転換
天正十五年三月二十八日。とうとう、関白秀吉自らが豊後小倉へ上陸した。
島津の軍勢は体勢を立て直すため日向高城を拠点に陣を置き、当主義久は肥後八代から本拠である薩摩へと陣を引いた。
総勢二十万を超える豊臣勢は、関白秀吉が筑前、筑後を通り肥後へ、関白の弟秀長が豊後を通り日向へと攻め込むことを決定したらしい。
情勢は、島津に圧倒的に不利である。滅亡寸前だった大友は息を吹き返し、豊後の国衆たちは次々と島津へ反旗を翻した。
そして、関白秀吉の軍勢を徹底抗戦の構えで迎え撃っていた筑前古処山城の秋月種実も、楢柴の肩衝なる名物茶器と娘を人質に差し出して降伏した。
この秋月種実という男は、大友宗麟に父と兄を攻め滅ぼされ、自らは命からがら逃げ延びて御家を再興したという過去を持つ。故に生涯をかけて反大友を貫き、島津の大友攻めにも積極的に協力していたのである。だが、多勢に無勢、関白秀吉の軍勢には、降らざるを得なかった。
秋月家降伏の後、肥前の大勢力、龍造寺家も秀吉に降伏した。そもそも先代龍造寺隆信を島津に討ち取られ、否応なしに島津の配下となったのである。島津に忠義を尽くして抵抗などする訳がなかった。
島津の使者がやってきたのは、島津がじりじりと追い詰められていく、そんな折りであった。
「まず我らは関白の弟、秀長を日向高城で迎え撃つ所存にござる。上方勢は総勢二十万とも言われるが、所詮は寄せ集めの烏合の衆、戸次川の時のように蹴散らしてくれましょうぞ」
使者はこの後の戦略を威勢よく伝えると、ぎろりとした目で頼房を見据える。
「そこで、此度の戦には相良家においては御当主、四郎次郎頼房殿御自らの出陣をお願いしたい。いかがでござろう」
背筋が、ぞくりと凍りつく。
「御当主殿の初陣でござる。相手は上方の大軍勢、まこと末代までの誉れとなりましょうぞ」
島津の使者は、ぎらぎらとした目でそう迫った。
――冗談ではない。
そう思ったが、この期に及んで逆らうことなど不可能である。
「仰せのままに」
頼房は、一言だけそう言って頭を下げた。
*****
家老犬童休矣が阿蘇の坂梨から戻ったのは、それから間もなくのことであった。城内は、日向への出陣の準備で慌ただしい。
「休矣、よう戻った! 傷を負ったと聞いた、大事ないか」
休矣は、嫡男軍七に支えられながら登城してきた。豊後菅迫城から坂梨まで退却する際、敵襲にあったのである。
「なあに、かすり傷でござる。ご心配には及びませぬよ」
休矣は笑顔でそう返した。努めて明るく振る舞っているが、腕や足を動かすのは未だにつらそうであるし、ちらりと手当ての痕も見える。
「大方、血が騒いだのでございましょう。まったく、いい年をして無茶なさるから……」
「こやつめ、人を年寄り扱いしおって」
「ご自分でおいぼれがどうのと言っておられたでしょう。父上こそ、都合のいい時ばかり年寄りぶらないでくださいませ」
親子の軽妙な掛け合いに、頼房もつい頬が緩む。軍七の言葉は辛辣だが、休矣のことを心から案じていたことがわかる。
「ともかく、そなたが無事でよかった。ゆっくり休め、と言いたいところじゃが……」
頼房は、顔を曇らせて言葉を一瞬切る。
「存じております。殿の初陣のことでございましょう」
「……うむ」
「筑前の秋月と肥前の龍造寺が降伏、肥後の国衆たちも次々と関白に寝返っているとのこと。もはや、島津に勝ち目はありますまい」
休矣は、そう言い切った。
「このままでは、相良は島津の道連れ。その上殿御自ら関白の軍勢と刃を交えることになどなれば、必ずや関白の怒りを買いましょう」
休矣は、そこまで言って考え込む。
「殿、よろしゅうございまするか」
頼房と犬童親子だけの部屋に、来客がやった来た。
*****
声の主は、家老深水宗芳であった。
「深水殿。この度は、甥御殿のこと、お悔やみ申し上げる」
「かたじけない。犬童殿こそ、ご無事で何よりでござる」
互いに、頭を下げる。
「……若き者たちが先に死んでいき、この年寄りが生き残る。まこと、世は無情にござる」
宗芳は、悲しげな顔でそう言った後、顔を引き締め、家老の顔になった。
「時に犬童殿。殿の初陣の話、聞き及んでおいでか?」
「ちょうど、その話をしていたところでござる。もはや、島津に勝ち目はござらぬ。島津もろとも滅ぼされる前に、御家を守るため、関白に味方するのが肝要かと」
関白に味方する。すなわち、島津から関白に寝返るということである。
頼房は、唾を飲み込む。心臓の鼓動がどくどくと脈打っているのがわかる。島津の配下から脱するのは、兄忠房以来の相良家の悲願だ。
――だが。
「ただ一番の問題は、殿の御弟君、佐三郎様のことでござるな」
休矣は、宗芳をじっと見つめる。島津領内で人質となっている頼房の弟、佐三郎長誠は、もし相良が寝返ったとわかれば殺される可能性が高い。
「そこで、でござる犬童殿。一つ、この宗芳に策がござる」
*****
「ひとまず殿には日向へと御出陣頂き、その間にこの宗芳が、出水に行き佐三郎様をお救い致す。そして佐三郎様を連れ、関白に……いや、関白殿下に謁見し、御家存続の道筋を作る」
「なりませぬ!」
休矣は、強く抗議の声をあげる。傷に響いたのか、一瞬苦しそうな表情が浮かんだ。
「深水殿は御家の要、殿のお側にいて頂かねば。それにもし失敗すれば……。どうしてもというならば、この休矣が参りまする、深水殿を失う訳にはいきませぬ」
すると、宗芳は、穏やかな笑みを浮かべた。
「先だって、殿にこのお願いをしたおり、殿はこの宗芳に、殿ご自身のお命と弟君の命を預けると言うてくださった。どうあっても、失敗など許されませぬ」
宗芳の甥、弥五郎の訃報がもたらされた時、宗芳は頼房に願いがあると言った。それが、この願いである。
「それに、この宗芳と違い、犬童殿には、未だ教え導かねばならぬ存在がおりましょう」
宗芳は、じっと黙って話を聞いている、休矣の嫡男軍七に視線をやる。
「島津の主力が日向に集結している今、出水の守りは手薄でござろう。必ず、佐三郎様を救い出し、御家存続の道を作る。犬童殿には、殿と共に日向へ御出陣頂き、殿をお守り頂きたい」
そこまで宗芳が言うと、休矣はしばらく考えた後、宗芳を力強く見つめた。
「あいわかった。この犬童休矣、命に代えても殿をお守り致す」
「かたじけない。殿、いかがでございましょう」
宗芳は、上座の頼房に問いかける。
もちろん、異論はない。
「そなたらに、任せる」
ここに、相良家の方針は固まった。頼房は、息を一度大きく吸った。
「島津を、見限る」
ここが、御家存続の正念場である。




