私信:書道で師範を取りました ~習い事を辞められなかった者の所感~
初めましての方は初めまして、拙作をお読みの方はこんにちは。アカポッポと申します。
普段は『こんな異世界、お兄さんは認めません!』と言う異世界モノを書いておりますので、興味の湧いた方はご一読ください。
さて、前口上はほどほどに。
突然ではありますが、この度、私は書道において師範試験に合格致しました。
と言っても、この“師範”と言うのは各会派が独自に設けた階位であり、全国で統一された基準ではありません。
私自身の実力についても、未だ手本が無ければ作品を書けませんし、師範に合格したばかりの者の殆どはそうではないでしょうか。
従って、さして自慢できるほどの物ではないと言う事を断っておきます。
ところで、今このエッセイを読んでいる人の中には、子供のころ習字教室に通っていた方もいらっしゃると思います。
私もその一人でした。
では、私は教室の中で上手かったのかと言われると、ハッキリ言って答えはNOです。
同学年では私が一番遅く習い始めていたのもあり、私の実力は常に最下位でした。
それだけならまだ良いのですが、私より遅く始めた低学年の子でさえ、私より上手いのではないかと思う子が居たぐらいです。
それほどに、私は落ちこぼれだったのです。
教室の外においても、結果は同じでした。
学生時代、賞を取った経験は殆どありません。
習い始めた頃だった小学三年生の時に、学校内部と町内の書初め大会で銅賞を取りましたが、それ以降はてんで駄目。
私以外に書道教室に通う子は沢山居ましたし、上述の通り私より上手い子はいくらでも居たのです。
では私より上手かった子達は、私より先に師範になったのか。
その答えもNOです。
理由は単純明白、皆辞めていったからです。
大体の子は小学校卒業時に。中学生になっても続ける同級生は居ましたが、段々と教室から足を遠ざけて行きました。
とは言っても中学校は小学校より生徒の数が多いため、書道継続者の絶対数にさほど変化は無く、依然として賞とは無縁でしたが。
その後も書道を続ける人間は減って行きます。
受験勉強に専念する為、大学に入って地元を離れた為。理由は千差万別ですが、殆どの人が辞めていきました。
競書の順位表に顔見知りの名前は無く、寂しさを紛らわす為に勝手にライバル視していた特定の人物も、ある日順位表から消えていたり。
そうして周りの方が次々と辞めていく中、一つの疑問が私の中で浮き起こりました。
なぜ皆辞めていくのだろう、と。
上述の通り、私より上手い人は沢山居ました。ですが、彼らは皆辞めてしまうのです。
私より上手いのに、その才能を捨ててしまうなんて勿体無い。
憤りにも似たモヤモヤが、時が経つにつれて積もって行きました。
ですが考えて行く内、私はその答えとなる二つの理由に思い至ったのです。
理由の一つは、辞めて行った人が私より上手かった、と言う事です。
......意味不明な発言ですね、訂正しましょう。
私より上手な人が辞めて行ったのは、その人が器用だったからだと、私は考えています。
器用なのは素晴らしい事です。
何でも卒なくこなす事が出来ますし、周りからも評価される。
私は不器用でドン臭い人間なので、正直嫉妬してしまいます。
ですが、コト書道においては、必ずしもプラスに働くとは限らないのかもしれません。
少し話は逸れるのですが、私は鳥類について勉強していた事があります。
好きな事の知識と言うのは不思議な程に身に付くもので、本は小説を読む感覚でスラスラと読めましたし、一度読めば大体の知識は忘れずに吸収されて行きました。
ですが暫く勉強する内に、『何か全部分かっちゃった気がするな』と言う万能感が私の中で芽生えてしまったのです。
勿論、鳥の世界も浅くありません。知らない事は幾らでもあるでしょうし、知識が満たされたなら外に出て、実際にそれを目にするのもアリでしょう。
ただ、この万能感を得た私は、鳥の世界の奥深さを体感する前に満足してしまいました。
これこそが鳥の世界から離れる一因になっていたのだと、今になって思います。
話を書道に戻しましょう。
先ほど、私は万能感と言う言葉を挙げましたが、正しく器用さこそが書道における万能感に値するのではないでしょうか。
つまり、私より器用で習字が上手かった方々は簡単に上手な字が書け、『分かっちゃった』気になったせいで辞めていったのだと考えます。
不器用な私には『分かっちゃった』気にはなれませんでした。
今でも、書道の世界は訳が分かりません。
こうすると良いのかと思っていると師に違うと指摘されますし、筆の運び方の変化により生まれる線質の違いとやらも、分かっているようなそうで無いような、曖昧な感じです。
しかしだからこそ、周りに喰らい付く為にも、常に考えながら書道と向き合って来ました。
考え、正面から向き合う事で、私は書道の素晴らしさ・奥深さに気付きつつあります。
もし私が器用な人間なら、書道の本質を遠目に見る事すら敵わなかったでしょう。
二つ目の理由は、人間は“幸せや楽しさ”を追って生きていると言う事です。
......またしても意味不明な発言ですね、言い換えましょう。
書道を続ける理由は多くの人が求める“幸せや楽しさ”とは離れており、そのせいで皆辞めて行ったのではと私は考えています。
断言しますが、書道をしていても“良い事”なんてありません。
異性にモテる? ありません。
仕事で役に立つ? パソコン主体の現代にあり得るのでしょうか。少なくとも私には経験がありません。
集中力が養える・心を研ぎ澄ませられる? 私は書道の最中に小説の続きを考えていますけど。
書道を続ける事で実際は何が起こるのか。一言で言うと、心と財布が死んで行きます。
書道において、感情のフレは負の要素です。
テンションが上がっていると筆の運びに“緩”が付けられませんし、下がっていると紙に向かった所で良い物が書けません。
ある程度の感情を持つ事は作品作りにおいて必要ですが、どちらかと言うと感情豊かな人を遠くから見つめているような、そんな気持ちになるのが吉です。自分自身で喜怒哀楽を持ってはいけません。
それと財布についてですが、書道は何かとお金がかかります。
筆や紙、硯に墨。作品の趣を左右するこれらの要素は種類が余りにも多く、自分が納得の行く組み合わせを見つけるには買って試すしかありません。
また、この事を話すと多くの方が驚くのですが、書道では賞を受賞するとお金を取られます。
例えば、三大公募展の一つである毎日書道展で受賞すると、応募料(一万円ほど。エラクなるとさらに高額になる)とは別に少なくとも14,000円ほど取られます。
更に良い賞を取ると、更にお金を取られます。あ、表具代も無視出来ませんね。
最も権威のある展覧会と呼ばれる日展にもなると、土地を売ったなんて話を聞くほどです。
また、書道を続けていると何かと本を買わされます。付き合いの一環です。
それと、時間がかかる事も加えておきましょう。
多くの書道家は働きながら作品を作りますが、作品一つ一つ仕上げるのに100枚以上の紙を使います。
半紙じゃありません。私の例だと、横60cm・縦240cmほどの紙に漢字を書き殴って行きます。
仕事から帰って紙を広げ、土日と紙に向かって口や頭から煙を上げ。
何時間と書けて墨をすり、それを湯水のように使ってはまた墨をすり。
そんな日々を数か月過ごして、ようやっと書き上げるものなのです。
さて、ここまで読んだ貴方は書道をしたいと思いましたか?
恐らく、したくないと言うでしょう。それが普通なのです。
そんな事せず、バラエティー番組でも見て笑ってください。映画をご覧になって感動してください。
異性と付き合い家庭を持ち、幸せな人生を送ってください。その方が“幸せ”です。
では何故私は“幸せ”を選ばないのか。
それは一重に、“幸せ”より“良いものを書ける喜び”を取ったからです。
良いものを書ける力を手放したく無いからです。
『ただ行動力が無いだけだろ』と言われそうですが、私自身そう思う節もあるので言い返せません(笑)
ですが少なくともある程度は、良いものを書ける喜びにも思い入れがあるのです。
そして“良いものを書ける喜び”については、このエッセイを読んでいる方の何割かは共感頂けるのではないでしょうか。
分かった方はありがとう、貴方も私も同志だ。
お互い心の隅で励まし合い、切磋琢磨して行こうではないか。
遠慮なぞ無用であるぞ。共に歩もうではないか、この道を。
破滅にも似た末路を得たいと言うのであれば。
......などと言うのは冗談ですが、習い事を続けるのは私のような変わった人間ぐらいかもしれません。
もしお子さんを書道教室に通わせている方がいらっしゃいましたら、中学生ぐらいで辞めさせてあげてください。それがその子の為だと、心の底から思います。
もし辞めたくないと子供が強く言えば、その時は黙って見守ってあげてください。
それでは、こんなエッセイを最後までお読みいただき、ありがとうございました。
質問等ありましたら、感想欄にてお願いします。皆さんの創作活動の一助になれば幸いです。
ではでは。