5-4:船着場の黒い手
バーディアン達の怒号遠く、メルガー伯爵は逃走用ポータルを駆けていた。
地下の逃走用ポータルは、ハーデス製鉄所繁栄期のお偉方のカーポートだ。
デパートの地下駐車場のようなそこは、メルガー伯爵のコレクションでもある高級車がずらりと並んでいる。
そのうちの1つ、スポーツタイプに乗り込んだメルガー伯爵は、自らの右腕をじっと見た。意識を集中しても失った右腕は再生せず、やむなく左手でギアをかける。
「くそっ、なんだあのレンズは……。100年ほど身を隠すか」
タイヤを鳴らし、地下駐車場を滑るように走り抜ける。車に反応したオーバースライダーが目覚めるように動いた。
隙間から夜明かりがゆっくりと広がっていく。
この出口の先は工場付近の廃工場へと繋がっていた。地図にもないこのルートを、侵入者らが知るすべは無い。
メルガー伯爵は、勝利に口元を歪ませた。
「残念だったな、お嬢ちゃん。妙なレンズでバーディアンを救った気か。彼ら以外にも私の奴隷は沢山いるのだよ。私の方が1枚上手だ。
世界は私の味方なのだよ。これまでも、これからもね……」
鼻歌交じりにパネルの通信機をひねり、役員直通の電話をかける。こういう時のために役員どもにも血を飲ませていたメルガー伯爵は、通信機のコール音をオーケストラのように耳で味わった。
800年前にマーフォークの肉を食ってから、人生はバラ色だった。自分は世界の中心なのだと確信できた。
こんなささいなトラブルだって、こうして今も天命は私に微笑んでいる。やがて神になる男として、自分は神に愛される存在なのだ。
通信機はすぐに繋がった。しかし無音だ。メルガーが周波数のスイッチをいじるも、すべての通信先はうんともすんともいわない。
カメラに切り替えると、銃痕まみれの壁に〔エイリアン・バスターズ参上〕とスプレーで書かれた映像ばかりだった。
メルガー伯爵が思わず息をのむ。
オーバースライダーが上がりきってふと、夜明かりを遮る影にメルガー伯爵は顔をあげた。
黒パンツスーツの女が日本刀を肩に担ぎ、待ち構えていたのだ。月光を背に、月色の瞳が射抜くようにメルガー伯爵を睨み据えている。
「大人しく降伏しな」
その女、ミシェルは通った声で警告を告げる。
メルガー伯爵の頬に汗が伝った。たかがガキと思っていたが、いつまでも再生しない右腕に一気に恐怖がせりあがる。
メルガー伯爵は静かに睨み返し、思い切りアクセルを踏んだ。ぐんと背がシートにつき、ボンネットに大きな衝撃が走る。
轢いた! しかし、そう思ったのは、ボンネットをミシェルが踏み台にした音だった。
瞬間、ふと紐が飛ぶような音と共に、チリッと首元に一筋の痛みが走る。
メルガー伯爵の視線がずれ落ち、膝へと転がった。視線の端に映ったのは、ミシェルが車体ごとメルガー伯爵の首を切り落とした姿だった。
主を亡くした体が戸惑うようにハンドルをきり、外の鉄製バッカンへと激突する。衝撃で開いたドアからこぼれるように、メルガー伯爵の生首が転がり落ちた。
勢いよく転がる世界を止めたのは、ミシェルの足だった。
「やあ、お嬢さん」
メルガー伯爵は生首のまま、ミシェルを紳士的な笑みで見上げる。
「私の眷属にならないか? 永遠の命と富を約束しよう」
ミシェルはゴミを見るような目で、メルガー伯爵の頭を掴み上げる。
「このド外道が。エイリアン・バスターズはあんたを逃しはしない。あんたは自分がやった事の代償を受けな」
メルガー伯爵は離れる地面を睨みつけたまま、一気に血の気が失せるのを感じた。
「……お前らは一体なんなんだ。あのレンズのガキは、あのレンズは一体なんなんだ!!」
余裕が一切失せたメルガー伯爵の声音は悪魔そのものだ。
地に影がおちる。いくつもの羽音とともに、バーディアン達が静かに降り立った。まるでハゲタカのように、メルガー伯爵を見下ろす。
示し合わせたかのように、マーフォーク達がメルガー伯爵の身体を取り押さえた。
それを確認したミシェルが大きく頷く。
「よし、行こう。エレナ達が待ってる」
……・……
月明かりが船着き場を照らす。満月のせいか、まるで昼間のように明るかった。
波の音だけが、静かに凪いでいる。
エレナとロレンツォはコンテナボックスを下ろし、マーフォークの卵たちを海へと流していた。
マーフォークの卵は真珠のように輝きながら、夜の海に静かに沈んでいく。
メルガー伯爵の去った現場は悲惨なものだった。
割られた卵、ゴミ箱で腐った幼生たち、無残に切り裂かれた幼いマーフォーク達……生き残った卵はほんのわずかだったのだ。
エレナはロレンツォに悟られないよう静かに涙を拭い、穏やかな海を遠く見つめた。
夏場というのに海風は冷たく、エレナが軽く腕をさする。それをみたロレンツォが、それとなく自分のジャケットをエレナにかけてやった。
一言二言交わしまた静かに波をみる2人を見て、桜蘭は「あらまぁ」と静かに呟いたのだった。
「よせ……よせ! いやだ!!」
情けない声にエレナ達が振り返る。
大暴れするメルガー伯爵の身体を担ぐマーフォーク達、そしてメルガー伯爵の生首を鷲掴んだミシェル。
途中でバーディアンの加勢があったものの、ここまでは計画通りだ。
さっきから腰の抜けたような声で喚くメルガー伯爵の生首は、海を見たとたんに悲鳴をあげた。
「どうしてメルガー伯爵はあんなに怯えて……」
エレナが言いかけゾッと、恐怖の悪寒が背筋を伝う。……波音が、あきらかに変わったのだ。
エレナ達は言葉もなく、海に振り返った。
遠くは穏やかに凪いでいるというのに、船着場に打ち付ける波はまるで台風のように荒れ、エレナ達の足元を濡らす。
「海だけはやめてくれ、首だけじゃ泳げない……! 永遠を海底ですごすのは嫌だああッ!!」
ミシェルはマーフォーク達を顎で指した。マーフォーク達が静かに、エレナの前にメルガー伯爵の身体を差し出す。まるで処刑のそれだ。
エレナは頷き、メルガー伯爵の身体にレンズの光を当てる。泣き啜るメルガー伯爵の声が船着場にこだました。
レンズの光がメルガー伯爵を焼いていく。しかし腕とは違い、驚くことに5分もかけてようやく塵のように掻き消えた。
それを確認したエレナが、レンズごしに海に声をなげた。
「マーフォークの女王! メルガー伯爵を!」
ミシェルがメルガー伯爵の生首を大きく振りかぶる。エレナは続けて叫んだ。
「受け取って!」
生首が大きく弧を描き、宙を舞う。
その瞬間だった。海から一斉に、無数の黒い手が伸びたのだ。
「いやだあああああ~~!!」
メルガー伯爵の大絶叫は無数の手に掴まれ、折り重なる波へと飲まれていく。
大荒れだった波は水を打ったかのように、穏やかな海へと静まり返る。
エレナは静かにレンズを下げた。
「今回の依頼主は、マーフォークの女王よ。……彼女の元で、罪の清算をするのね」
隣でふと、ミシェルと桜蘭はエレナを見た。エレナにいつものように手を掲げ、ハイタッチを交わす。
「メルガー伯爵、討伐完了ね!」
そんなエレナ達を横目、マーフォークとバーディアンは握手を交わしていた。800年にもわたる悲劇が今、おわりをむかえたのだ。
高橋がご機嫌に拍手をし、黒い腕にあんぐり口を開けるロレンツォの背を叩く。
「一体なんなんだ、あれ……」とロレンツォが呟く。まるで幽霊を見たような目だ。
高橋は兄弟のように肩を組んで、船頭のように水平線をあおいだ。
「どこで死んでもやがて雨に流され海へと還ります。そこで現世の汚れが浄化され、空に戻っていく。俺たちマーフォークはヒトがこの惑星に住むずっと前から、あの世に最も近い存在なんですよ」
その時だった。
まるで岩を落としたかのような大きな水音に、一同が海へと視線をやる。海面から伸びた手が、空高く何かを投げたのだ。
目のいいミシェルが大きく空を見た。月光に輝く何かに、エレナと桜蘭もミシェルに続く。
……そして、何かをエレナがキャッチした。海水がちょっと飛んでしょっぱかった。
エレナの手には、やんわりと虹色に輝く大きな丸鱗があった。傍にいた桜蘭とミシェルもそれを覗き込む。丸鱗は半透明で、プラスチックとガラスの間のような質感をしていた。
顔を上げるも、海面は穏やかなものだった。
「……お礼かな?」とミシェル。
桜蘭もまばたきひとつ、ミシェルに同意する。
「かもしれませんわね。とても綺麗な鱗ですわ、なんだかエレナさんのレンズに似てます」
エレナがふむと見て、ぽつりと呟いた。
「……今回一番頑張ったで賞は~……」
エレナ達が一斉にロレンツォを見て、満場一致に頷いた。目を丸くするロレンツォにエレナが微笑み返す。
「渡してくる!」
エレナはミシェル達に言いもって、ロレンツォの元へと走っていった。
桜蘭がそれに目を細める。そして、囁くようにぽつりと呟いた。
「……マリア叔母様にどう説明されますの? 私の口からはとても……」
胴上げしながら騒ぐバーディアン達をよそに、ミシェルが海風になびく髪をかきあげた。
ミシェルは応えない。ただ静かに、エレナとロレンツォを見つめていた。
……・……
お祝いムードの中、ミシェルからスマホを受け取ったエレナは着信履歴に舌打ち一つ。
履歴には〔マリア叔母さん〕の名があった。帰宅すればお小言のオンパレードなのは目に見えていた。エレナの心が鉛のように重くなる。
「これから打ち上げしませんか? いい和食の店があるんですよ」
上機嫌な高橋に、エレナは首を横に振った。
「せっかくだけど帰るわ、明日も学園だしね。報酬の話はまた今度に」
ハーデス製鉄所の門前で、ロレンツォは明杰の愚痴をうんうんきいていた。
明杰の片言の言葉は聞き取れない部分も多々あったが、なんでもこれからエレナ達を送った後、桜蘭の母親にしこたま叱られる予定があるらしい。アウルエッグの件しかり、しりぬぐいはいつも自分だとさめざめ嘆く。
当の桜蘭は車内でのんびり紅茶を傾けている。なんともしれっとしたものだった。
「お前も苦労してんだなあ」と、ロレンツォが明杰の肩を叩いてやる。
そして、さてとエレナ達を見た。高橋の誘いを断ったエレナが、ちょちょいとロレンツォを手招きする。
何事かと思えば、エレナはロレンツォの袖を引き、そそと門の影に引っ張り込んだ。
「なんだよ、トイレか?」
「ばか、違うわよっ」
エレナは内緒話を伝えるように、ちょいちょいと指で招いた。何事かと少しかがんだロレンツォの頭を、飼い主のように撫でてやる。
ロレンツォはまた心臓が痛くなったが、そんなもん気のせいだと心の底に押し込めた。
「いい子。バーディアンが突撃したとき、守ってくれてありがと」
エレナの柔らかい笑顔眩しく、ロレンツォは「そんなことしたっけな」と軽くすっとぼける。おもちゃの指輪が、ロレンツォの癖毛に軽くひっかかった。
遠くでじっとこちらを伺う高橋の目に、ロレンツォはとっさに頭をあげた。
「やめろやめろっ、ガキが大人を撫でくり回すなバカ」
ぶっきらぼうに返すが、その耳がすっかり赤い事にエレナは小さく笑って見せた。そして改めて、ちゃんと向き直る。
「今回のごほうび、何がいいか考えててね」と。
ロレンツォは言葉を断つように咳払いし、さてと腰に手をやりエレナを見た。
「ガキにタカれるかっての。それより何かあったのか? さっきから浮かない顔して」
予想してなかった返しに、エレナは虚を突かれた。顔に出したつもりはなかったが、着信履歴で気分が落ちているのは確かだからだ。
エレナはご機嫌に笑って見せた。
「別に? じゃあまた明日、学園でね」と可愛く投げキッスに踵を返す。
ロレンツォはなんともスッキリしない気持ちで、ミシェル達のもとに戻っていくエレナの背を見送ったのだった。
……・……
黄金色に輝く億ションが夜闇にそびえ立つ。
桜蘭を乗せた明杰の車を見送って、エレナは自分の家を見上げた。
ロビーでは、SP達が敬礼でエレナ達を出迎えた。SPの耳打ちに軽く頷いたミシェルが、エレナの背にそっと手を添える。
「マリアが来てるみたい。あたしも一緒に行くよ」と。
SPを両サイドに構え、リビングのソファに鎮座するマリア叔母さんは女帝のようだった。
美貌を拒絶するように短く刈られたプラチナブロンドに、エレナと同じ新緑色の瞳が射抜く。
「今朝、ラペリーノに異性を連れ入ったそうね。どういうつもり?」
エレナの叔母、マリアは開口一番そう言った。
エレナはうんざりに荷物を置きもって、わざとらしく舌打ちを返す。
「うざ。帰ってくんない? おあいにくさま、私は暇じゃないの」
空気がピリつき、SP達もミシェルも石のようだ。マリアはエレナの暴言にどうということなく返した。
「あの下品な男に買い与えたスーツ一式が、誰のお金か考えた事あるのかしら?」
下品な男という言葉に、エレナはなぜか無性に腹が立った。エレナは罵声にもにた声音で、間髪入れずまくしたて返す。
「誰の金って、あんたの金だとでも? 死んだ両親の遺産よ。義務と権利と責任は全くの別物。私の金は私の権利、でも相続は義務じゃないわ。気に染まないならぜひ婚約破棄しましょうって何度も何度も言ってるでしょ? 今すぐだって大歓迎」
マリアは静かにエレナを見据えた。落ち着いた、しかし威厳のある声音で一言一句きっぱりと言いおさえる。
「あなたの生活すべてを支えているのは、あなたの婚約者であるイルミナ会長のお金よ。あなたはそのお金で、よその男に貢いだ。それがどういう事かわからないと? いいことエレナ。正室として、イルミナの後継者たる自覚をもちなさい」
それにエレナはハイ出ましたというように両手を大きく振り下げ、言いつけるように人差し指を床にさす。
「じゃあ、イルミナ会長を今ここに連れてきなさいよ。ぶっ飛ばしてあの世で後悔させてやるわ!」
その言葉に、マリアの視線が動いた。ぎりと奥歯を噛み、静かな怒りの目でミシェルを横目見る。
「……ミカエル、お前がいてなんたる失態」
刺すように言い抑えたのはエレナだった。
「ミシェルは関係ないわ。私の目を見なさい。すぐに!」
それでもマリアは応えない。とっとと帰る支度をし、顎で指示をうけたミシェルは歯がゆげにマリアについていくしかできなかった。
「おいババア逃げんな!」
エレナの怒号を完全無視まま、マリアはミシェルを連れて出ていった。その背につっかかろうも、SPに次々と間を遮られる。
「申し訳ございません、エレナお嬢さ……」
SPが言い終える前に、エレナはSPの顔面を大きく殴り飛ばした。大きくぶっとんだSPは他のSP達に抱えられ、マリアに続いて家をそそとあとにする。
静かな家にエレナはひとり、拳をかたく握りしめた。
マリア叔母さんがミシェルを叱責するのは目に見えていた。それをとめることができない自分に腹が立つ。
エレナはマリアが座っていたソファ……かつてMIBが眠っていたソファを思い切りに蹴っ飛ばし、かたく奥歯を噛んだ。
その目はかつての幼さもや弱さは一切なく、純粋な怒りに満ちていた。
……・……
マリアとミシェルを乗せた高級車が、静かに街を抜ける。
まるでホテルの一室を思わせる車内は、革張りのホワイトソファがやわらかいライトをうけていた。
ミシェルは静かに自分の足をみていた。エレナに出会う前のように、闇も光もない無機質な瞳だ。
それにマリアは小さな溜息ひとつ。
「……私にはね、エレナをあのままイルミナに連れ帰る選択もあったのよ」
ミシェルの瞳は動かない。
マリアは鞄から分厚いファイルを1冊抜き、物言わぬミシェルに突き出した。それは、ロレンツォの調査書だった。
ロレンツォの交友関係や行動傾向、視力や家族の写真までクリップされてある。
「エイリアン・バスターズだのくだらない遊びには多少は目を瞑りましょう。でも男遊びと会長への侮辱は赦されないわ、お前も冷静になりなさい」
ミシェルはちらと、マリアの鞄をみた。聖イルミナ医院のファイルが見える。目のいいミシェルは、それが不妊治療の診断書だと理解した。
病院ついでに立ち寄ったのだろうとミシェルは思った。イルミナ生命工学研究所より、聖イルミナ医院の方が経験豊富な医師が揃っているからだ。
そして今回もまた〔だめ〕だったのだろうと。
信号待ちに、マリアは窓の外の夫婦をぼんやりと見ていた。
何度も何度もからっぽになってしまうお腹にそっと手を当て、幸せそうに笑う夫婦を亡霊のように見つめる。
「……こどもを産むことがそんなに偉いのかしら。この世を制したような顔をして……」
ミシェルは応えなかった。マリアの悲しみも、エレナの苦しみもミシェルはずっと見てきたからだ。
それは誰が悪いわけでもない、理不尽な悲しみだった。
……・……
ロレンツォは帰宅するなり、熱いシャワーを浴びた。
今日はやたら密度の濃い一日だった。早朝突撃、ラペリーノ&ラペリーノ、ハイウェイオアシスに、ハーデス製鉄所のメルガー伯爵……
やはりエイリアン・バスターズは体力が基本らしい。今寝たら泥のように爆睡できるだろう。
その分、風呂上りのビールは格別だった。
TVをつけ、ソファに深く腰を落とす。デスクにはエレナが忘れたお土産袋と、ふわふわな犬のぬいぐるみのキーホルダーがあった。
キーホルダーをそれとなく手にとり、〔この犬、何だかセンセーに似てない?〕と笑っていたエレナの顔を思い出す。
綺麗に片付けられたキッチンを見て、ふと椅子にかけられたエプロンに目がいった。
(……そういえばあいつ、サービスエリアで買ったお土産袋も助手席に忘れたままだったな。)
デスクに置かれたお土産袋は、ぱっくりと口が開いていた。お土産はラッピングしてあるが、エレナが自分のために買ったものは丸見えだ。
ロレンツォはビールを置き、人差し指をひっかけちょっと覗き込んでみた。中には可愛いペンとちょっとダサいハンカチ、それとふわふわな犬のぬいぐるみのキーホルダーが見える。
それに、ロレンツォはちょっとフリーズした。なぜ自分にくれたものと同じキーホルダーが中にあるのか?
ロレンツォはそれ以上深く考えるのをやめ、ビールを仰ぐように飲んだ。……飲んで、両手で顔を覆って大きな深呼吸ひとつ。
〔この犬、何だかセンセーに似てない?〕の花のような笑顔を思い出し、すっかり顔が赤くなる。
〔まったく、困ったわんわんね〕と微笑む笑顔や、気丈なのに脆く、顔を隠す癖。
大人顔負けに振る舞うと思えば、ガキっぽい指輪や筆記用具に喜んだり。ゴリゴリに強いと思えば、マーフォークの亡きがらに静かに涙したり。優しく、頭を撫でてきたり。
顔が熱いのは風呂上りだし酒を呑んだからだ、とロレンツォはすっかり空になったビール瓶をデスクに置く。
初めてあった時の涙を、弱々しく涙を落としていたあの顔を、忘れた事は1日だってないのだ。
「……ガキ相手にバカか俺は。彼女をつくろう、……うん。それがいい。こりゃただの欲求不満だ」
ロレンツォは払拭するようにスマホを手に取る。ジャンとのトークルームを開き〔今度飲みにいかないか? 可愛い子がいたら紹介してほしい〕と流れるように文字を打った。フットワークの軽いジャンは一つ返事だろうし、誘えば女の子も3~4人は都合がつく猛者である。
いざ送信ボタンを押そうとした時、エレナからの着信に仰天にスマホを落としそうになった。慌てて持ち直し一呼吸おいてから、通話ボタンを押す。
「何だ?」
ベッドで不貞腐れていたエレナは、「なんだとはなによ」と口先を尖らせた。
「ごめんねセンセ、そっちにお土産袋忘れてると思うんだけど」
『ああ、エプロンもな。明日部室に持ってく。もういい時間だから早く寝ろよ』
エレナはごろりと寝返りをうった。
「エプロンは置いといてー。お土産袋、今から取りにいっていい?」
それに一瞬間があった。
『バカ言え、ダメに決まってんだろ!』
「ははは。ちぇ、ケチ」
(あ、電話がおわっちゃう……)
エレナは名残惜しくスマホを握った。
「あのね、センセ」
『なに』
「……もうちょっと、電話しててもいい?」
『ああ』
ロレンツォはベッドに座って耳を澄ませた。手のふわふわな犬のぬいぐるみのキーホルダーを手に、少し目を伏せる。
なぜかエレナが泣いている気がしたのだ。
今、どんな顔をしてるんだろう? どこか悲しげな声色の原因はなんだろう?
寄り添えるほどの関係ではないことが歯がゆかった。小さく鼻をすする音がきこえた気がして、ロレンツォはスマホを少し強く握る。
「……、そういや冷蔵庫に食材が山のように入ってたけど」
『経費内よ。次はもっとおいしいの作ってあげる』
「へいへい、交換条件がなかったらな」
まんざらでもない返事にエレナが思わずほころぶ。
担任から〔パッツィーニ先生はトマト好き〕と耳にしたエレナは、一生懸命トマトパスタを練習したのだ。
作ってる合間も、失敗しませんようにと緊張でどきどきしていた。だって失敗したら、調査に誘い出す口実が無くなるからだ。勤勉な自分にうんうん頷く。
「センセーのCDラック、色んな曲があったね。おすすめとかない?」
エレナは言いもって、リビングへ移動した。パンが寝ていたソファに腰を落とす。
1年前は、ずっとここで寝ていた。いつかMIB達がふらりと帰ってくるんじゃないかと毎日願っていた、遠い昔の話だ。
ソファーが柔らかく沈み、エレナが膝を抱える。
『CDなー。けっこう偏ってるけど、それでよけりゃ』
「ほんと? 私もオススメ持ってくね」
神様に想いが届いたのか、ロレンツォがなかなか電話を切らないエレナに諦めたのか、日が変わっても通話は繋がったままだった。
…
朝日がリビングを照らす。
すっかり寝落ちしていた事に気付いたエレナは、大きく背伸びをした。
スマホをスワイプし、ロレンツォからの〔おやすみ〕の文字に耳がじんと熱くなる。
エレナはその文字をじっと見つめた。なんともいえない甘酸っぱい気持ちだった。くすぐったいような、春の花びらで胸がいっぱいになったかのような感覚だった。
小指で光る、福引の指輪をそっとなぞる。
この気持ちの正体を、自分は知っている。だけど言葉にするのは怖かった。