無自覚
「文ねえ、キスしていい?」
私は飲んでいたブルーベリーヨーグルトを噴出した。
せき込む私の背中を、原因である瑞樹君が心配そうに擦ってくれる。
この子は今何と言った?
私は自分の聞き間違いであることを願って、この子に何と言ったかを尋ねた。
しかし、その願いははかなく散った。
「キスをしていいか」と、この子は再び私に尋ねた。
私は一つ息を吐いて一寸落ち着いて、状況を整理する。
ここは?
私の部屋。
時刻は?
夕方。
相手は?
先輩のいとこ瑞樹君。
瑞樹君の年齢は?
11歳。
……おーけー、落ち着け私。
この子はただの小学生だ。
私は、口元を拭いたのち平然を装い、どうしたのと尋ねた。
「最近、姉ちゃんが大学行くために出て行ったじゃん?」
姉ちゃんというのは、先輩のことである。
先輩は中学で知り合い、仲良くなった。
そして、たしか中学一年の夏休みに先輩の家に遊びに行ったタイミングでこの子と出会い、懐かれ、こうして時間があるときに家庭教師のようなことをしている。
先輩のお隣に住んでいるこの子は、私が遊びに来ると、すぐに飛んできた。
それ以来、私が先輩と遊ぶときは、この子がついてくるのが当たり前になった。
先輩には申し訳ないと何度か謝られたが、私はそれを一度も気にしたことがなかった。
むしろ、兄弟というものに憧れていた私は弟がいたらこんな感じだったのだろうかと想像をしながらこの子を溺愛していた。
その出会いのきっかけとなった先輩が、先日、進学のためにこの街を離れた。
季節は四月。新たな旅立ちの季節。そして、同時に、別れを実感する季節……。
この子も、私も……東京へと旅立った先輩が大好きだったのだ。
「そうね、寂しいわね……」
瑞樹君は少し顔を赤くし、目をそらした。
こうしていれば、かわいい弟分なのだ。
「キスしていいか」など、聞いてくるようなませた少年でなく、純朴な少年なのだ。
「俺は……寂しくないよ……」
少し口を閉ざした後の、絞り出したような声。
その見え見えな強がりに、私はクスリと笑ってしまった。
そして、私は自然と、この子の頭を撫でていた。
瑞樹君は一瞬体を強張らせたが、それも本当に一瞬だった。
顔を伏せて黙りこくり私におとなしく頭を撫でられている。。
柔らかくも、少し硬い髪の感触と、羞恥心からきているであろうこの子の頬の紅潮がとても愛らしい。
この子と遊ぶたびに、弟がいればと何度も思ったが、今日ほどそれを強く感じたことはない。
それと同時に、ここに先輩がいれば、そろそろ諭されていただろう……と、ふと考えた。
私がこの子を可愛がり、恥ずかしがるこの子を揶揄いつつ、私を諭す先輩。それが、私たち三人だった。
しかし、先輩はもういない。
私たちのそばにいない……。
私の目から、涙が一つ流れた。
それと同時に、私の目の前に、この子の顔が現れた。
この子の頭が私の掌の下にないことに、私は今更気が付いた。
「やっぱり、寂しいのは文ねえじゃん」
そう言って、瑞樹君は私にキスをした。
一瞬の出来事だった驚きのあまりに固まる私と、顔を真っ赤にした彼。
「この間、テレビで言ってた。キスにはなんか人を幸せにする効果があるんだって……だから、俺……その------帰る!」
羞恥心に耐え切れなくなったのか、固まったままの私を放置し、彼はランドセルを乱暴に持って出て行った。
お邪魔しましたの声ののちに、母さんの気をつけて帰りなさいねとの気の抜けた声が聞こえ、我に返る。
そして、慰めていたつもりが慰められたという事実を突きつけられたことと、先ほどのキスを思い出し、今度は顔を赤くして顔を机に伏した。
テレビドラマのようなロマンチックなものでもなかった。
漫画で憧れた王子様が相手でもなかった。
しかし、私と彼の距離は確かにゼロになったのだ。
「……どうしよう……先輩にばれたら怒られるだろうなぁ……。それに------お礼は言わないとなぁ」
きっと、寂しいと無意識に顔に出ていたのだろう。
そして、彼なりに私を元気づけようと考えて、やっと見つけた方法だったのだろう。
「まったく……子供は子供らしくればいいのに……」
私はつぶやき、唇に触れるのであった。




