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宮内大輔頼房

「やはり、海はよいのう」

帰り支度を整えた頼房一行は、人吉へ帰る前に佐敷の海岸へ立ち寄った。初めて海を見た日が懐かしい。六年前に島津の人質として通った道を、今は大名として通る。何とも感慨深いものである。

対岸には、うっすらと天草が見える。頼房は、胸一杯に磯の香りを吸い込んだ。

「さあ、球磨に帰るぞ。帰ったら祝宴じゃ」

*****

頼房たちが人吉に戻ると、一族郎党総出で出迎えてくれた。大名として球磨一郡を安堵されたとの報は、すでに皆に伝わっているようだ。

「兄上!!!」

頼房の弟、佐三郎長誠が駆け寄ってくる。その後ろから、尼姿の祖母や母たちがやってきた。実母の了心尼は心なしか涙ぐんでいる。

「佐三郎、そなたのおかげじゃ。これで相良は、球磨一郡の大名じゃ」

頼房が十歳になる弟の頭をくしゃっと撫でると、長誠は照れくさそうに笑った。この弟が家老深水宗芳と共に関白秀吉に会いに行かねば、相良家の本領安堵はなかったかもしれない。四つ年上の頼房でさえどれほど緊張したかわからないのに、この弟はよくやってくれた。

「まこと、殿がご無事でようございました。亡き玉井院様と四郎太郎殿もお喜びでございましょう」

気丈な台芳尼も、今日は涙ぐんでいる。亡き父義陽(玉井院)が島津の軍門に下った苦悩を正室として誰よりも近くで見てきた台芳尼にとって、大名に戻ることが出来たことはどれほどの喜びだろう。それは、義陽の母、内城うちしろ殿も同じであった。

「ようやっと、我が孫が大名に……。ありがたきこと、長生きした甲斐がありました」

内城殿は、涙を浮かべて手を合わせた。

「殿も皆も疲れておられましょう。まずは、ゆるりと休まれませ」

ひとしきり歓迎を受けたあと、台芳尼が頼房たちに声をかける。

領地に着いて安心したからか、旅の疲れが一気に押し寄せていた頼房は、その言葉に素直に従った。

*****

関白秀吉の軍勢は、佐敷を発った後、薩摩の川内(せんだい)に入った。

亡き島津義虎の嫡男にして現川内領主、島津忠辰(ただとき)はさして抵抗することもなく降伏、そして五月八日には島津家当主、島津義久が関白に降伏した。

場所は関白秀吉が本陣を置く川内の泰平寺、義久は剃髪し墨染めの衣を纏って関白に平伏したという。

「終わったか」

その報せを受け、頼房は安堵の息を吐いた。

長い服従の日々は、これで完全に終わった。ひとまず、関白秀吉は薩摩一国を島津家に安堵したという。大隅と日向をどうするのかはまだ決めかねているようだが、ともかく、これからは国高は違えど立場は同じ大名である。

「関白殿下の御勝利となりましたからには、この宗芳が殿の名代として殿下にご機嫌伺に行って参りまする」

「うむ、頼む」

宗芳の申し出に、頼房は快く頷いた。本来であれば頼房本人が行くべきなのであろうが、土壇場で島津から関白へ寝返ったことに変わりはなく、余計な火種を生むことがないようにと皆が憂慮した結果である。それに齢十四の当主頼房よりも諸事に通じている家老の宗芳の方が戦勝祝いには適任であろう。

「やはり、わしにはそなたがなくてはならぬ。わしがこうしていられるのも、そなたが佐三郎と共に殿下の元へ行ってくれたおかげじゃ。くれぐれも、殿下にはよろしゅう頼むぞ」

すると宗芳は、感極まったように頼房を見つめ、平伏した。

「ありがたき幸せ。すべて、この老骨におまかせあれ」

*****

五月九日に川内の関白秀吉の元へ赴いた深水宗芳は、秀吉に気に入られたらしく、秀吉が帰路につくまで行動を共にすることとなった。結局、秀吉は薩摩・大隅と日向の一部を島津家に安堵し、五月の下旬に川内を発った。

宗芳から二十八日には関白秀吉が八代に到着しそこから船で帰路につくとの連絡を受けた頼房は、見送りのため八代へ行くことを決意した。

八代へは、坂本を経由し山を越えて向かう。つらい山越えもこのところは少し慣れてきた。それでもまだ、きついことはきついが。

思えば、八代に来るのは初めてである。平野が広がり、球磨川が緩やかに流れる穀倉地帯。肥後随一の港までも有するこの土地を、相良家のご先祖様が欲しがった気持ちがよくわかる。

秀吉が滞在している八代城は、球磨川の河口に程近い、古麓の地に建てられた山城である。かつて亡き父義陽が暮らした城でもあったが、人吉生まれ人吉育ちで初めてこの地にきた頼房にとっては、すでに他人の城と言ってもよかった。

八代で深水宗芳と合流した頼房が、秀吉の側近である浅野長政に秀吉への謁見を願い出ると、ことのほかあっさりと許可が降りた。

「関白殿下におかれましては、この度の御勝利、まことに祝着至極にございまする」

「おう、ようきたようきた。堅苦しい話はそれくらいでよい。名代に加えてそなた自身も遠路遥々やってくるのとは、なかなかよい心がけではないか」

秀吉は、脇息にもたれかかりながら、軽妙な調子で頼房に語りかけた。機嫌がよいのか、にこにこと笑っている顔になんとも言えない愛嬌を感じる。

「ありがたき、お言葉にて……」

頼房がそうお礼を言いかけると、急に秀吉はむくりと体を起こし、手を叩いた。

「そうじゃ、島津も征伐したことであるし、そろそろ領国安堵の朱印状をやらねばならぬな。それから、そこの深水宗芳、なかなかの連歌の名手であった。宗芳には球磨郡内の本領に加えて葦北郡の津奈木と水俣をやろう」

「我が家臣にまで所領を下さるとは、まこと、感謝の念に堪えませぬ」

一気にまくし立てる秀吉の言葉を唖然として聞いていた頼房は、慌てて平伏した。

「よいよい。……ところで、相良四郎次郎」

急に、秀吉の声の調子が変わった。

「ちと相談なのじゃが……深水宗芳、わしにくれぬか」

「はっ……?」

頼房は、一瞬何を言われているのかわからなくなった。『くれ』とは、自らの家臣に欲しいということか。確かに、宗芳は諸事に通じ、秀吉の言うとおり連歌の名手でもあった。秀吉が欲しがる気持ちはわかるし、関白の家臣になるなどこの上ない誉であろう。

「殿下、恐れながらこの宗芳……」

「わしは四郎次郎に聞いておる、そなたは黙っておれ」

秀吉は、宗芳が慌てて声を発したのを、ピシャリと黙らせた。

頼房は、自分が今血の気の引いた真っ青な顔をしているのがわかった。まだ齢十四、(まつりごと)の何たるかもわからない頼房にとって、深水宗芳はなくてはならぬ存在であった。しかし、ここで関白秀吉の申し出を断れば、宗芳たちの働きでようやく得た球磨一郡の本領安堵さえ失くなってしまうかもしれない。

秀吉は、脇息に寄りかかって頬杖をつきながら頼房を探るように見ている。

――どうすればいい、一体どう答えれば。

「この、相良四郎次郎、恐れながら……」

「はははははっ!!!」

頼房が言葉を絞り出している最中、秀吉は急に笑い声をあげた。

「戯れ言よ。まことにそなたのような若輩者から指南役を取り上げる訳がなかろうて」

秀吉の言葉に、頼房はほっとして文字通り腰が抜けそうになった。

「心配するな、わしの家臣にならずとも津奈木と水俣は宗芳にやる。そうそう、そなたも大名なれば、官位がなくてはならぬなあ。確か相良の何代か前の当主が、宮内大輔(くないだゆう)を名乗っていたであろう。宮内大輔でどうじゃ」

「あ、ありがたき幸せでございまする」

宮内大輔を名乗っていた当主というのは、十六代当主義滋(よししげ)、台芳尼の実の父である。恐らく、台芳尼の父が宮内大輔を名乗っていたのを知ってのことだろう。

九州だけでも多くの大名国衆がいるなかで、相良家のことを一人でどこまでも把握している。さすがは、関白まで登り詰めた男という他ない。

「よし、決まりじゃな。これからは頼むぞ、相良宮内大輔」

秀吉が歯を見せて笑った。

先程の緊張感と、今の屈託のない笑み。

一人の人間としての明るさと、関白としての底知れない威圧感。

――一気に、引き込まれた。

この二面性が、彼を関白たらしめたのかもしれない。

関白の威圧感に恐怖の極みを味わった頼房が関白の御前を退出すると、すっと一人の男が頼房と宗芳の前にやった来た。

「これは……小西弥九郎殿」

「一月ぶりでございましょうか、相良宮内大輔殿」 

一月ぶりに会った取次役の小西弥九郎は、相変わらずの精悍な顔立ちに、深い藍色の装束を身に纏っている。

以前から頼房が「宮内大輔」の官名を名乗ることを知っていたのか、何の躊躇いもなく新たな名で呼んでくれた。何とも言えない嬉しさと、大名として官名を名乗る責任の重さが、頼房の身にのしかかる。

弥九郎は、頼房ににこりと笑いかけると、次に頭を下げている宗芳に視線を移した。

「深水殿。……その様子ですと、ご決意は変わらぬようでございまするな」

「はい。殿下にはまことに申し訳もございませぬが……」

――何の話をしているのだろう。

頼房の預かり知らぬところで、何かの話が進んでいるようである。

「ところで、相良殿。そろそろこの弥九郎も八代を立ちますが、その前に少しお話をしとうございまする。よろしゅうござるか?」

「は、はい」

「では、申し訳ござらぬが、深水殿には外して頂きたい。二人で話をしとうござる故」

宗芳は頼房を一人にすることを躊躇っていたが、関白の家臣である弥九郎の言葉に逆らうことはできなかった。

「では、相良殿、こちらへ」

弥九郎に導かれるまま、頼房はその後ろをただ付いていくことしかできなかった。

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