4-2:アウルエッグ
車を走らせること5時間。
外はすっかり闇のとばりに包まれていた。
山をぬい、いくつもトンネルを抜け……緑の世界が広がるに比例するように家数はどんどん減り、田畑ばかりの山間部が広がっていく。
山の色がかわるほどの走行距離に、ロレンツォはうんざりしていた。
道中に寄ったガソリンスタンドも、無人の廃れたものだった。行き交う車もバイクもない。道中、轢かれた鹿や狐がちらほらある程度で、あとはひたすら山と道だった。
今にも熊が飛び出してきそうなうっそうとした森に見下ろされ、ロレンツォはここまで車を走らせた事を後悔していた。
やがて月が真上に差し掛かった頃、ようやく民家の光が顔をのぞかせる。
「……冗談だろ、ジャンの奴。こんなド田舎の村に何の用があるんだよ」
ロレンツォは、舗装も申し訳程度の砂利道に揺れる車内で、ボヤくようにひとりごちた。
ジャンが電話で伝えた、ここド田舎の代名詞のような村は、とんでもなくでかい山々に囲まれていた。
古きよき家々といえば響きのいい、無駄にでかいボロ家と無駄にでかいだけの田畑の箱庭だ。民家以外にあるのはショボい薬局とささやかな小型スーパー程度、あとはとにかく山、山、山……まったく気が狂いそうなほどのクソ緑の大自然だ。
今にも朽ち果てそうな街頭が夕日のように、もの寂しく割れたアスファルトを瞬き照らす。まばらな家々の明かりは星の輝きよりも小さかった。
その先で、ぽつんとあたたかな光を見た。
やかましい虫の鳴き声にうんざりしつつ、ロレンツォはおもむろに脇に車を停め、光に惹かれるように歩を進めた。夏ならではの生ぬるい濃密な空気に、夢をみているような気分になる。
夜闇にまぎれ気付かなかったが、それは村の規模には不釣合いの巨大な建物の灯りだった。
広場では賑やかな声と古臭い音楽が流れ、肉の焼けるいい匂いが鼻をくすぐる。ロレンツォは羽虫のように、その光に歩を進めた。
灯りはどうも町内会の集まりというか、祭りのようだった。
駐車場のど真ん中名には、見た事もない大きな櫓があった。
櫓はピラミッドのように組まれ、てっぺんに火が灯っている。そのまわりを取り囲むように、たくさんのバーベキューコンロが肉を焼いていた。
老人達がご機嫌に酒を酌み交わし、子ども達はそばの小さな公園で元気に遊んでいた。
その内の数人が、場違いに棒立ちのロレンツォに気付き、まるで親戚のようににこやかに手をふる。
その中に、ジャンの姿もあった。
「エンツォー! よく来たな、こっち来いよ!」
ジャンはご機嫌にそう言って、戸惑うロレンツォの肩を抱いて祭りへと引き込む。ロレンツォは安っぽいパイプ椅子に座らされ、掴まされたグラスになみなみとビールが注がれた。
「なんだこれ、祭か?」とロレンツォ。
ご機嫌な町民達が次々と焼きたての肉を紙皿へ乗せていく。肉は旨そうな音をたて、ここぞとばかりに肉汁が溢れていた。ジャンはご機嫌に皿を次々と突き出す。
「まあ呑めって!」
すっかり疲れていたロレンツォがビールに唾をのむ。とりあえず進まれるままに1杯飲んで、グラスを置いた。
乾いた喉とすきっ腹に染み渡るビールは、想像以上に旨かった。一気に酔いがまわるのがわかる。
正直なところジャンを1発ぶん殴りたい気分だったが、冷えたビールですっかり流れてしまった。
「ジャン、お前どうしてこんな所にいるんだ? このへんに親戚とかいないだろ」
ジャンはご機嫌にロレンツォのグラスにビールを注ぐ。
「ああ、家族ならここにいるんだよ。まあ食え食え、長旅で疲れたろ」
「家族? お前、実家はトリプリシティじゃ……」
ちょうどその時だった。祭りの音楽が何やら大自然を彷彿とさせる曲に変わる。
ジャン含む若者達が、それを合図に櫓の周りにそそと集まり始めた。音楽は輪をかけて大きくなる。手を繋ぎ踊る姿は一見マイムマイムのようだったが、まるでお祈りのように穏やかな動きだった。老人達はそれを微笑ましく見つめている。まるで花火でも見るかのように、ゆったりと内輪を揺らし目を細めていた。
ロレンツォはそこでふと気付いた。皆、日本の〔作務衣〕に似た衣装に身を包んでいる。
いずれも淡いパステル系で、男はブルー、女は薄いピンク、老人はくすんだ黄色、そして子どもは白を着用していた。
ジャンも例に漏れず、ブルーの作務衣に身を包んでいる。
そして全員、金色の丸い石が豆電球のように輝く、白いチョーカーをつけていた。
「これはアウル様のカーニバル。ひらたくいえば町内バーベキュー大会」
ふと隣の声に振り向くと、いつの間にか隣に座っていた女性が、にこやかにロレンツォを見上げていた。
20代半ばだろうか、黒のショートボブが似合う、琥珀色の瞳の女性だ。ただ1人だけチョーカーがなく、青銅色の作務衣を着ている。
ロレンツォはその女性に驚いた。とても綺麗なのだが……どこか冷たくて、まるで精巧なマネキンのような妙な違和感がある。
「アウル様のカーニバル?? なんだそりゃ」
とロレンツォ。まさか妙なカルト宗教じゃないだろうかと頭をよぎった。
女性は笑顔で小首をかしげてみせた。なんともカワイ子ぶったあざとい動きだ。
「といっても、そのアウル様が私なの。こう見えて地主です。お前はジャンのお友達なんだってな。どうぞよろしく」
ロレンツォは、女性ことアウルに「はぁ、どうも……」と軽く頷く。差し出されたアウルの白い手は、まるで爬虫類のようにひんやりと冷たかった。
カーニバルも盛り上がり、かなりいいかんじに酔いがまわったころだった。
アウルは当然のようにロレンツォの腕に絡まり、おねだりするように上目遣いにロレンツォを見上げた。おまけに、わざとらしく胸を押し付ける。
「ねえロレンツォ。今夜は私の部屋に泊まりませんか? もっと話をしよう」
ロレンツォはダイレクトな据え膳に驚いたものの、頭のすみに残った理性ままに「いや、結構です」ときっぱり返した。
アウルは残念そうに指先でロレンツォの腕をつつく。なんともいじらしい仕草だったが、まったくピンとこなかった。
どこか演技くさいというか、アウルへの違和感が理性を保たせる。酔いきるのは危ない気がしてから、酒はみるみるひいていったのだった。
……・……
「酒も入ってるし、今日は泊まってけよ」
祭の片付けを終えたジャンは言って、村の規模には不釣合いの巨大な建物を指した。
ロレンツォはその先を大きく見上げた。見た目は大きな学校というか巨大役場というか、象牙色のそこはいかにもな公共施設だ。
「……お前、ここに住んでるのか?」とロレンツォ。ジャンの返事を待つことなく続けた。「いつ実家に帰るんだよ、職場にも連絡しないとクビになるぞ」
ジャンはちょっと目を丸くして、おかしげに笑い返す。
「いやいや、俺ここで仕事してんだよ。退職届も出しといてくれって書き置きしてたんだけどなー」
言って、まるで我が家に案内するように大きなガラスのドアを開ける。「ま、とりあえず部屋でゆっくり話そうぜ」
いつものジャンだ。ロレンツォは訝しげに思いつつ、ジャンのその言葉に甘えることにした。
中はいかにも公共施設で、どことなく病院に似た空気が漂っていた。
壁の張り紙は〔畑作業の当番表〕やら〔今月の献立〕が貼られてある。ぺったんこのビニールスリッパを鳴らしながら、ロレンツォはあたりを見た。
驚くほど中は広く、ジムのある室内競技場やら温水プール、ちょっとした喫茶店や図書館、それにヨガ教室まであるようだ。
暗闇で外観のすべては見えなかったが、ここはどうやらかなりの規模の総合施設らしい。少なくとも、セリオン学園よりはずっと大きいだろう。
さきほどまで祭りでドンチャン騒ぎをしていた青年達が、飲み足りないのか自販機前で談笑している。
老人達は湯上りだろうか、風呂桶を傍らにのんびりとボードゲームを楽しんでいた。夜間だというのに、まるで昼間のように賑やかだ。
やや人がまばらになり、小児科病棟のような通りに入る。象牙色のライトがあたたかな印象だ。
それを横目、ロレンツォは先を行くジャンの背に言った。
「夜中までやってる総合施設ってあるんだな」
「ん? 施設じゃないよ、ここは皆の家」
「え? 何だって? 家?」
ジャンはそばのドアに手をかけ、ドアを開けた。
中は6畳ほどの空間だった。簡素なベッドとソファ、あとは細長い窓があるだけのシンプルな空間だ。
「そ。ここで暮らしてんだ俺。仕事は農作業とか建築作業とかー……あとは工芸品を作ったりしてるかな。自給自足生活でさ、3食出るし規則正しい生活ができる。なかなかいいところだよ、お前も講演会に誘えばよかったなぁ」
ロレンツォがはたとした。薄々感じてはいたが、ド直球に口をつく。
「……ここ、宗教施設か?」と。
その言葉にジャンがおかしげに笑い返す。
「そんなんじゃないって。セミナーがたまにあるだけで、ここは【アウルエッグ】っていう共同生活所」
屈託のない笑みに、ロレンツォは罰が悪そうに頭をかく。
一般的な宗教団体ならともかく、よりによって【アウルエッグ】。……こないだニュースでやってたカルト教団の名前だ。
ニュースいわく【アウルエッグ】は何でも信者を監禁・洗脳し、その子ども達にも強制労働をさせているらしい。
教団内での私生児問題や、信者の人権を無視した財産の搾取など……とにかくいい話題ではなかったのだけは確かだ。
〔信心あれば救われる。人類みな兄弟〕とかいいながら、とにもかくにも金、金、金。
信者の保険も徹底的に使われ、車や家や土地までも巻き上げる〔金の切れ目が縁の切れ目の課金教〕という印象しかない。
なんだかんだで結局は、信者からしっかり集金するビジネス教団なのだ。
「お前さ、ここに就職する時、お布施とかいって通帳とか現金とか渡したんじゃないのか? 保険とか組まされたりさ」
ロレンツォの引き気味の声色にかまわず、ジャンはアホみたいな笑顔でうんうん頷く。
「ああ、それが【アウルエッグ】の繁栄に繋がるんだ、寄付すれば家族の皆が過ごしやすくなる。みんなでみんなを、が【アウルエッグ】の信念なんだぜ。家族だからこそ、心から支えあわないと」
ロレンツォは頭を抱えた。
ああもうこの大馬鹿野郎め。こいつはこんなに頭が足りない奴だったろうか?
さっきまでアホみたいに酒を呑んで肉を食ってた自分を殴り飛ばしたかった。いや、ジャンを殴ってでも連れ帰るべきだった。
こいつはわかっていないのだ、自分の承認欲求を満たすためだけに、どれだけこれまでの信頼をドブに捨てているか。
「洗脳されてんだよお前……わからないのか、自分がおかしいこと」
それにジャンはおかしげに両手を広げて見せた。
「だーいじょうぶだって! よくみろよ。……俺さ、今までろくな事なかったんだ。
上司のパワハラに部下の嫌がらせ、彼女にもふられて、八方塞だった。そんな時、アウルエッグの存在を知ったんだ。
アウル様は、ダメな俺をありのままでいいと受け入れてくれた。俺はここにいていいんだって、女神みたいにほほ笑んでくださった。
洗脳じゃなくてさ、ここは純粋に居心地がいいんだ。……本当に、心のふるさとなんだ。仕事ばっかで家庭に無関心の親父もいねー。頭のイカれた引き籠りの兄貴に言いなりの母親もいねー。ここじゃ皆平等だ」
「おま……どうして相談してくれなかったんだ、親友だろ」
驚くロレンツォに、ジャンは大げさに手を振ってからからと笑い返す。
「言えるわけないじゃん。今だって俺のこと見下してるじゃないか。っていうか、昔からそうだよな、お前って。
ボーイスカウトのバッヂの数、トライアスロンのタイム、童貞を捨てた時の年齢、通知表の結果、資格の数、就職先……さんざん数字を自慢してきてさあ。普段の会話もナチュラルにマウントとろうとするじゃん。気持ちよくなりたいがために他人を見下す癖がついてんだよ、どんだけ自分に自信がないんだ? 本当、お前は笑えるくらい変わらなくてビックリするぜ」
「……なに、言って」
見透かされた言葉にぎょっとして、言葉に詰まる。
言われれば確かに、小学校の頃から自然とジャンを引き合いにしていた。〔すげえ〕というジャンが、絡んでくるのが嬉しかった。
恥ずかしい話、狭い世界でそれが自分の自信になっていたのだ。
人間として未熟だった自分せいで、ジャンをずっと傷つけてきたのだと思うと胸が苦しかった。
(……俺はなんてくだらないもので、どれほどこいつを踏みにじってきたのだろう。ジャンの気持ちを理解しようともせず、何が親友だ)
「待ってくれ、ジャン、俺は……」
口火を切ったロレンツォを抑えるように、ジャンはご機嫌にロレンツォの両肩を叩く。
「いーのいーの。とにかくここにいる人、みんなが幸せなんだから。たとえアウルエッグが俗世になんて言われててもな。
ま、ここを知らない奴がどう言おうが机上の空論だよ。ふるさと悪く言われて、いい気分になる奴はいねーけどさ」
明るく言って、ソファのクッションのチャックを開けた。中から取り出したブランケットを広げる。
「そういや明日、アウル様がお前に〔目覚めの儀式〕をしてくださるんだってよ。お前もわかるよ、本当の自分ってやつがさ。今度こそ……ちゃんと親友になれるよな、俺たち」
ロレンツォは言葉を失った。子どもの頃から兄弟のように育ってきたはずなのに、どうしてこんなに変わってしまったのだろうかと思う。
穏やかに微笑むジャンの目は悲しげで、どこか手の届かない遠くにいるように感じた。
ちょうど、その時だった。部屋の照明がふと暗くなり、スピーカーからオルゴールが流れ始める。
〔22時。消灯の時間になりました……おやすみなさい…22時。消灯の時間になりました……〕
抑揚のない放送が流れるなか、ロレンツォは自分の膝をじっとみていた。
(カルト教団と言われているけど、ジャンにとってここが安心できる場所で、何より幸せなら……それがいいんじゃないか?)
ロレンツォは沈むような腹落ちに目を伏せた。人の幸せは、人の数だけあるのだからと。
走馬灯のように、ジャンカルロとの思い出が沸きあがる。一緒にトライアスロン大会に出場したこと。ボーイスカウトで一緒に勉強したこと。
(そうだ、俺たちは小さい頃から兄弟みたいに育ったんだ。たとえ離れていても、その事実は変わらない……)
「おやすみなさい、アウル様ーッ!!」
ジャンの突然の声に、ロレンツォの思考が断たれる。
ジャンは手元のブランケットを落とし、みょうちきりんな祈りのポーズで声を上げはじめる。
「今日も一日、幸せです! 幸せです! 明日も皆と手を繋ぎ! アウル様のもと幸せに眠りまあす!」
照明はどんどん暗くなり、部屋は闇に包まれる。細長い窓から漏れた月明かりがジャンの暗闇のシルエットを作った。シルエットは妙な動きで声をあげている。
隣室、そのまた向こう、とにかく全室からジャンの言葉そっくりそのままの大合唱が闇に響く。
「「「今日も一日、幸せです! 幸せです! 明日も皆と手を繋ぎ! アウル様のもと幸せに眠りまあす!」」」
ロレンツォは愕然とジャンを見た。異様にハイな笑顔のジャンに鳥肌がたつ。
(ダメだ。こんなのダメだ。ジャンを救い出すには……俺一人じゃ無理だ!)
やがてお祈りの波が終わり、ロレンツォはかたく握りしめた拳をゆるめ、小さく深呼吸をした。
「……ちょっとトイレ行ってくる」そう言って、荷物を抱えた。
「荷物は置いてけよ。一緒に行こうか?」
ジャンの声が返る。すっかり消灯したせいで、その表情は伺えない。
「ガキじゃないんだから一人で行ける。ていうか痔なんだよ、薬とか一式鞄にいれて持ち歩いてるから。トイレどこだ?」
実際のところ痔なった事は一度もないが、我ながらなかなかのいいわけだ。
「そりゃ大変だな、トイレは出て左だよ」
ロレンツォは頷き、悟られないよう部屋を後にした。
まるでトンネルを突き進むようだった。わずかな窓からほんのり入る光以外は、全くの暗闇だ。
廊下もすっかり消灯されていて、さっきまで賑やかだった町民達の姿は一切ない。それがあまりに異様で怖かった。
トイレを過ぎ、温水プールわきを過ぎ……足早に入り口まで辿りついたものの、案の定、扉はしっかり施錠されてある。驚いたことに最新の電子ロックだ。
内心に舌打ちしたその瞬間だった。
「眠れない?」
背後の声に、心臓に冷水を注ぎ込まれたような感覚が走る。肩越しに振り返ると、いつのまにか現れたアウルが小首をかしげていた。
「一緒に寝ようか」
目を細め、口角を上げたアウルがロレンツォを見上げる。
「や、車に忘れ物してさ……」
「痔の薬?鞄に入れてなかった?」
なんでその事を知ってんだよ! と心内叫んだロレンツォが苦笑する。
「ああ、邪魔だから車に置きっぱなしにしてたんだ。取りに行くから開けてもらえないか?」
「じゃあ、鞄はいりません。いってらっしゃい」
アウルがロレンツォの鞄を当然のように手に取る。それと同時に、電子ロックが解除される音が響いた。
ロレンツォは軽く頷き、のん気な足取りで外に出た。
(……鞄を人質にされた。脱走を疑われてるんだ)
あえて走らず、まるで近くのコンビニに行くように歩いた。背後の光がどんどん遠くなる。それでも背に刺さる視線は痛いほどだ。
なので、あえてのんびり歩いていった。比例して、心臓はばかみたいに跳ね、脂汗が背を伝う。
やがて、林の大きなカーブにさしかかり……死角に入ってすぐの事だった。
(……っこの位置なら教団施設から見えない!)
ロレンツォは堰を切ったように走り出した。
うかつだった。妙な祭りの時に、肉と酒の誘惑に負けず引き返していたらよかった。幸いな事に、人質にされた鞄には財布やハンカチくらいしか入ってない。カードケースは肌身離さず尻ポッケに突っ込んである。
(ともかくセリオンに戻って、ジャンを救い出す対策をしないと……! 捕獲されたらジャンみたいに洗脳されちまう!)
農道わきにとめたオンボロ車が、黄金のように輝いて見えたのは初めてだった。飛び込むように乗り込み、キーを廻す。幸いな事に1発でエンジンがかかった。
しめた! ロレンツォはハンドルを切り、そのままUターンして暗闇の山道へと突き進む。そのまま振り返ることなく、深くアクセルを踏んだのだった。
(俺一人じゃだめだ。セリオンに戻ったら、ジャンを救い出す計画を立てないと……)
「……必ず救い出すからな、ジャン」
ヘッドライトが闇を裂く。夜の森を抜けるロレンツォは噛み潰すように小さく呟いた。
遠くに消える車のライトとエンジン音を確認したアウルは、百も承知に目を細めロレンツォの車を見送る。
月がやけに光る夜だった。森の闇はどこまでも深い。
まるで深海におちていくように、ロレンツォの車は闇に飲まれていった……
……・……
大きな庭を一望できるジムで、エレナはベンチプレスを下ろしタオルで汗を拭いた。
ここセリオンジムは、最新設備の揃ったいいジムだ。
特に依頼のない日は、学園帰りにそのままジムで汗を流すのがエイリアン・バスターズの日課だった。
最初こそナンパが鬱陶しかったが、師匠である黒金が睨みをきかしてくれたおかげで穏やかなものだった。しつこい男もいるが、最近では遠巻きにガン見程度で収まってきている。
そんなジムで一通りのメニューをこなし、エレナは休憩がてら自販機へと足を運んだ。青色のベンチに座り、ゆっくりとストレッチに身体を伸ばす。ちょうどその時だった。
ふと足元が大きく陰り、エレナが溜息一つ顔を上げた。眼前に、自らの筋肉を誇示するマッチョが、蛍光灯の光を背に鼻息荒くエレナを見下ろしている。
「今日こそはアドレスを交換してもらうぜ、ニャン娘!」
ニャン娘ことエレナは、目の前で息巻くインストラクターにうんざりのため息をついた。ミシェル達の目を盗んではしょっちゅう声をかけてくるのだ。タフというよりは打たれ強い馬鹿だ。
一般的にはイケメンなのだろうが、やたらアピールしてくる筋肉もパンに比べたら雑魚以下の出来損ないだし、エレナからしたら小娘に下心丸出して求愛するオッサンに過ぎない。
(またナンパ! 自分程度がいけると思ってるのかしら? 見下さないでほしいわ)
エレナは舌打ちひとつ。ジムに通ってわかったことは、MIBはとんでもない体力と筋肉美をしていたということだった。MIBは魅せるための後付け筋肉ではなく、実践にむけて鍛え上げられた肉体だったことが今ならよくわかる。正直な話、MIBですっかり目が肥えていた。
エレナはうんざりに返した。「……別にいいけど」と。
それにインストラクターが大歓喜に声を上げる。その鬱陶しさにエレナがため息をついた。交換するわけないだろう、この欲求不満の脳筋め、と。エレナはすっくと立ち上がり、静かに言い添えた。
「ただし、私のヘアゴムがとれたらね」
ふと、ひとつ間があった。
インストラクターが皮切りに、ボクサーパンチの勢いに飛びかかる。風を切る音とは裏腹に、エレナはのんびりとそれをかわした。
インストラクターは無論本気だったが、エレナはシャボン玉のように次々と軽く身を流す。そのまま太い腕の力を流し、背中にひねり上げインストラクターの膝裏を軽く蹴った。
「はいゲームオーバー」
あっという間に決着はついた。
インストラクターは突如の膝カックンに、地面にしたたかに尻もちをついたのだった。
「フッ。女だから手加減したんだ。俺が本気を出せば可愛いニャン娘にケガをさせてしまうから……」
カッコをつけるインストラクターを、エレナは生ゴミにたかるゴキブリをみるような目で見下ろした。
「は? だっさ」と冷たく吐き捨てて。
その言葉にインストラクターが赤面に勢い立ち上がり、エレナを壁ドンに見下ろす。2人は比べればまるで猫と熊だ。
「俺のどこが気に食わない? イケメンインストラクターで雑誌にも出てるセレブだ。今月号にも出て……」
彼が言い終える前に、エレナはその顎に右フックをくらわせた。軽い脳震盪にブッ倒れるインストラクターを地面にまかせ、舌打ちひとつに背で語る。
「次はタマ潰すわよ」
「俺は諦めないぞ、ニャン娘~……!」
インストラクターは遠くへ消える愛しのニャン娘の背に、うっとりにラブコールを呟いたのだった。
エレナはロッカーを開けて、スマホを取り出した。部活でロレンツォが電話していた件が気になっていたのだ。
〔放課後の電話、大丈夫だった?〕
LIMEに既読がつくも、返事はない。
「珍しい、いつもは何かしらの返信があるのに」
エレナはため息に呟き、プライベートに首を突っ込みすぎたかな思いつつ、スマホをロッカーに戻した。
師匠である黒金に呼ばれたのはその時だ。エレナは一つ頷き、すぐさま鍛錬スペースへと向かう。
柔道場のような畳マットを敷いた鍛錬スペースでは、すっかりヘバッたミシェルが壁際で息を切らしていた。
その傍らで、桜蘭が濡れタオルをミシェルに当てている。今回も相当やられたようだ。
「次、お前だ。とっとと終わらせるぞ」
ジャージ姿の師匠こと黒金は、まるでコンビニに行くように軽く言った。
黒金の時間が空いてるときは、エレナ達はそれは厳しい鍛錬を受けていた。通い始めは片手で軽くいなされていたものだ。片足でくるりと天地をひっくり返された事だってある。
しかし1年。この1年で、黒金はしっかりと向き合って、エレナに構えるようになっていた。
エレナは軽く構え、親指を後ろにやった。
「あのインストラクターしつこい」
それに黒金は百も承知に軽く返した。
「ウォーミングアップになったろ」
「ショボすぎて肩慣らしにもなんないわ」
そして、始めの挨拶のない手合わせが始まった。射抜くような打撃や関節技にくわえて、投げ技でスペースに大きな音が響く。
「間合い、脇伸ばすな」と黒金。
エレナが奥歯を噛んで、大きく飛びのいた。その瞬間にかかる足払いにやや押される。
「側宙ディフェンス遅い」
黒金に大きく蹴られ、転がりもって受身をとる。ひとつ間があった。鼻血を流して息をきらすエレナに、黒金は棒立ちに腕を組む。
「時間がかかるほどデメリットも増えると言ったはずだ。先手必勝、3秒で殺せ。遊びでやってるなら帰るぞ」
なかなかの煽り文句だ。エレナは喉の奥の鼻血を飲んで、笑ってみせた。しっかりと構え、細く息を吐く。
「……1本とったら褒めてよね」
それに黒金が応えるように構えた。
「1発でも入れてから言え」と。
……・……
「クソッ!」
ガス欠にタイヤを蹴ったロレンツォは、叩くようにドアを閉めた。
走ろうも、ド田舎のガソリンスタンドは全て閉まっていたのだ。
意気込んで逃げ出したはいいものの、ほんの1時間程度で足止めをくらってしまったのだった。
いつ追っ手がくるかも知れない。ヒッチハイクしようも、山ばかりの山間部に車が通る気配はまったくなかった。
民家どころか建物すらない。完全な立ち往生だ。
「あ~……まいったな、行きはほとんど圏外だったけど……」
焦りつつスマホを取り出し、拳でガッツをつくった。山ばかりで圏外だったが、幸運な事に電波が1本立っていたのだ。
同時、エレナからのLIMEが鳴る。〔放課後の電話、大丈夫だった?〕と記載されていた。
事態を説明をしようとして、やめた。エレナ達を巻き込んでしまったらと思うと、安易に現状を伝えることはできなかった。
ロレンツォは既読無視し、すぐさま警察に電話をかけた。
3コール目でつながり、胸を撫で下ろしたかのように安堵したロレンツォは、ひとまずガス欠で立ち往生していることと、すぐにセリオンに帰らねばならないことを告げた。
しかし、これが仇となった。ロレンツォの想像以上に、アウルエッグの闇は深かった。
駆けつけた警察は、問答無用にロレンツォにスタンガンを突きつけたのだ。
ぶっ倒れたロレンツォの目先で、綺麗に磨かれた革靴がパトランプに光る。
「捕獲しました。これよりアウルエッグに戻します」
まるで家出少年を保護したような、慣れた手際だった。
警官の通信に絶望したロレンツォは縛り上げられ、まるで物のようにパトカーに押し込まれたのだった……。