父の帰郷(番外編其の一)
箸休めの番外編です。遡ること四年前、ほのぼの家族を目指して書きました。
時を遡ること四年、まだ弟の藤千代が生まれる前のことである。
当時四つになったばかりの相良長寿丸は久々に八代から帰ってくる父、義陽を出迎えるため兄亀千代と縁側に座ってそわそわしながら待っていた。
相良家は当時、本拠の球磨郡を始め八代・葦北の三郡を治める肥後半国の大名であった。相良家は政務の拠点を良港を擁し交通の要衝でもある八代に置き、妻子は本拠の人吉に住まわせていた。そのため義陽は普段は八代で政務を行ない、忙しい政務の合間を縫って人吉に帰ってくるのが常であった。
「亀千代殿、長寿殿。殿が御着きになられましたぞ」
義陽の正室、千代菊がゆったりとしつつも威厳のある足取りで二人を呼びにやってきた。亀千代と長寿丸の実母にして懐妊中の側室、於鶴も一緒である。
千代菊は先々代、十六代義滋の娘で、三人のいる姉たちはこの千代菊を母とする。この当時は側室の子であっても正室の子として育てられるため、千代菊は育ての母と言ってよい。彼女は優れた人格の持ち主で、自身が産んだ三人の娘と側室、於鶴が産んだ二人の息子を分け隔てすることなく育てている。
側室、於鶴は家臣豊永長英の娘で、男子を産めなかった千代菊が側室にと推薦した女性である。穏やかでおっとりとした美貌の人で、現在三人目の子を懐妊中である。
千代菊と於鶴は姉妹のように仲が良く、今も身重の於鶴を千代菊が優しく気遣っている。
育ての母、千代菊の言葉にぱっと顔を輝かせた亀千代と長寿丸は、手を繋いで二人の母の後ろをうきうきと歩いていった。
*****
相良家第十八代当主、相良修理大夫義陽は、妻子と重臣たちから帰還の挨拶を受け、留守中の諸々についての報告を留守を預かる重臣たちから聞いた。
その後重臣たちは退出し、義陽と妻子だけが残された。
「御帰りなさいませ、父上」
先ほどの当主に対する堅苦しい挨拶ではなく、父に対する可愛らしい子供たちの挨拶に、義陽も自然に顔が綻ぶ。
「うむ。皆、よい子にしておったか?」
「はい!」
亀千代と長寿丸が一緒に返事をすると、一番上の姉、今年十三になる虎満がくすくすと笑った。
「聞いてくださいませ父上。私たちが亀千代殿と遊ぼうとすると長寿殿にいつも亀千代殿を取られてしまいますのよ。今日も、部屋からここに来るまでの間ずっと亀千代殿に手を繋いでもらっていて」
「ははは、そうかそうか。長寿は兄君が好きか」
「はい、父上!」
長寿丸が屈託のない笑顔で答えると、義陽は声を出して笑った。
普段は髭を生やしていかめしい顔をしているように見えるが、本当は連歌を好む風流で優しい父である。
そして弟に全力で慕われている当の亀千代は、少し照れくさそうな笑みを浮かべていた。
「亀千代よ、もう一人弟か妹が増えたら長寿はそちらへかかりきりになるやもしれぬぞ」
「それはありえませぬ。……あ」
「おや、まあ」
義陽が冗談めかして言った言葉に即答した亀千代に、正室千代菊が笑い声を上げた。
「いつか亀千代殿が嫁を取られる時が思いやられまするなあ、殿」
久々に会った家族の他愛もない会話は、時折笑い声を上げながらなかなか終わることなく続いていた。
*****
次の日の、昼さがりのことである。長寿丸は、父のいる部屋をひょっこりと覗き込んでいた。
父は今、障子を開け放って文机の前に座っている。
「――長寿か?」
長寿丸の存在に気付いた父、義陽は部屋へと招き入れ、自らの膝の間に座らせた。
「亀千代と一緒ではないのか?」
「今日は、父上とお話ししとうございます」
兄、亀千代のことは大好きだが、忙しくてなかなか会えない父を独り占めしたいというのもまた本音である。
「そうか、そうか」
義陽は、息子の頭をくしゃりと嬉しそうに撫でた。
文机の上には、書いたばかりの短冊がいくつも並んでいる。
「何をなさっておられるのですか、父上?」
「うむ、連歌のためにいろいろと歌を考えておってな……。いずれ連歌の会を開き、阿蘇家の甲斐宗運殿もお招きしたいものじゃ」
「甲斐、宗運殿?」
「うむ、父のもっとも親しい友じゃ。この乱世、何があるかわからぬが、宗運殿とは決して戦うことなきよう、起請文も交わしておってな。阿蘇家に宗運殿ある限り、我が相良も安泰じゃ」
阿蘇家は、肥後国北部、阿蘇郡を本拠し、現在は益城郡を加えた二郡を治めている大名である。相良家とは同盟関係にあり、その軍師、甲斐宗運は阿蘇家への忠義に厚い勇将として知られている。その宗運は義陽よりも三十歳以上年上だが、義陽とはたいそう気が合い、親友とも盟友ともいえる頼もしい存在であった。
「長く殿様をやっていると、みな頭を下げて気を遣ってくれるが、対等に話せる友などなかなか出来ぬでな……。まこと、父は得難いものを得た」
父は、少年のような顔でにこにこと笑っている。
「長寿も、そのような友が欲しゅうございます」
正直なところ、話の内容はよくわからなかったが、父の嬉しそうな顔を見て羨ましくなったのである。
「そなたにもいつかきっと出来るぞ。……そうじゃ、父がいいものをやろう」
そう言って義陽は何やら小さな袋を取り出した。
袋を開けると、たいそう甘い匂いがする。
中には、色のついた丸く小さなものが入っていた。
「父上、これは何でございまするか?」
「コンペイトウ、とかいう南蛮の菓子らしい。食べてみるか」
そう言って、義陽は長寿丸に一粒食べさせた。
「美味しゅうございます、父上!」
今まで食べたことのない甘さであり、たいそう美味しい。
「そうか、美味いか」
義陽は、甘さと美味しさに感激している長寿丸を、嬉しそうに見る。
父との、幸せな時間。それが束の間のものであろうとも、長寿丸にとって、たいそう楽しい思い出となったのであった。