップし諌める。
「こらエレナ、例えささやかでも男をたてるのが女だよ」
2人のやりとりに、桜蘭が口元を押さえてお上品に笑った。
「あらあらお二方とも、そういうのは表立っては言わないものですわよ」
前言撤回。やはり生意気な小娘どもだ。