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豊薩合戦 弐

「申し上げます! 豊後戸次(へつぎ)川において、お味方関白の軍勢に大勝! 当家よりも深水(ふかみ)平内左衛門(へいないざえもん)殿、並びに樅木九郎兵衛(もみきくろべえ)殿、見事なる槍働きをなされたとの(よし)にございます!」」

伝令が島津家大勝の報をもたらしたのは、寒さが身にしみる十二月の半ばのことであった。

日向より大友領に侵攻することとなった島津四兄弟の末弟、家久は十二月に大友家の本拠、府内(ふない)の側近くへと迫っていた。

相良家も島津四兄弟の次男義弘の軍勢に加えて、四男家久の軍勢にも加勢を出し、全面的に島津家へ協力する姿勢をとることとなった。

そんな中、関白秀吉の命を受けた土佐の長宗我部元親、阿波の名門三好家の血を引く十河存保(そごうまさやす)らの四国勢、並びに秀吉の家臣で讃岐一国を領する仙石権兵衛(せんごくごんべえ)らの軍勢が豊後へ上陸する。大友勢と合わせて三万を越える軍勢であったという。

対する家久の兵は相良の兵を合わせて二千ほどであり、両軍は戸次川(へつぎがわ)なる川を隔てて睨みあっていた。

そして、天正十四年十二月十二日。仙石権兵衛主導の元、関白の軍勢は戸次川を渡り、奇襲を仕掛けてきた。

――それを、島津家久が待っていたとも知らずに。

島津の得意の戦法として、後世に「釣り野伏(のぶ)せ」という名称で伝わる戦法がある。軍勢を三手に分け、二手を敵の左右に伏兵として忍ばせる。そして残りの一手が正面から戦い、退却のふりをして敵を引き付け、深入りしてきた敵を左右の伏兵に襲わせる。

かつて、かの肥前の太守、龍造寺隆信を討ち取ったのもこの戦法であった。それが、この戸次川の戦いでも実践された。

関白の軍勢は島津勢に散々に打ち破られ、討ち死にする者、川で溺死する者など多数であった。

さらに関白の軍勢は所領を四国の中で争っていた長宗我部と十河、四国を制圧した秀吉の家臣である仙石権兵衛と、かつての敵同士の寄せ集めで統率がとれていなかったことも、敗因の一つとなった。結果、長宗我部元親の嫡男信親と十河存保が討死、仙石権兵衛は敗走を余儀なくされた。

そして家久はその勢いのままに大友家の本拠府内を攻略、当主義統(よしむね)は高崎城、後に豊前の龍王城へと退いた。

「島津が、関白の軍勢に勝った……」

頼房は、半ば信じられない思いで、伝令の報告を受けた。

もしかしたら、島津の使者が言っていたとおり、寄せ集めの関白の軍勢よりも統率の取れた島津の軍勢の方が強いのかもしれない。

深水(ふかみ)平内左衛門(へいないざえもん)樅木九郎兵衛(もみきくろべえ)には、そなたらの武功をこの頼房も喜んでおる、ようやった、と伝えよ」

ますます今後の情勢がどうなるのかわからなくなってきたが、相良の家臣が手柄を挙げるのは素直に嬉しい。

頼房がにこりとしてそう言うと、伝令も嬉しそうに頭を下げた。

「武功は嬉しいが、この先それに報いてやれるのか……」

去っていく伝令の姿を見ながら、頼房はぽつりとそう呟いた。

*****

大坂の関白秀吉は、この年の暮れに太上大臣に就任した。先だって帝より「豊臣」の姓を賜り、位人臣(くらいじんしん)を極めた秀吉は、名実ともに天下人となった。

そして、年は明け天正十五年。ついに秀吉は、島津家討伐のため、本格的に動き出すこととなったのである。

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