小西弥九郎
関白秀吉との謁見は、空恐ろしいほどつつがなく終わった。どうやら、深水宗芳が事前に段取りを整えていたらしい。
「宗芳、そなたのおかげで晴れてわしも大名じゃ。父上と兄上も、泉下で喜んでおられよう」
晴れやかな顔で宗芳に礼を言うと、宗芳は穏やかに微笑んでいた。
「ありがたきお言葉。殿も、堂々たるお振る舞いでございましたぞ」
長い道のりであった。戦に負けて島津の配下となった父は盟友との戦に駆り出され戦死、兄は生涯島津に頭を下げ続けた。
だが、もう島津に頭を下げる必要はない。相良は、もはや名実ともに独立した大名となったのである。
ひとまず秀吉との謁見を終えた頼房の一行は、人吉へと帰ることとなった。宿所で戻り支度を整えているところに、一人の若い男がやって来た。謁見の際に案内役を務めた、小西弥九郎という男らしい。
「関白殿下のご家来衆じゃ、丁重にお迎えせよ」
宗芳は、他の家臣たちに戻り支度を一旦止めさせて、弥九郎を迎える準備をさせる。
「何の用であろうか……」
頼房は、何事かと顔を曇らせる。
「ご案じなされまするな、何を言われようと、堂々としておればよいのです」
宗芳の励ましに、頼房は不安げにこくりと頷く。
そして、頼房と宗芳は弥九郎の出迎えに向かったのであった。
*****
「お忙しい時分に申し訳こざいませぬ」
用意された部屋に入った小西弥九郎は、頼房に向かって頭を下げた。
「とんでもないことでございまする、小西様には、ようおいでくださいました」
頼房は家老深水宗芳、犬童休矣を従え、揃って頭を下げる。弥九郎には上座を勧めたのだが、それは丁重に断られ、弥九郎は頼房の真正面に座している。
「この小西弥九郎、殿下の名代で参った訳ではございませぬ故、『様』は不要にござる。此度相良殿と関白殿下の取次役を命ぜられました故、ご挨拶に伺ったまでのこと」
弥九郎はそう言うと、深水宗芳と犬童休矣にちらりと視線を向ける。
「ところで、まことに申し訳ござらぬが、相良殿と二人で話をしとうござる。よろしゅうございまするか」
頼房の心臓が、嫌な音を立てる。
――何を話そうと言うのだ。
齢十四の少年に、関白の家臣ともあろうものが政の話をするとも思えない。だが、ここで断っては関白に何を伝えられるかわからない。
「仰せのままに」
そして頼房は、深水宗芳と犬童休矣に退室を命じたのだった。
*****
家老たちが退室した後、頼房は小西弥九郎と向かい合っていた。二人の家老がいないことが、こんなにも心細い。
「取次を務めますからには、相良殿と一度お話をしとうございまして。ご迷惑でございましたか?」
「いえ、そのようなことは」
弥九郎は、淡々とした調子で言葉を述べる。決して大きい声ではないのに、よく響く美声である。
たが、そこに何かの感情を見いだすことはできない。
それからも、淡々と話は進んでいく。球磨はどのようなところか、家族はどのような人か。当たり障りのない会話が続く。恐らく事前に球磨郡の地理だの相良の一族のことだのはそれなりに調べているはずなので、全く意味のない会話である。
――これで終わる訳がない。
頼房は、注意深く弥九郎の表情を窺ったりもするのだが、何を考えているのかそこから読み取ることはできない。
そして、会話が一瞬途切れる。沈黙の後、小西弥九郎は頼房の顔をじっと見据え、一度大きく息を吐いた。
「ところで、聞き及んでおられるかと思いまするが、この小西弥九郎は元は商人の出でございまして」
「商人!?」
頼房は、突然の告白に、思わず目を見開いた。確かに、関白秀吉からして尾張の足軽か土豪か何かの出であったらしいし、上方にはそのような者が多いのかもしれない。
頼房は、弥九郎と初めて会った時の洗練された振る舞いを思い出した。これが上方武士かと感心したものだが、その男が商人出身だと聞かされた時の驚きは、言葉に表すことができない。
「おや、深水殿から聞いておられませぬか?」
弥九郎は、意外な顔をして頼房を見る。
「いえ、何も聞いてはおりませぬ」
深水宗芳は、小西弥九郎の出自については何も言ってはいなかった。
……おそらく、敢えて言わなかったのであろう。
「なるほど、道理で……。この弥九郎、元は薬屋の倅でござる。生まれは京、育ちは泉州堺。長じてからは備前の呉服屋へ養子に行き、そこで備前の殿様にお目をかけて頂き、侍になり申した」
弥九郎は、自らの経歴を簡単に述べる。
「何ゆえ、侍になられたのです?」
頼房は、思わずそう問うてしまった。
商人には商人の苦労があるが、侍は命のやり取りが仕事だ。しかも上方生まれ、どう考えても商人をしていた方が人生は安泰である。
弥九郎にとって予想外の質問だったのか、彼も思わず目を見開いた。そして、遠くを見つめるような、何かを懐かしむような表情を浮かべた。
「さあ、どうしてでござろう……。自分でも、ようわからぬのです。恐らくは、備前の殿様に才を認めて頂いたことが嬉しかったのでございましょう。その殿様も早うに亡くなられ、今は不思議なご縁で関白殿下にお仕えしておりまする」
弥九郎の表情は、先程とは違って柔らかい。これが、この男の本来の表情なのであろう。
「……相良家は、鎌倉以来の御家と伺っておりまする。きっとこの弥九郎を成り上がり者と蔑まれるかと思っておりましたが、思い違いをしていたようでござる」
彼は、頼房の顔をじっと見つめる。
「これまで、多くのご領主に会って参りました。この弥九郎の出自を知るや言葉には出さずとも見下しているのが態度でわかる者、急に余所余所しくなる者は数あれど、相良殿のようにこの弥九郎自身に興味を持たれた方は初めてでござる」
頼房は、きょとんとして弥九郎を見た。
「確かに鎌倉以来の家名と血には誇りをもっておりますが、それを振りかざすつもりはございませぬし。それに、己の才覚をもって関白殿下のご家来にまでなられたことは、並みの人間にはできぬ素晴らしきことではございませぬか」
生まれながらの大名の子ゆえに、己の才覚で成り上がった者の気持ちはわからない。だから、その才覚を認められて出世できるのは、なんとも羨ましいことのように思えた。
「この頼房、何の取り柄もなき若輩なれど、相良の家に生まれたがために、皆私に頭を下げ、忠義を尽くしてくれておりまする。それを思えば、己の才覚を以て出世なされた小西様……小西殿が、羨ましくもございまする」
自分で言って悲しくなるが、これが事実である。齢十四の少年に家臣たちが尽くしてくれるのは御家存続のためで、別に頼房の人柄や才覚に惚れ込んでいるからでも何でもない。
すると弥九郎は、フッと息を吐いて興味深そうに頼房を見た。
「さすがは鎌倉以来の御家柄、人が出来ておられる。……ただ、相良殿はそうおっしゃるが、何の取り柄もないなどと思っているのはご自分だけかもしれませぬぞ」
弥九郎は、いたずらっぽく笑う。精悍な顔立ちの彼には、その表情がよく似合っていた。
「少し、喋りすぎましたかな。これよりは、長いお付き合いになりましょう。今後とも、よろしゅうお願い致しまする」
懇ろに挨拶を交わし、弥九郎は席を立った。ふと、首筋に光るものが見えたのは、気のせいであったのだろうか。
淡々としているが、冷たくはない。きっと上手くやっていける。そんな気がした。
*****
小西弥九郎が帰った後、頼房は部屋で一人、彼のことを思い出していた。精悍で洗練された立ち居振る舞いの男であったが、出自を気にしているような様子であった。
そういえば、島津の配下だった時、島津の使者が関白秀吉のことを成り上がり者だの何だの言っていた気がする。
それを思い出した瞬間、頼房は思わず息を飲んだ。
関白秀吉を成り上がり者と見下していても、その圧倒的な力に、本心を隠して頭を下げた者など大勢いるだろう。
――関白に無礼な態度などとれない。では、商人あがりの若者ならば?
頼房は、ぞくりとした寒気を覚えた。彼は、ただ頼房と話にきた訳ではない。これを確かめにきたのだ。彼を商人上がりと馬鹿にする者が、関白秀吉の出自を馬鹿にしない訳がない。
そしてそのような心を持った者を、利用はしても信用はしない。
「関白殿下は、恐ろしい方じゃ」
頼房は、天井を見上げながら、そうぽつりと呟いた。




