豊薩合戦 壱
天正十四年六月。島津家は、大友家攻略の方針を決定した。まず本陣は肥後八代、太守義久自らが詰める。そして次弟義弘と三弟歳久が肥後、四弟家久が島津の所領である日向、さらに島津四兄弟の従兄弟である忠長が未だ大友家の支配下にある筑前・筑後方面より攻めることとなった。三方向から攻めこまれれば、さすがの大友家の滅亡も時間の問題であろう。
「相良殿には、我らにご加勢頂くことに加えて、相良の家中でも武勇の誉れ高い内田伝右衛門、菱刈源兵衛、岡本河内守の三名をお貸し頂きたい。太守様のご舎弟、兵庫頭義弘様たってのご所望でごさる」
「まこと、相良にとっても三名の者にとっても名誉なことでございまする。この上は、家中一丸となって太守様の御為に励みまする」
島津の使者にそう告げて、頼房は深々と頭を下げた。関白秀吉の意向を完全に無視したもので本心では関わりたくはなかったが、この期に及んでは仕方がない。
関白といえば、現在の大友家当主、義統の父ですでに隠居していた大友宗麟が、名門大友家の矜持などかなぐり捨て、自ら大坂の関白秀吉に謁見し、島津家討伐を懇願したらしいとの話もある。
島津には協力せねばならないが、もし関白が出てくればどうなるのか。頼房にとっても重臣たちにとっても、悩ましい問題である。
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島津家による大友家攻略は、思った以上に難航した。
まず、島津忠長率いる軍勢が筑前へと侵攻したが、大友家の重臣にして歴戦の名将、高橋紹運の岩屋城攻めにおいて紹運の激しい抵抗にあい、高橋紹運始め城兵はことごとく討ち死、城は落ちたものの島津勢は四千人を優に越える死傷者を出した。
そして、最悪の知らせが入ってくる。
関白秀吉より九州平定の先手を命じられた中国の毛利勢が、豊前に上陸したのである。長年毛利と大友は敵対関係にあったが関白秀吉の計らいで和睦、この度は大友家の救援にやって来たのだ。
「とうとう関白の軍勢がきたか」
人吉でその知らせを聞いた頼房は、文字通り頭を抱えた。
弟を人質に取られている以上島津に逆らうことはできないが、かといって関白の軍勢に島津もろとも滅ぼされるのも御免である。
どうすればいいのか。どちらに勝ってほしいのか。
頼房と重臣たちの苦悩は、さらに深まった。
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天正十四年十月二十一日。ついに島津義弘と弟の歳久は、阿蘇より国境を越えて大友家の本拠、豊後へと侵攻する。
関白の軍勢が来たところで、計画を変更するつもりは全くないようだ。
この戦には、島津義弘に従っていた相良家の兵も当然加わることとなった。
「大友だけならばまだしも、関白の軍勢とも戦わねばならぬのか……」
頼房は顔を曇らせる。
相良家は、とうとう関白秀吉と島津の戦に巻き込まれることとなってしまった。




