佐三郎長誠
頼房の当主就任と平行して、弟、藤千代を出水へ人質として送る準備が着々と進んでいた。随行の者は大半が交代となり、頼房の随行の者たちは元の役目へと戻っていった。
「中納言よ。世話になったな」
「ありがたきお言葉。これよりは、陰ながら殿のお幸せを、お祈りしておりまする」
女房の中納言は、涙を浮かべて別れの言葉を述べる。彼女は帰還を機に、城仕えを辞め元の家でゆっくり過ごすのだという。
四年間共に過ごした者たちである。寂しくない訳がなかった。
「殿。台芳尼様がお呼びでございます」
樅木宗兵衛が、頼房を呼びにきた。四年ぶりに会った彼は、頼房の帰還を泣いて喜び、現在は頼房の側近くに仕えている。二十二歳になる彼は以前よりも筋肉がつき、さらに精悍さが増していた。そして、相変わらず一点の曇りもない忠誠心を頼房に捧げてくれている。
「うむ、すぐに」
少しずつ、当主としての生活が動き始めた。
*****
「殿。藤千代殿の人質のことでございまするが……」
頼房の育ての母、台芳尼。
祖母の内城殿は一人息子と最愛の二人の孫を立て続けに亡くして意気消沈し、政務の一線から退いた。これよりは、亡き人たちの菩提を弔うのだという。
故に、先々代の正室であった台芳尼が頼房の後見を一手に担うこととなったのである。
台芳尼は、長女の虎満を病で亡くし、次女千満を政略で大隅の禰寝家へ嫁がせた心労からか、ずいぶんとやつれていた。それでも彼女は、凛とした佇まいを崩すことなく、しっかりと背を伸ばしている。おそらく、十六代義滋の娘にして十八代義陽の正室であるというその矜持が、それを支えているのであろう。
「まこと、あの名をつけてから、出水へ送るおつもりか?」
台芳尼は、頼房の目を探るようにまっすぐ見つめる。
「はい。台芳尼様は、お気に召しませぬか?」
すると台芳尼は、目を閉じて暫し考え込んだ。
「よき、名だと思います。されど、島津が何と言うか……」
台芳尼は、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「亡き兄上……忠房様は、人質に行くこの私に、『四郎次郎頼房』の名をくださいました。魂を分けた弟、大切な弟だと。私にとっては、何よりの餞別でございました。……この頼房も、人質へ行く弟へ、何か贈り物をしてやりたいのです」
沈黙が、落ちる。
すると台芳尼は、ふっと頬を緩めた。
「まったく、あなたがた兄弟は……。わかりました、殿の、思うままになさいませ」
「はい、ありがとうございます」
頼房の、当主として最初の大仕事が待っていた。
*****
「そなたと話すのも久しぶりじゃ。のう、藤千代」
頼房は、今年八歳になる弟の藤千代と、朝から城下が見渡せる懐かしい城の一角に立っていた。相も変わらず霧が立ちこめ城下の景色はよく見えないが、それも逆に故郷に帰ったとの実感を強くする。かつて共にこの景色を見た大好きな父も兄も、もういない。
「はい、兄上」
藤千代が、短くそう答える。四年ぶりに会う弟は、背も伸び幼児から少年へと変わっていた。どちらかというと、顔立ちは母の了心尼に似て優しげで、体つきも線が細い印象を受ける。
正直なところ、弟と話すのは久しぶり過ぎて何を話せばよいのかわからない。故に、どうしてもぎこちない会話になってしまう。
「……父上が亡くなられたのは、そなたが四つの時であったな。父上が出陣される前、父上と兄上と、四人でここから共に景色を見たのじゃ。覚えておるか?」
その時と違い、さすがにもう手は繋がない。藤千代は、頼房の隣に一人ですっくと立っている。それほどの歳月が、流れた。
「……はい。あれが、この藤千代にとって、父上とのただ一つの思い出にございまする」
あの時、藤千代は四つの幼児。父は政務で八代に滞在することも多く、覚えていなくても無理はない。
「そうか……」
沈黙が落ちる。
「二の兄上。兄上だけは、いなくならないでくださいませ」
藤千代は、ぽつりとそう呟く。父を失い、一番上の兄と姉を亡くした。家族の死を、この幼い弟は、どのような気持ちで見てきたのだろうか。
「……それは、わからぬ」
藤千代が、悲しげな目で頼房を見上げる。
頼房は、膝を曲げて藤千代の目線の高さに合わせる。
「そなたに、名を与える。これよりそなたは、佐三郎長誠じゃ」
頼房は、胸元から、名を書いた紙を取り出し、藤千代に渡した。
「……四郎三郎ではないのですか?」
藤千代が、怪訝そうに聞いてくる。亡き兄忠房の通称は四郎太郎、頼房は四郎次郎である。それでいけば、藤千代も四郎三郎になると思うのは当然のことである。
「うむ。……兄上は、このわしに、自らの名を分け、魂を分けた弟という意味で、四郎次郎頼房の名をくださった。されど、わしはそれをせぬ。……もしこの兄の身に何かあっても、そなただけは、二人の兄たちとは別の道を歩めるように」
頼房は、藤千代の頭に、そっと手を置いた。
「三男として相良を『佐』け、もしも当主になることがあれば、御家のために『長』く『誠』を尽くせる男となれ。これよりそなたは、相良佐三郎長誠じゃ」
相良の通字、「長」と「頼」。敢えて頼房の名と重ならない「長」の字を用い、二人の兄の名と、重ならないようにした。全ては、もしも自分の身に何かあった時、藤千代――長誠だけでも災いを逃れられるように。
「どうじゃ、藤千代」
頼房は、長誠に不器用に笑いかけた。
「佐三郎長誠……。はい、良き名でございます、兄上」
長誠が、パアッと明るい笑みを浮かべる。
「されど、この佐三郎長誠、ずっと兄上をお佐けしとうございます故、兄上には長生きして貰わねば困りまする」
「ははは、わかったわかった。努力しよう」
暫く笑いあった後、再び沈黙が訪れる。
「苦労をかけるな、佐三郎」
頼房は、ぽつりと呟く。
「いいえ。兄上が人質に行かれたのも、八つの時でございましたゆえ。次は、この佐三郎がお役に立つ番でございまする」
気丈にそう言っているが、どこか悲しげな表情が見て取れる。
「……案ずるな、出水の島津薩摩守殿はよき方であるし、そなたを粗略にはしまい。それに、海の魚は旨いぞ。初めて見る魚も多い」
敢えて明るい調子で食事の話などもすると、次第に弟の顔も綻んできた。
話がひとしきり終わると、頼房は佐三郎の目をじっと見つめた。
「兄上が亡くなられた日、兄上はわしの夢枕に立ち、わしを迎えに来てくださった。わしもいつか、必ずそなたを球磨に連れ帰る。それまで……」
「その時は、お迎えなどいりませぬ。たくさんの土産を持って、自分で帰ってまいります」
長誠は、頼房の話を、途中で遮りそう宣言した。
「この私は、三男として、相良を佐ける男でございまするから」
長誠は、そう言って、小さな体で胸を張った。
「そうかそうか。頼りにしておるぞ、佐三郎」
頼房は、笑いながら佐三郎の頭を撫でた。
――この弟なら、大丈夫。
そう、確信した。
*****
元服の儀が終わり、藤千代は正式に名を「佐三郎長誠」と改めた。
直垂と烏帽子がよく似合っていたが、頼房はどこか痛々しさを感じていた。思えば何の因果か、頼房自身が元服して島津家へ人質として赴いたのも、八つの時であった。きっとその時も、皆同じような痛々しさを感じていたのだろう。
「これよりは、その名の通り、相良を佐け御家のために長く誠を尽くす男となるように。どこへ行っても、相良の矜持を忘れるな」
頼房は、家中の皆が見守る前で、元服したばかりの弟に言葉をかける。
「島津には、島津を佐け、長く忠誠を誓うとでも言うておけ。……頼んだぞ、佐三郎」
「ありがたきお言葉、この佐三郎長誠、肝に命じましてございまする。殿の御為、お役目、立派に果たして参りまする」
佐三郎は覚えたばかりの、型通りの返答を述べる。
その数日後、佐三郎は人質として薩摩へと旅立っていった。
口がそれほど上手くない頼房は、弟に気の利いたことを言うことが出来なかった。
だが、きっとわかってくれている。そう、信じていた。




