帰還
犬童休矣の指揮の元、球磨へと帰る支度が慌ただしく進んでいく。
兄の死を告げられたあの日から、頼房を「若様」と呼ぶ者はいなくなり、代わりに「殿」と呼ばれるようになった。
父と兄がそう呼ばれていた、領内唯一の貴人にのみ使われる呼び名。何度呼ばれても、自分のことではないように思える。
これは悪い夢で、目が覚めればこれまでどおりの日々が待っている。そう思いたいのだが、目覚める度に「殿」と声をかけられ、そんな期待は泡と消える。
大声を出して泣き叫びたいのに、何故か涙が出てこない。泣いたのは、犬童休矣が迎えに来た、あのときだけ。
頼房の心は、様々な感情がないまぜになって、自分でもどうすればよいのかわからない。
「殿。朝餉の支度が整いましてございまする」
「うむ。相わかった」
ただ一つだけ言えることは、「殿」と呼ばれれば呼ばれるほど、これまでの子どもらしい感情がなくなっていく。それだけだった。
*****
島津義虎の一族が勢揃いする中、懇ろにこれまでの滞在の礼と挨拶を交わして、頼房と随行の者たち約五十人は出水を離れた。帰還の指揮を取るのは家老犬童休矣、新当主頼房の乗る駕籠は相良家の梅鉢紋があしらわれている。
随行の者たちも、一部を除いては球磨に帰ることとなった。帰れることは嬉しいが、十四の幼当主の死と引き換えであるためその表情は一様に暗い。
四年前に来た時と同じ、薩摩と肥後の国境を抜け、葦北を通り球磨へと抜ける道。頼房は嫌でも、四年前のことを思い出す。人質となる不安と兄の役に立てるという喜びを抱えながら通った道。初めて見る海に感動し、相良の領地にも海が欲しいと願ったこと。本当に、遠い昔のよう。
今は島津家が治める葦北郡と相良家の領地、球磨郡を隔てる山々は、改めて見るとあまりに高く、険しい。
そんな山々に向かって、一行は進む。
*****
「これより、球磨へと入りまする」
一行は険しい山道を進み、葦北郡から球磨郡へと入った。これよりは、山を下りて人吉を目指すこととなる。
「うむ」
駕籠の外から犬童休矣が声をかけ、頼房は一言だけ返事を返す。
――帰ってきた。
そう思った瞬間、目から涙が溢れてきた。兄の死を告げられた時以来、久々に流す涙である。
――ああ、そうか。
頼房は気づいた。自分は島津の領地で、無意識のうちに涙を抑え込んでいたのだと。
それが、「相良の矜恃」だから。
球磨に――相良の領地に入ってから、涙が止めどなく流れる。外には聞こえないように、小さく嗚咽を洩らしながら、頼房は泣いた。
人質として出され、もう二度と戻れないと覚悟していた故郷に、当主として帰っていく。誰よりも敬愛し、心の拠り所となっていた兄は、もういない。
二月十五日、兄が亡くなった日に見た夢は、何だったのだろう。
『帰るぞ、長寿!』
兄が夢でかけてくれた言葉も、勝ち気な笑みも、全てを鮮明に覚えている。
帰りたくて仕方がなかった故郷。だが、こんな形で帰りたくなどなかった。
『相良の男子が泣くな』
亡き兄が今の自分を見たら、きっとそう言って怒るだろう。でも、今日くらいは許してほしい。島津一族の前では、決して泣かなかったのだから。
「兄上、兄上……」
頼房は、ほんのつかの間、相良家当主ではなく齢十二の子どもに戻って泣いた。きっとこれが、一人の子どもとして涙を流す最後の日になると、頼房にはわかっていた。
*****
一行は無事に山を越え、人吉へと入った。頼房はまだほんの少し残っている涙を袖で拭い、駕籠を止めて外へ出る。
四年ぶりに見る故郷は、前が見えないほどの、何とも深い霧が立ち込めていたのであった。




