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迎え

兄が帰国して数ヶ月、父の盟友であり仇でもある甲斐宗運が亡くなったとの知らせが出水の頼房たちの元へ入ってきた。

死去したのは七月五日、七十五歳であったとのことである。

表向きには病死だが、孫娘に毒殺されたとの風聞もあり詳しいことはわからない。宗運は阿蘇家へ忠義に厚い男であったが、そのあまり主家に逆らう者は我が子であろうと容赦なく誅殺するような冷酷さも持ち合わせていた。事実かどうかは別として、そのような風聞が聞こえてくるのもさもありなんというのが大方の見方である。

屋敷の者たちは父、義陽の仇が死んだと泣いて喜ぶ者もいたが、生前父が宗運について嬉しそうに話していたのを覚えていた頼房は何とも複雑な気分でそれを聞いていた。

そして、確実なことがただ一つ。宗運という大黒柱を失った阿蘇家は、今後大混乱に陥るであろうということである。響野原以後、宗運を警戒して阿蘇家には手を出すことのなかった島津家も、この機に乗じて阿蘇家を攻めることになるだろう。その時、宗運を失った阿蘇家の当主がどう出るか。

阿蘇家が失ったものは、あまりにも大きいものであった。

*****

翌、天正十二年。この年に、九州の歴史を揺るがす大事件が起こっている。島津家の軍勢が肥前の大勢力、龍造寺家の当主隆信を島原半島の沖田畷において討ち取ったのである。この戦いには島津の命令で相良からも兵を出しており、その中の一人は島津家の将と一番槍を競ったという。

相良の扱いは完全に島津家の家臣と同列扱いであるが、豊後の大友家の衰退、龍造寺家の大敗を受け、島津に対抗できるものはいなくなってしまった。近い将来、九州の全てが島津家のものとなってしまうだろう。そして相良の悲願、独立大名に返り咲くことなど、夢のまた夢となってしまったのである。

*****

激動の天正十二年が明け、天正十三年。相変わらず人質として出水に滞在している頼房は、この年で十二歳となった。背も大きく伸び、振る舞いも少しずつ大人びてきている。周囲の者たちの中には、亡き父にだんだんと似てきたと言う者もおり、嬉しくもどこか照れくさい。

頼房は生来穏やかで優しい気質の持ち主であったが、人質生活を共にする中で身分を問わず周囲の者たちに親しげに声をかけ、今や下男下女にいたるまですっかり慕われるようになった。

人質生活も四年目に入り、島津家の勢いを見るにつけ、球磨に帰れる見込みはほとんどないであろうと頼房は半ば諦めている。大人しくしていれば相良は安泰、そう思うしかなかった。

*****

この年の二月十五日のことである。

頼房は、いつも通り自室で眠りについていた。すると、誰かが自分を起こそうと肩を揺すっているような気がする。

『長寿、長寿。いつまで寝ておるのじゃ。早う起きよ』

「兄上!?」

頼房は一瞬で意識が覚醒し、飛び起きた。

『久しいな、長寿』

そこには、二年ぶりに会う、兄の忠房が腰を下ろして微笑んでいた。少し、声が低くなった気がする。その美貌は二年の年月を経てさらに凛々しくなり、その振る舞いも堂々たるものであった。

――誠に、当主となるために生まれてきたような人だ。

頼房は、心の中でそう思った。

『帰るぞ、長寿』

忠房は、すっと手を差し伸べて勝気な笑みを浮かべた。

頼房は一瞬何を言われているのかわからず、きょとんとした顔で兄の顔を見つめた。

「どこへ、帰るのですか?」

『球磨に決まっておろう。さあ、兄と共に帰るぞ、長寿!』

帰れる。ようやく、懐かしい故郷に、帰れる。

「はい、兄上!」

頼房は、差し出された手を取った。そして、兄に導かれるまま、屋敷を飛び出し、二人で共に駆けていった。

*****

「若様、若様。朝でございまする、起きてくださいませ」

「朝……。中納言、か」

部屋に、朝日が差し込んでいる。頼房は、その眩しさに目を細めた。

そこには、いつものように局の中納言が控えていた。

「若様がこの時間まで寝ておられるなど珍しいこと。何か夢でもご覧になったのですか?」

「夢?」

頼房は、そう聞かれて自らの手をじっと見つめた。昨日のことは、夢であったのであろうか。兄が迎えに来てくれたことも、共に帰ろうと、手を引いてくれたことも。確かに、現実であろうはずがない。島津が九州統一を目前に控える今、人質である頼房が球磨に帰れることなど、万に一つもありえないのだから。

「うむ。夢じゃ。何とも、よき夢を見た」

「それはそれは。ようございましたな、若様」

何とも幸せで、よい夢だった。このような晴れやかで嬉しい気分になれたのは久々である。

「では、朝餉の支度を致しましょう、若様」

*****

それから数日は、その夢のことばかりを考えていた。

ありえないことであるが、もし球磨に帰ることができたのなら。頼房は、ずっと思い描いていたことがある。

当主である兄を補佐し、誰よりも信頼される男になる。これが、頼房の夢である。忠房とその子孫たちの、相良家安泰の道を作るのだ。それは兄の補佐として育てられた、頼房の宿命でもある。

「兄上の御子ならばさぞ美しかろうなあ」

そんな遠い未来のことも、考えてみたりする。自分には深水宗方や犬童休矣のような才がないことは重々承知しているが、弟だからこそ、できることがあるのではないだろうか。

ひとまず今のところできることは、出水で島津家の人質として大人しくしていることである。

――もしも、島津の幕下から離れるとしたら。

その時こそ、頼房の命運は尽きる。そのための人質だ。だが、それでもいいと、頼房は思っている。

「すべては兄上の、相良の御家の御為(おんため)に」

それが、相良の次男に生まれた頼房の運命であるのなら。

*****

「若様、御家老様が、犬童様が御越しでございます!!!」

二月も下旬、未だ寒さ厳しい折に、火急の用と言って重臣、犬童休矣が出水へとやってきた。

当主である忠房の補佐をする立場の犬童休矣が、わざわざ人質である頼房の元へ何を伝えにやってきたのか。頼房は、胸騒ぎがしてならなかった。

頼房が休矣の来訪を聞いて慌てて廊下へ出ると、やつれて深刻そうな顔をした休矣こちらへと歩いてきた。

「休矣。久しいな。いかがした」

頼房は努めて明るく振る舞い、無理やり笑顔を作った。

すると休矣は、頼房にまっすぐ近づき膝を折って(こうべ)を垂れた。

「お迎えにあがりました。――殿」

*****

頼房は、一体何を言われたのかわからなかった。

「休矣、そなたともあろうものが、何を言うておる。殿は……」

「御当主相良四郎太郎忠房公、二月十五日寅刻(とらのこく)疱瘡にて御逝去。これよりは、四郎次郎頼房様が、我らの殿でございまする」

――『御逝去』。兄が、死んだ。

「嘘じゃ、嘘を申せ! 兄上が、殿が亡くなられるはずがなかろう!!! わしを担ぎ上げて、兄上に取って代わらせるつもりか? わしは、頼貞叔父とは違う、わしは……」

涙が溢れて、休矣の顔がぼやけて見える。頼房は、とっさに休矣の胸ぐらを掴んでいた。

休矣の顔が、何かに耐えるように歪む。

「この休矣、天地神明に誓って、嘘偽りは申しませぬ。殿におかれては、人吉へお戻り頂き……」

「わしは殿ではない!!!」

『殿』。家中で唯一、当主のみに使われる敬称。

「殿は、我が殿は、四郎太郎忠房様じゃあああ!!!!!」

悲壮な慟哭と共に、頼房は膝から崩れ落ちる。

受け入れがたい事実を前に、頼房は、ただ声を上げて泣くことしか出来なかった。

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