3-4:実家と勤務外管轄手当
「ああ、このあたりでいいわ。ありがとセンセ」
やっと馴染みの道に降りた頃、時計の針は21時をとうに過ぎていた。
ロレンツォはひとつ頷き、路肩に車を停める。「そういやお前、家はこのへんなのか? 学区外だろ」
エレナはご機嫌に頷いた。
「このあたりに依頼人の家があるのよ。報告してからタクシーで帰るから、ここで解散で大丈夫」
「誰かの迎えは? ツンツン頭とか」とロレンツォ。
エレナは首を横に振る。迎えなんていないからだ。それを見たロレンツォはギアをドライブに戻した。
「俺もこのあたりに用がある。物のついでに送っ……」
言いかけふと固まり、咳払いひとつ。物申すように肘置きに腕を乗せ、きっぱりと言い切った。
「勘違いするなよ。もしここで帰して部長サンに何かあったら、顧問である俺に責任がくるんだからな」
くすぐったげに笑ったエレナは、得意げに目を細めた。
「ご心配なく、変質者くらい叩き潰せるわ。それとも送り狼かしら? センセ」
ロレンツォは目の前の女狐にフンと鼻で笑ってやった。そう毎度すかされてたまるか。
「なーにが送り狼だ。こないだ下水で物騒なモン見たばっかだろうが。どこに犯人が潜んでるかわかってないんだ、大人しく送られとけっての」
言って、ハンドルをまわした。
それにエレナはなんだか胸の奥があたたかくなるのを感じた。どこかくすぐったいような、不思議な感覚だった。
車を走らせすぐのこと。エレナがポケットの地図を見て、遠くの信号を指さした。
「依頼人の自宅は24番地の6よ。すぐそこでしょ?」
その言葉にロレンツォがまばたきひとつ。
「なんだって? ……依頼人名は?」
「ナディアっていう女子大生」
エレナはふとした。ロレンツォは帰り際、このあたりは地元だと言っていた事を思い出す。
「センセ、もしかしてナディアと知り合い?」
言って、ロレンツォの横顔を見た。ロレンツォは苦虫をミキサーにかけて一気飲みしたような面持ちでハンドルを握っている。
「知り合いも何も……」
そう歯切れ悪く言って、それきり黙りこくってしまった。
エレナは思案にふけるロレンツォから、きっとナディアが元カノではないかと考えを巡らせた。
地図に視線を戻したエレナが咳払いひとつ。
「ええと、ナディアの自宅は確かに24番地の6よ。そこの公園を左折……」
「どんな依頼だったんだ?」
かぶせるように言うロレンツォが、自然とスピードを落としてちらりとエレナにせっついた。
「ああ、接近遭遇CF-Ⅳ・エイリアン接触後対策依頼よ」
「CF……なんだって? エイリアン?」
「ハイネック分類。センセーってば、顧問なんだから活動用語くらい把握してよね」
「だから、なんだそりゃ。その……ハイネックなんちゃらエイリアンなんたらが依頼内容か?」
言ってるそばから、依頼人の自宅前に到着した。
青々とした芝生の庭に、どこかあたたかみのある白壁やラティス。エンジェルグリーンの屋根が夜に映える。丸窓が可愛らしく、喫茶店のような素朴な家だ。
ロレンツォはやけっぱちのような溜息ひとつ。ナディアの自宅へ家主のように乗り込み、車を車庫へと突っ込んだ。
エレナはちょっと驚きにロレンツォを見る。
「やだセンセ、勝手に人の家の車庫に停めたら怒られちゃうわよ」
「そうかよ。ここは俺の実家だ」
「えっ? ジッカ?」
目を丸くするエレナを横目、ロレンツォは我が物顔で庭を歩き、インターホンもノックもなしにドアを開けた。
春のように明るくあたたかみのある吹き抜けのホールが広がる。
「えっセンセー、ここナディアの家よね?」
ロレンツォはエレナに応える代わりに、大きく声を通した。
「ただいまー。おーいナディア! 降りてこい」
ただいまの言葉にエレナが大仰天する。ロレンツォの声に小さな足音が響き、子ども達がロレンツォに「にいちゃ~ん!!」と次々飛び掛かった。
子ども達を抱きとめたロレンツォが、肩越しに振り返る。
「なにあんぐりしてんだよ。ナディアは俺の妹。ここは俺の実家だよ。表札みてみろ、パッツィーニだろが」
……・……
自室のベッドでスマホをいじっていたナディアは、玄関のロレンツォの呼び声に舌打ちひとつ。
「バカ兄、うっさい……」
久々に帰ったかと思えば早々に父親面をするロレンツォに、妹ナディアは毎度うんざりしていた。
ミシェルとのLIMEに目を戻す。添付された画像には、プレイルームで深々と頭を下げるゲーム関係者たちがいた。続いての〔お仕置き完了〕の文字に心から安堵する。
幻覚や幻聴は、本当に恐ろしかった。あの時は自分の事で必死だったが、ゲームの開発が中止されたことで自分のような被害者はもうでない事が何より嬉しかった。夢見心地にスマホを閉じたナディアは、部屋を出て階段から玄関のロレンツォに声をかける。
「……なに?」と、やや文句ありげに。
ロレンツォは抱っこしていた甥っ子と姪っ子を降ろし、まるで叱る父親のようにナディアに人差し指を向けた。
「ナディア、お前へんな薬でも覚えたんじゃないだろうな?」
「はぁ? するわけないでしょ!? バッカじゃないの?」
ナディアの喧々とした返しに臆することなく、ロレンツォは淡々と返した。
「お前までやれグレムリンだのエイリアンだの言うようになったら面倒なんだよ、そういうのは映画やゲームで我慢してくれ」
その時、賑やかな笑い声がリビングから聞こえた。ナディアがふと耳をすます。姉サンドラともう1人……。
それはエレナがリビングで、ロレンツォの姉サンドラと自己紹介を終えた声だった。
ロレンツォとナディアの喧喧囂囂な様子に、エレナが驚きままホールのロレンツォを見る。
その様子にサンドラは「いつもの事よ」と軽く笑うものの、一人っ子のエレナには信じがたいことだった。
エレナはそそとホールへと顔を出した。
2階のナディアを見上げ、ポニーテールがぷりんと揺れる。腕を組むナディアに、エレナは笑顔で手をふってみせた。
「ナディア! お疲れ様、依頼は完了したわ。報告書にサインをお願い」
ナディアはそのとたん、転がり落ちるように駆け寄った。
「エレナーっ!」
言うままエレナの手を取って、頭のてっぺんからつま先まで見る。
「ぁあエレナ、さっきミシェルから全部きいたの。ありがとう、本当に……!」
ナディアの溢れんばかりの想いに、エレナが優しい笑顔を返す。
「いいのよナディア。もし誰かが今回のように困っていたら、いつでもエイリアン・バスターズを思い出してね。ね、センセ」
エレナのウィンクに、ロレンツォがフンと鼻で返した。
他人ではないそれにふとナディアが身を離して、兄とエレナを見比べる。「……なに? 2人とも知り合いなの?」と。
ロレンツォは面倒くさげに顎でしゃくった。「うちの生徒だ」
続けて文句のひとつでも加えようとした時、エレナがロレンツォに続けた。
「パッツィーニ先生はエイリアン・バスターズの重役顧問なの。危険な任務もあるけれど、いつもとても頼りになっているわ」
それにナディアが豆鉄砲を食らったかのように驚き、ロレンツォを見た。見直したというか、かなり感心な瞳で。
エレナのまさかのヨイショにロレンツォが言葉に詰まり、咳払いひとつ。サンドラと盛り上がっていた時も思ったが、エレナは外面がいいというか猫の皮を被りまくりというか、なんせいいとこのお嬢さんな振る舞いが板についているのだ。それがまた可憐で清楚に見える分、末おそろしい。
「そうだ、成功報酬を渡さなきゃ。私の部屋に来て、エレナ」と、手をとりナディアが微笑む。
それにエレナは首を横に振った。
「いいのよナディア。あなたのお兄さんにはいつもお世話になってるから、成功報酬はプールして」
「じゃあちょっと話そうよ。私たち、もっと理解しあうべきだと思う。お茶とお菓子も一緒にね。帰りは兄ちゃんが送るからさ」
ナディアのウィンクに、エレナがふとロレンツォを見る。
ロレンツォはうざったらしく手で払った。いいから行けよのそれに、エレナがはじけたようにナディアに笑顔をむける。
「ええ、ナディア。それは名案!」
子どものように階段を駆け上がる2人を見送ったロレンツォが、やれやれとリビングに入る。
リビングで、甥っ子達を寝かしつけたサンドラがソファで軽く手をあげた。その手のグラスにはお酒が揺れている。どうも結構飲んでいるようだった。
「あんたも飲む?」とサンドラがボトルを揺らす。
「いや、いい。あいつを送ってかないと」
それにサンドラがグラスに口をつけ、ついと傾けた。
「タクシーを呼びな。こんな時間にお嬢さんを送るなんざ、親御さんに何て言われるか。……新しい彼女? あんたの上着を羽織ってたけど」
言わずもがなエレナの事だろう。ロレンツォはうんざりに、団扇のように手を振った。
「んなわけないだろ、夜は冷えるから貸しただけだ。もう酔ってんのか?」
サンドラはその返答を百も承知にグラスをデスクに置いた。どこか思いつめた面持ちだ。
「だよねぇ。あんたがあんな可愛くて礼儀正しいお嬢さんとだなんて、天地がひっくり返ってもありえないわ。
でもねエンツォ、生徒と教師の間柄じゃない雰囲気はどうしてもわかるものよ。……調子に乗ってハメ外すんじゃないよ」
生徒と教師の間柄じゃない雰囲気。その言葉に、ロレンツォは頭半分納得した。
そりゃ今こそ教師と生徒だが、元をたどれば研究員と侵入者だったのだ。その今とやらもバスターズの活動で踏んだり蹴ったりで、遺体を発見するわ、出頭するわ、ドーロンを追って中華街を駆け回るわ……そのへんの教師と生徒の間柄ではないのは確かだった。
ふと、テレマ研究施設での可憐なエレナを思い出したロレンツォは、払拭するように意識を集中した。
「外すハメもないっての。姉ちゃん酔いすぎ、たまには早く寝ろよ」
それにサンドラは自嘲気味に笑って返す。
「そうね、そうかもね。最近ナディアも難しい年ごろなの。今日だって連日の無断外泊から帰ってきたばかりよ。あんたまでグレたら、死んだ父さん母さんに申し訳ないわ」
「何? ナディアの奴、まさかまた変な男に引っかかったんじゃないだろうな」
噛みつくように言うも、サンドラは静かに首を振った。
「まさか。でもナディアももう手が離れる年頃よ。……だからそろそろ、あんたは父さんの代わりをしなくていいの。
元カノさんから聞いたよ、地球学研究センターを辞めたせいで生活が苦しいんだってね。こっちは大丈夫だから、あんたはあんたの幸せを見つけないと」
その言葉にロレンツォが固まった。奥歯を噛み、姉サンドラを見る。
殉職した親父、病気で亡くなった母……。母親代わりとして頑張る姉サンドラの背は、母さんのように大きくて少女のように小さかった。今でも忘れない。身重の姉サンドラが、夫の不貞に涙を流していたあの夜を。妹ナディアがストーカーに乱暴されそうになったあの日を。
(そうだよ、長男の俺が大黒柱として構えないといけないのに。この家に大人の男は俺しかいないのに、不安にさせちまってどうするんだ。)
「……バカ言うなって。そりゃ繋ぎでバイトはしてたけどさ、もう金なら心配ない。悪いな、苦労かけて」
「そういうんじゃないのよ、エンツォ」
「自分の家族を守って何が悪い。皿は洗っておくから今日は早く寝ろよ、毎日頑張ってんだから」
ロレンツォはそう言い抑え、渋るサンドラの背を寝室へ押した。
リビングに1人、ロレンツォは長い溜息をつく。やがてキッチンのスポンジを泡立て、静かに皿を洗い始めた。
一方廊下では、上着を返しに来たエレナが壁を背に立ちすくんでいた。
入るタイミングをすっかり見失い、ロレンツォとサンドラの一部始終を聞いてしまったのだ。皿を洗う音だけがほそぼそ流れている。
(地球学研究センターをクビになってから大変なんだ……全然知らなかった)
エレナは気付かれないよう、静かにナディアの待つ部屋へと踵をかえした。なんともいえない、複雑な気持ちままに。
……・……
2階に上がってすぐのこと。ナディアが別の部屋からひょっこり顔をのぞかせて、エレナにちょちょいと手招きをした。
何かとつられて入ったエレナが部屋を見渡す。
その部屋は、ブルーグリーン基調のいかにも男の子らしい部屋だった。サンドラは部屋の中央で、まるでモデルハウスの案内人のように手をかかげる。
「ここは兄ちゃんの部屋よ。高校卒業を機に引越してから、全然触ってないガラクタばっかり置いてったの」
「えっそうなの?」
エレナは驚きまま見渡した。古い映画のポスターに、サイン入りのバスケットボール。本棚には図鑑や辞書がぎっちり詰まっている。
部屋の隅のトロフィーには、トライアスロン大会の文字が刻まれていた。
「この部屋ごと全部、甥っ子に譲るんだって。でもこんな古い図鑑とか地球儀とか流行らないでしょ? ゴミよゴミ」
ナディアは言いもって、クローゼットの奥から大きな箱を引っ張り出した。「本題はこれよ。面白いのがあるの」
エレナはナディアの背からついとクローゼットをのぞき込んだ。
六法全書ほどに分厚いアルバムを取り出したナディアが振り返る。「もし兄ちゃんが調子こいたら、この写真を突き出してやるといいわ」
そういって出されたのは、1枚の写真だった。およそ5歳ほどのロレンツォが泥まみれで泣いてる写真だ。
どうも山道を盛大に滑って泣いた時のようだ。鼻水とヨダレと涙をナイアガラのように流している。
「わ、かわいい~」と思わずエレナが綻ぶ。エレナのまるで子犬をみたような反応に、ナディアがええっと声をあげた。
この写真をミシェル達に見せたら爆笑確定だろうが、エレナからしたらなんとも少年らしさ満開の写真だ。
「当たり前だけど、センセーにもこんな小さい時があったのね」
それにナディアは得意げに写真に指先をつく。
「エレナ、その写真あなたにあげるわ。サイクリング中に山蛭が腕に乗ってた事に気付いて、水たまりに盛大にこけて、大号泣しながら地団太踏んで、その夜に山蛭の夢をみてオネショしたっていうトリプルコンボ。
あいつの黒歴史らしいから、もし調子こいてんな~って思った時に見せてみて? 顔真っ赤にして通夜みたいに黙り込むから」
ナディアはご機嫌にエレナに手渡した。
「そんな、せっかくの思い出なのに」
「いいのよ、ストックで焼き増ししてるから。近所のおばちゃん達も持ってる珠玉のブロマイドよ。肩たたき券みたいに使われてるんだから。写真を出せば、庭掃除や犬の散歩までしてくれるって大好評なのよ」
その言葉にエレナが笑った時だった。階段を上がる音がしてすぐ。
「人の部屋を漁るなバカ」
入口で腕を組んだロレンツォが、あきれ顔で指をさす。
「ナディア、お前も勝手に兄ちゃんの部屋に入るな。ここはジュゼッペ(甥っ子)にやるんだよ」
エレナは突然のロレンツォ登場に驚き、思わず写真を背に隠した。
ナディアは物申すようにロレンツォを見上げる。
「はぁ? 元・自分の部屋でしょ? 引っ越したならとっとと綺麗に引き払いなさいよ、物臭男!」
えげつない言いようだがロレンツォは慣れたものらしく、ナディアの尻を叩いて追い出した。
「はいはい、そういうのは家賃を入れてから言ってくれ。あとたまにゃ姉ちゃんの手伝いをしろ、小遣い減らすぞ」
追い出されたナディアは尻をさすりつつ、威嚇する猫のようにロレンツォを見る。
「いった! うっさいバカンツォ!」
断つようにドアを閉め、ロレンツォが肩越しにじろりとエレナを見た。エレナは両手を後ろに、にっこりと笑顔を返す。
「……センセ、色々ありがと。そういえばまともにお礼言えてなかったなって思って」
「おーおー、精々感謝しろ。……で、背中に何隠してんだ? 部長サン」
エレナはちょっと固まり、笑顔で首を横に振った。もちろん背には例の写真を隠している。
ロレンツォは隠したものが例の写真であることに気付いていた。なぜならナディアが駅前のティッシュのごとく配りまくるからだ。エレナの背の推測は探偵でなくともわかるだろう。
いかにもな作り笑顔で写真を隠すエレナに、ロレンツォが死刑執行人のように歩み寄る。
エレナはおっかなびっくりに後ずさった。それがなんだか可愛くて、ロレンツォはちょっと笑った。もちろん、いじわるな笑みで。
「センセ!」エレナが待ったと声をあげた。「セリオン学園給与手当の【勤務外管轄手当】って知ってる?」
ふとロレンツォの歩みが止まる。
「……勤務外管轄手当? なんだそれ?」
給料明細にそんな項目はなかったはずと思いつつ、なんともそれっぽい名前に思考を巡らせる。
エレナはしめたと唇を舐めた。
「エイリアン・バスターズの顧問はすぐ辞めちゃうから、申請すれば【勤務外管轄手当】が出るのよ。部長の私に申請すると、申請月から対象になるの。センセーはいいわんわんだから申請受理しとくわね」
これはエレナが決めたことだった。リーダーとして顧問に特別手当を与えるべきと判断したのだ。
というか時給を出せば土日出動も文句を言わないだろうと踏んでの案だが、サンドラとのやり取りが決定打となった。
ロレンツォの眉がピクリと動いた。学園長に申請するならともかく、いち生徒に申請するだなんて馬鹿でも嘘とわかるものだ。
「……へ~、そりゃすごいね。随分なめられたもんだ……な!」
ロレンツォが隙をついてエレナの背の写真を取り返そうとするも、エレナは蝶のようにひらりとかわす。
「あら小賢しい。素直にワンって言えば可愛いのにねー」
「みえみえの大嘘をつくな。何が勤務外管轄手当……だッ! ああクソ! この……!」
またもひらりひらりとかわされる。
エレナはおかしくて声をあげて笑った。ロレンツォがまるでオモチャを欲しがる犬のようだったからだ。
すっかりおちょくられていると分かったロレンツォは踏みとどまった。……ナディアもサンドラも引っかかるここぞの裏ワザを今、解放する時がきたのだと。ロレンツォがふと視線をエレナの後ろにやる。はたとするエレナに同時、ロレンツォが声をあげた。
「おい後ろゴキブ……」
ロレンツォがGの名前を言い終える前に、エレナは悲鳴をあげロレンツォの背に回り込んだ。
咄嗟にふり返るも、当然Gの姿はない。
どさくさに写真を回収したロレンツォに、エレナが「もう!」とふてくされた。
ロレンツォは写真をひらつかせ、おおいに勝ち誇った。ナディアのいう調子こいてるとは、今まさにこの瞬間だろう。
「へっへーざまあみろ! 見え見えの嘘をつくからだ」
「もうっ嘘じゃないわよっ」
手を伸ばすエレナのジャンプに合わせて、ロレンツォは写真を高く掲げる。ふと、ふわふわと甘い花のかおりがした。1年前、防護服をひっぺがした時のかおりだ。
エレナはロレンツォの肩を手掛かりに、精一杯のジャンプをするもリーチが足りない。
「私が! もらったの! 返しな! さいよ!」
「俺が映ってんだから俺の許可がいるぜ? はいダメー」
その瞬間バランスを崩したエレナが、ロレンツォにふと抱きとめられる。やわらかなエレナにロレンツォが思わず息をのみ……そのまま2人そろってずっこけた。
2階の大きな音に顔をあげたのはサンドラだった。
寝室を抜け、リビングで同じく顔をあげていたナディアと目が合う。頷いたナディアが階段を駆け上がり、ロレンツォの部屋のドアを開けた。……そして、静かにドアを閉める。1歩、2歩と忍者のように後ずさった。
様子を見に来たサンドラが何事かとナディアを見た。ナディアはサンドラの両肩をつかみ、そのままUターンに階段を降りる。
「ちょっと、なんなの?」とサンドラ。
エレナが兄ちゃんを押し倒してた! を飲み込んだナディアは、「クロゼットを荒らしてるみたい」とご機嫌に笑ってごまかしたのだった。
……・……
ビル風がびゅうと髪をジャケットを流す。
ネオン輝く繁華街……黄色いテープが張り巡らされた夢幻ビルを背に、高橋はジャケットをビっと鯔背にきめた。
ミシェルの車を見送ったヤスが高橋にふる。
「これからどうするんでっか、兄貴?」
高橋はパイロットサングラスをはめなおし、ヤスを肩越しに見る。
「故郷に錦を飾らずして何になりますか。俺たちは今後も、バーディアン共からマーフォークの卵を守る活動を続けるだけです。
資金源の次世代ゲーム夢幻は惜しいですが、恩人であるエイリアン・バスターズに出会えたのは、むしろ幸運じゃないですかね」
高橋は言って、ビル風に目を細めた。
「ミシェルの名の由来……大天使ミカエルは、タルムード訳で〔誰が神のようになれようか〕です。ふ。イルミナの人工生命体にしちゃ皮肉な名前ですね。それより……面白くなってきたじゃないですか」
高橋は踊るようにその場を回り、サングラスの縁をツイと上げた。
「ふふ、俺の恋愛センサーがビンッビンに反応しています。我々マーフォークができる恩返しといえば、1つしかないでしょう!」
ヤスはじめ、黒服たちがドス低い声で応答する。まるでカチコミ前のような気合の入った声だった。
眠らない夜の街が夜を謳う。
ジャケットを翻したマーフォーク(人魚)の高橋達は、賑やかな夜の街へと消えていったのだった。