初恋(壱)
天正十七年、春、十六歳になった頼房は、相良家当主として数百年ぶりに上洛することとなった。
頼房の祖母である内城殿を始めとした家中の者たちはこれ以上ない誉れと泣いて喜んでいたが、頼房としては先般の島津家の進軍妨害の件もあるため喜び半分不安半分といったところである。
今回の上洛は新たに日向の櫛間と財部の領主となった秋月家とその縁戚の高橋家への挨拶も兼ねて人吉から日向方面へ陸路で向かい北上、豊前の門司港から船に乗り瀬戸内海を通って大坂へ向かうという段取りとなった。
頼房の一行は国境を越え今は島津家の領地となっている日向の真幸院に入り、秋月家の領地を目指す。
真幸院といえば、頼房が島津から関白秀吉へと寝返る際に島津方の兵を数十討ち取った場所であり、輿に乗っていても殺気を感じるような気がする。
だが大名である頼房を襲えば責められるのは相手の方であるし、そもそもこの一行には天下に名高き剣豪、丸目蔵人が同行しているので返り討ちにされるだけである。
――我ながら、肝が据わってきたな。
頼房は、これまでのことをしみじみと思い出す。
つい二年前のことであるが、この二年いろいろなことがありすぎて遠い昔のように感じる。
真幸院を抜けて秋月家の領地へと入った頼房たちは、秋月家側の好意もあり、大隅との国境近くに位置する金谷城に一泊する段取りとなっている。櫛間城を居城とした当主の秋月長門守種長はすでに上洛しており、隠居した先代の種実が自分の居城へぜひに、と勧めてくれたのだという。
――秋月殿、か。
秋月筑前守種実。幼少期に父と兄を戦で失い、一代で本領の秋月を中心に筑前、豊前、筑後にまたがる大領地を築き上げた歴戦の名将。そして、九州を侵攻してきた関白秀吉と全力で戦い、敗れた悲運の男。
関白秀吉に降伏した後はそれまでに得た領地をすべて召し上がられ、縁も所縁もない日向へと国替えになった。その際、『十石でもよいから秋月にいたい』とたいそう嘆き、家督を嫡男の種長に譲って隠居したという。その話があまりにも切なく、頼房はよく覚えていた。
――どのような方であろうか。
これまでの秋月家と相良家の所領は離れすぎていて、直接の交流はほとんどなかったと聞く。
頼房は、一度会ってみたかった。歴戦の名将であったという、その人に。
「殿。もうすぐ金谷でございまする」
「うむ、わかった」
輿の外から、犬童頼兄が声をかける。
――もうすぐ、会える。
*****
金谷城に着いたのは、のんびりとした昼下がりのことである。二本の川が流れ込む河口の近くに建てられた城には、家臣たちを従えた一人の男が待っていた。
「よう参られた。この城の城主、秋月筑前守種実でござる」
「肥後人吉の相良宮内大輔頼房でござる。この度のご厚誼、かたじけなく存じまする」
頼房は、そう言って頭を下げる。
出迎えたのは、金谷城主、秋月種実。年が四十ばかりの偉丈夫で、歴戦の武将らしく声もよく通る。
「なんの。それよりも当主の長門守がおらず失礼いたした。……ささ、お疲れもありましょう。狭苦しいところではござるが、旅支度を解いてゆるりと休まれよ」
種実はそう言うと、頼房を城の中へと案内してくれた。
*****
種実は謙遜していたが、金谷城内は思っていたよりも広く、真新しい木の香りがする。
「よき御点前にございまする」
頼房は、種実に誘われ茶を馳走になっていた。旅で疲れた体に、茶の豊かな香りが染み渡る。
「ありがとう存ずる。夜はささやかながら宴の用意もしておりますゆえ、お付き合い願いたい」
「何から何まで、ありがたいことでございまする」
頼房がそう言うと、種実は嬉しそうににこりと笑う。
「なんのなんの。聞けば、相良殿は今年で十六とか。この種実にも同じ年頃の子がおりますれば、どこか他人とは思えぬ。……それにしても、幼き頃から苦労なさったことでござろうなあ」
種実が、しみじみと頼房を見つめる。
「この頼房の苦労など、秋月殿の足元にも及びませぬ。……秋月殿は歴戦の名将と聞き及んでおりました。ぜひ一度、お話したいと」
頼房が身を乗り出すと、種実は苦笑した。
「さて、昔はどうあれ、今は戦に負けて息子に家督を譲った、ただの隠居でござるよ。……まこと、日向はいい。盆地にあった秋月に比べれば気候は温かく、魚も多く獲れる。されど、どれほど日向がよいところであろうと、わしは父祖伝来の地へ……秋月へ帰りたい」
種実は、切なげに空を見つめる。
「秋月殿……」
頼房は、その様子に胸が痛んだ。種実にとって、父祖伝来の地を取り上げられるのはどれほどの苦しみであっただろうか。
「おや、相良殿にまで余計なことを。この種実も歳でござろうか、つい暗い話をしてしまいましたな。……どうでござろう、気分を変えて共に海でも見に行きませぬか。お疲れであれば、無理にとは申しませぬが」
種実の様子がいかにも気まずそうで、頼房はつい笑みを浮かべてしまった。
「ぜひとも。日向の海を見るのはこれが初めてでございまする」
*****
海岸までは、歩いてさほどの時間もかからなかった。頼房には、犬童頼兄が付き添い兼護衛としてついてきている。
金谷城周辺の港ではアジだのチヌダイだのの魚がよく釣れるらしく、種実もたまに釣りに興じているそうだ。
「釣竿を垂らしていると面白いように魚が獲れる。ここに来るまで海釣りなどしたこともなかったが、いざやってみると楽しいものでござる」
「やはり、秋月殿の腕がよいのでございましょう」
「なんの、始めた頃は釣れるのは海藻ばかりでござって、娘たちにがっかりされたものでござる」
そう言って、二人は笑いあった。ここまでの道中、頼房と種実は初対面とは思えぬほどすっかり意気投合していた。頼房にとって対等に話せる数少ない相手であり、年の離れた友というよりも、どちらかといえば『父』と話しているような感覚になる。
頼房たちが海岸に近づくと透き通った海と見事な白の砂浜が広がっており、対岸には大隅半島が見える。
「まこと、よき景色でござる」
頼房はそう言って、胸いっぱいに磯の香りを吸い込んだ。
種実と連れだって海岸沿いを歩いていると、頼房は砂浜に座り込んで何かを探している女人を見つけた。質のよさそうな着物からして、身分ある女人のようである。
すると種実は、やれやれと言った調子で首を降った。
「あやめ、何をしておる」
種実が呆れ返ったような声で女人に声をかけると、その女人は顔を上げ、頼房たちの方へと振り向いた。
「父上!」
*****
頼房の心臓が、とくん、と音を立てる。
――美しい人だ。
直感的に、そう思った。
年は、頼房と同じくらいであろうか。優しげな瞳、艶やかな黒髪。華奢ながら凛とした佇まい。
「まこと失礼いたした、相良殿。我が六番目の娘、あやめでござる。……相良殿?」
種実の言葉に、頼房はハッと我に返った。無意識のうちに彼女に見とれていたらしい。
「お初にお目にかかる。肥後人吉の相良宮内大輔頼房でこざる。以後、お見知り置きを」
頼房は、彼女に軽く頭を下げた。
たったこれだけのことを言うのに、これまでになく心臓が激しく音を立てている。
「秋月筑前守が六女、あやめと申しまする」
可憐でありながら、落ち着いた調子の声。気のせいか、彼女もどことなく顔が赤い。
「まったく、今日は客人があると言うたであろう。十八になるというのに、まだじゃじゃ馬は治らぬか」
種実は、呆れながらも愛情たっぷりに娘を叱る。
「さてさて、ここからは年寄りは退散して若い者に任せるとしようか。……そうじゃ、そこのお若いの。この種実がこの辺りを案内いたそう。護衛の心配は無用、さあ、こちらへ」
種実は、頼房の付き添いでついてきていた犬童頼兄を強引に連れていった。頼兄も何かを悟ったのか、大人しく種実に従っている。当然、種実のお付きだの護衛だのも全員二人についていった。
……海岸に残ったのは、頼房とあやめの二人だけ。
――どうすればよいのだ。
頼房は、あやめに対するこの胸の高鳴りが何なのかはわからない。ただ、一つだけわかるとするならば、出会った今この瞬間に、彼女は頼房の特別な人になったのだ。




