人質へ
頼房と名を改めた四郎次郎はその日のうちに、相良家の氏神である青井宮と武神・井口八幡宮を参詣した。
当主である兄、忠房も一緒である。
頼房たちが行く先々で、領民たちが平伏している。頼房は駕籠の中から外を伺ったりもしたのだが、みな平伏しているためその表情を窺い知ることは出来なかった。
兄と共に参詣を終えた頼房は、茅葺屋根の社殿をじっくりと眺めた。
――これが、最後かもしれない。
そう思うと、今見える景色の全てを目に焼きつけておきたくなった。
空気は冷たく、すがすがしい。寒さにぶるりと震えながらも思いっきり深呼吸をすると、清廉な空気で満たされているような気持ちになった。
「長寿。そろそろ帰るか」
直垂に身を包んだ兄・忠房が声をかけると、頼房はハッと我に返った。当主として話すときには通称の「四郎次郎」の名で呼ぶが、兄弟として共にいるときは幼名「長寿丸」から「長寿」と呼ばれていた。
「はい、兄上」
兄に見られていたかと思い、頼房は少し照れながら返事をした。
すると忠房は頼房の姿をじっくりと見て、にこりと笑った。
「直垂、なかなか似合うぞ、長寿」
「まことでございますか、兄上」
兄に褒められ、満面の笑みで喜びを表現する。
――こんな日が、いつまでも続けばいいのに。
頼房は、叶わぬ願いをそっと胸に仕舞った。
*****
時はあっという間に過ぎ去り、二月の上旬、頼房が人質として赴く日が目前に迫ってきた。
滞在先は出水。かの地では島津家が頼房一行のため屋敷を建てたらしい。破格の厚遇であるが、人質は人質である。相良が島津に背こうものなら命はほぼないであろう。
頼房の御供はおよそ五十人。それが大所帯であるのかどうかは、頼房にはわからなかった。
城内は、頼房の出水行のため準備に追われ慌ただしい。
ぼんやりと書きものをしていた頼房は、ふと父と最後に見た景色が見たくなった。あの日が、遠い昔のことのようである。
――父が生きてさえいれば。
そんなことを思うと涙が溢れてくるので、首を振って気持ちを切り替え、近習たちの目を盗んで部屋を抜け出た。
*****
あいにくの曇り空である。そして、その場所には先客がいた。
「これは……若様」
「犬童の……軍七か?」
目があったのは、重臣、犬童美作守頼安の嫡男軍七、諱は頼兄。今年で十五になる彼の声を聞いたのは、島津が八代と葦北を切り取った時の評定の時以来であろうか。
軍七がすっと膝をつこうとするのを、頼房は止めた。そして、軍七の横に立って懐かしい景色を眺めた。
「霧が出てよく見えぬな」
「それが、この土地らしゅうございましょう」
隣国無双の美童と名高いが、どこか冷たい印象の少年である。身長も、頼房より頭いくつぶんか高い。しかし頼房と話す声には少し温かみが感じられた。
「時に若様。御供のものは?」
「撒いてきた」
「それはそれは」
軍七が苦笑しているのがわかる。
そして落ちる、しばしの沈黙。
「玉井院様は……あなたさまの亡き父君は、ここからの景色を眺めるのがお好きでございました」
軍七はそうぽつりと呟いた。
「いつも、来ておるのか?」
「登城した時には、必ず。霧でよく見えない日の方が多うございまするが」
ほんの少し言葉を交わしただけでもわかる、亡き義陽への敬愛の情。軍七が義陽に仕えたのは、ごく短い間だけだったという。それでも、彼は心から義陽を慕っていたのだろう。
「軍七……相良を、頼むぞ」
頭いくつも背の高い少年を見上げてそう言うと、気のせいか軍七の顔が綻んだ気がした。
「御意。若様も、どうかご無事で」
軍七が身を屈めて膝をついた。短い会話であったが、ほんの少し、軍七と心が通じ合った気がした。
*****
出立当日。見送りには、家族と重臣が勢ぞろいしていた。
別れの挨拶は、昨日のうちに済ませている。実母の了心尼は泣きじゃくりながら抱きしめてくれたし、常に気丈に振る舞い涙を見せない義陽の正室にして育ての母、台芳尼も昨日ばかりは涙を拭っていた。
武家のしきたりとして、側室の子であっても正室の子として育てられる。台芳尼は時に優しく、時に厳しく三兄弟を育ててきた。
正室と側室という間柄でありながら、台芳尼と了心尼は姉妹のように仲がよかった。元は了心尼は台芳尼の侍女であったらしい。そして、台芳尼が了心尼を側室として推薦し、了心尼は三人の男子を産んだ。
了心尼は子どもたちの育て方に口を出すことはなかったが、包み込みように愛情を注いでくれた。
祖母の内城君は今生の別れのように悲しんでいたし、二番目と三番目の姉も涙を拭っていた。
一番上の姉、虎満は未だ起き上がることが出来ず、床に臥せっていた。頼房がちょうど庭に咲いていた梅の枝を持って別れの挨拶に行くと、虎満は痩せ細った手で頼房の頬に触れ、涙を流していた。もはや立つことも難しいのか、今日の見送りの場には来ていない。
弟の藤千代は兄と別れるのが嫌で泣きじゃくっていたが、今は泣き疲れたのか大人しくしている。
そして兄の忠房は、敢えて頼房に何の言葉もかけなかった。今更言葉など交わさずとも、頼房は、何もかもわかっていたから。
「では、頼んだぞ、四郎次郎」
忠房が、当主として声をかける。
「行って参りまする、殿」
頼房は、そう自分でいった瞬間、涙が溢れてくるのを感じた。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない家族。懐かしい景色。
「この四郎次郎頼房、立派にを務めを果たして参ります。どうか、殿も皆さまも、御無事で」
震える声でどうにか、そう言い切った。
「お待ち……くだされ、長寿殿」
弱々しい、若い女の声。病床にあった一の姉、虎満が侍女たちに支えられながら、どうにか歩を進めてくる。
「虎満! 一体何をしておるのです」
今にも倒れそうな顔色の娘を見て、台芳尼が慌てて駆け寄る。
「長寿殿の、見送りに……。これが、最後になるかもしれませぬ故……」
「何を、気弱なことを言っておるのです、虎満」
頼房が慌てて姉の元へ駆け寄ると、虎満は弱々しく微笑んだ。
「長寿殿、これを、持っていきなされ。きっと、長寿殿を守ってくれます」
虎満は、震える手で縫い目がガタガタの花のようなものが縫い付けてある守り袋を差し出した。
「昨日、長寿殿が持ってきてくれた梅の花です。もっと、綺麗に縫えたならばよかったのですが……」
「姉上……」
やっとの思いで縫ってくれたのであろう。頼房はそれを受け取り、大切に胸元へ仕舞った。
「姉上、行って参ります。どうか体をお大事に」
「長寿殿も、風邪などひかぬように。この姉が、長寿殿の御無事を祈っておりまするゆえ……」
*****
出立の時である。一同が見守る中、頼房は籠に乗り込み、総勢約五十人の行列が歩を進め始めた。
「長寿ーーー!!!!!」
すると、突然、兄が自分を呼ぶ声が聞こえた。それも「四郎次郎」ではなく、「長寿」と。
頼房は、駕籠を開け、外に顔を乗り出した。すると、兄が後ろで大きく手を振っている。
「いつか、必ず、連れ戻す! それまで、待っておれよ、長寿ーーー」
「はい、行って参ります、兄上ー!!! どうか、御達者でー!!!!!」
頼房も、兄に向かって大きく手を振り返す。
このときもまた、霧の深い日であった。