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阿蘇家攻略戦 弐

「申し上げます! 阿蘇家の軍勢花山(はなのやま)城へと攻め寄せ、城代木脇刑部左衛門殿、並びに鎌田左京亮殿お討ち死に! 城に籠る兵はことごとく討ち取られた(よし)!」

「申し上げます! 花山城に攻め寄せたるは御船城主甲斐宗立(かいそうりゅう)! 当家よりは牧野勘解由(かげゆ)、犬童刑部、田浦久四郎のお三方お討ち死の由!」 

天正十三年八月十日、島津と阿蘇の国境の城、花山城が落城したとの報は、その日のうちに人吉の頼房の元へと届けられた。

伝令が慌ただしく出入りし、城内も殺気だっている。

「甲斐宗運の嫡男ともあろうものが、なんと愚かな……」

頼房の側に控える樅木宗兵衛は、顔を歪めて呟いた。

戦の報告を受けた頼房は、戦の顛末よりも相良の家臣が討ち死にしたことに衝撃を受けた。

「相良から、討ち死にした者が出たか」

心が、ずきりと痛む。人が死なぬ戦はないが、自分が当主となって初めて出した戦死者である。家中の侍全員の顔と名前を覚えているわけではないが、それでも胸が痛む。

頼房は、心の中で亡くなった者たちに手を合わせた。

「……残念ながら、そのようでございます。花山城が落ちたのち、八代にいる島津兵庫頭義弘は救援のため相良と島津、合わせて一万二千の兵を発したとのことにございまする」

宗兵衛の言葉に、頼房は暗い気持ちになる。この度の総大将は太守義久の弟にして歴戦の猛将、島津兵衛頭義弘である。人質だった頃に会ったことがあるが、いかにも武人といった風格の男であった。その義弘を総大将に、一万二千の兵を動かす。それだけ、島津は本気ということだ。

そうなると、考えられることはただ一つ。

「島津は、阿蘇を滅ぼすつもりか」

そもそも、花山城は父、義陽が戦死した響野原の近く、つまり阿蘇領内に建てられた島津家の支城である。あからさまな挑発で阿蘇家の家臣たちは激怒したそうだが、甲斐宗運はその魂胆を見抜き、花山城を決して攻撃せぬように厳命し、家中の暴発を抑えていた。

だが、宗運亡き後、溜まりに溜まった怒りが爆発したのか、当の宗運の嫡男宗立が突如として花山城を『攻撃してしまった』のである。

ーーそれが、阿蘇家を攻める絶好の口実になることもわからずに。

阿蘇家は、古代より続くとされる由緒ある家系で、阿蘇家の当主は阿蘇神社の大宮司を兼ねる。相良や島津も鎌倉の御家人を祖とする家系ではあるが、それでも阿蘇家の歴史には遠く及ばない。

ゆえに阿蘇家当主の権威は絶大で、肥後北部に長く君臨してきた。近年では名将甲斐宗運の活躍もあり、その圧倒的な権威と武力で家名を守ってきたのだ。

だが、天正十一年七月の甲斐宗運の死と共に、阿蘇家の権勢は陰りを見せていく。

まず、同年十一月には阿蘇家当主惟将(これまさ)が宗運の後を追うように死去。そして翌十二年には跡を継いだ惟将の弟、惟種(これたね)までも死去してしまった。後に残されたのは、惟種の子でわずか三歳の惟光(これてる)と二歳の弟、惟善(これよし)のみである。

そして現在、四歳となった大宮司惟光が当主の座についているが、四歳の幼子(おなさご)に何ができるわけでもなく、御家の要を次々と失ってしまった阿蘇家の家臣たちの動揺は計り知れない。

そんな時に、島津家が阿蘇家を攻める絶好の口実を与えてしまったのである。

もはや、阿蘇家の命運は風前の灯火(ともしび)と言ってよかった。

***** 

阿蘇家滅亡の報がもたらされたのは、そのわずか三日後のことであった。

さすがに早すぎる、間違いではないかと何度も確認したが、伝令は口を揃えて間違いはないという。

「まさかあの阿蘇家がかように早く……」

頼房は、ただただ絶句するしかなかった。

甲斐宗立率いる阿蘇家の軍勢は、花山城を落としたはよいものの、八代よりやってきた島津の援軍一万二千にあっという間に敗れ、花山城を奪い返されたのみならず隈庄(くまのしょう)堅志田(かたしだ)といった他の支城も次々に攻略されていった。

甲斐宗立の本拠、御船城も島津の猛攻により落城。宗立は降伏し、命だけは助けられたという。

そして島津勢はその勢いのままに阿蘇家当主にして阿蘇神社大宮司、惟光のいる矢部郷へと攻めいった。だが島津の大軍の前に弱体化した阿蘇家の軍勢はなすすべもなく、大宮司惟光と弟で三歳になる惟善は母ともども行方知れずとのことである。

今島津の軍勢が惟光たちの行方を血眼になって探しているようだが、どこへ隠れたのか、どうしても見つからないらしい。

だが、ここに阿蘇家の支配が完全に終わりを迎え、島津の支配下に入ったことは間違いはなかった。

阿蘇といえば、肥後の中でも名門中の名門、まさか滅びるなどとは頼房は考えてもみなかった。

そしてもし父が島津に降伏しなければ、きっと頼房たち兄弟も大宮司惟光兄弟と同じ運命を辿っていたことだろう。

頼房がここに生きているのは、父が屈辱に耐え頭を下げ、命を捨てて相良を守ってくれたからに他ならない。

そして、頼房には稀代の名家老、深水宗方と犬童休矣がいた。阿蘇家の甲斐宗立は父宗運ほどの才覚はなく、当主が次々と亡くなる不幸に見舞われたのち、幼君を戴くこととなった阿蘇家を立て直すことはできなかった。

宗運の死で、阿蘇家の命運は尽きていたのかもしれない。

相良頼房と阿蘇惟光。境遇は似ていても、たったいくつかの偶然で、その命運は大きく分かれた。

頼房は、大きく一度深呼吸をした。

自らの境遇と重ね、阿蘇家の兄弟を哀れに思う。できることなら、助けてやりたい。だが、頼房は相良の当主だ。たとえ平凡でも、それほど期待されていなくとも。

「島津兵庫頭様へ戦勝祝いを。阿蘇家攻略の儀、まことに祝着至極と伝えよ」

相良家は、どう足掻いても、島津の幕下(ばっか)であったから。

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