忠房、薩摩へ
年が明け、天正十一年となった。
父の死から一年余り、数えで十の頼房にとってはあまりにいろいろなことがありすぎた。
父と姉の月命日には肥後の方角に向かって手を合わせ、亡き家族を偲ぶ。人質生活にも随分慣れたが、一人だけ遠くに取り残されたような寂しさを感じていた。
そんな中、一つだけ嬉しい知らせがあった。三月に、兄が薩摩へ挨拶にやってくるというのである。一年しか経っていないのだが、もう何年も会っていないような気がする。
頼房は、その日を指を折って数えていた。
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三月も半ばを過ぎた頃、とうとうその時がやってきた。
頼房は、島津義虎に伴われ肥後との国境の辺りで忠房の到着を今か今かと待ちわびていた。
「相良殿御一行、間もなくご到着でございまする」
伝令の報告から時を置かずして、総勢二、三十人ばかりの人影が見えてきた。
緊張と嬉しさで、頼房の胸はこれまでで一番高鳴っていた。
一行が到着すると、相良家の家紋、剣梅鉢があしらわれた駕籠から、直垂烏帽子姿の当主、忠房が降りてきた。
その後ろには、重臣深水宗方と、出家して名を「休矣」と改めた犬童頼安が控える。
出迎えに来ていた島津義虎の一行は、忠房の顔を見て、まずその容貌の美しさに息を飲んだ。
頼房も兄に会うのは一年以上ぶりであるが、元からの美貌に凛々しさが加わり、さらに美しさが増したような気がする。
忠房は島津義虎に向かい、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかりまする。相良四郎太郎忠房にございまする。愚弟がいつも世話になっておりまする」
「お初にお目にかかる。出水の領主、島津薩摩守義虎でござる。相良殿には、長旅でお疲れのことと存ずる。久々に御兄弟で語らいたきこともござりましょう、屋敷にて、ゆるりとなされよ」
いかにも武者といった風貌の義虎と弱冠十二の相良の幼君の対面は、現在の島津と相良の立場をまざまざと見せつけられているようであったが、頼房はそのようなことも気にならないほど、喜びに満ち溢れていた。
そして、忠房はちらりと頼房に視線を向け、にこりと笑ってみせた。
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「久しいな、長寿。背も大分伸びたのではないか?」
忠房一行は、出水にいる間は頼房のいる屋敷に滞在することになった。
話したいことはたくさんあるが、何から話せばよいのか。兄が来てくれたこと、兄と話せることが、嬉しくて嬉しくて仕方がない。
休息を取った後に、二人は人払いをしてたわいもない兄弟の会話を楽しんだ。
だが、お互いに敢えて触れないことがある。湯山兄弟の謀反のこと、『球磨錯乱』とまで言われる、球磨郡内の混乱のこと。そして、長姉、虎満のこと。
「二の姉上が大隅の禰寝に嫁がれたとか」
今年十七になる二番目の姉、千満は、昨年大隅の有力武将、禰寝家に嫁いで行った。島津家の意向に沿った政略結婚である。実母の台芳尼に似て気丈な性格の姉であるから心配はいらないと思うが、それでも抑えきれぬ寂しさがある。
「ああ。姉上が嫁がれる時の御姿はたいそう美しかったが、台芳尼様は気落ちしておられてな」
そこまで言うと、忠房は一瞬目を閉じて天井を見上げた。
「一の姉上は、亡くなる前までそなたのことを案じておられてな」
ぽつりと零れ落ちた言葉に、頼房は兄の顔をじっと見つめる。
「春には少しずつよくなって外を歩かれるまでになったが、夏が近づくにつれてまただんだん弱っていかれ、とうとう夏を越えることができなんだ」
「さようで、ございまするか」
「そなたの文をご覧になって、喜んでおられたぞ。難しい字も書けるようになって、字も上達して、と」
頼房の目に、涙が溢れてきた。生きているうちに、もう一度会いたかった。直に、褒めてもらいたかった。
「これ、相良の男子が泣くでない。姉上に泣き虫と笑われてしまうぞ」
「はい、申し訳ありませぬ、兄上」
頼房は、涙を袖で拭った。
「いつか、必ず人吉に連れ戻す。それまで辛抱してくれ、長寿」
忠房は、悲しそうな笑みを浮かべて頼房の頭にそっと手を置いた。
*****
忠房一行は、頼房を伴って出水から島津家の本拠、鹿児島へと向かうこととなった。
島津家の当主にして薩摩・大隅・日向三国の太守、義久に対面するためである。
三月十八日、一行は噴煙が立ち上る桜島に圧倒されながら、宿にたどり着いた。
まず忠房と深水宗方は、実質的に日向一国を任されている島津家の重臣、上井伊勢守覚兼の元へ挨拶に出向いた。太守義久への取次でも頼んだのだろうか、その二日後、二十日には義久との対面が実現した。
忠房は弟である頼房と深水、犬童の二人の重臣を従えて直垂烏帽子姿で太守義久との対面に臨んだ。
兄の容貌の美しさの噂が伝わっていたのか、侍女や女中たちが一目見ようと物陰や障子の隙間からそっと覗いている。実際に忠房の美貌を見た者の中には、きゃあきゃあと騒ぐ者、うっとりと見つめる者などがいて反応は様々である。だが、自慢の兄の美貌が薩摩でも認められて頼房は鼻高々であった。
齢十二にしてこの美貌なのだから、大人になればどれほどの美男になるのだろうかと、頼房は想像を巡らせる。その時は、この程度の騒ぎでは済まないだろう。
「お初にお目にかかりまする、相良四郎太郎忠房にございまする」
忠房は、少し緊張気味に太守義久に向かって平伏した。頼房と深水、犬童の重臣二人もそれに倣う。
「島津家当主、島津修理大輔義久である。面を上げられよ」
凛とした深みのある声が、その場に響く。
島津家の四兄弟は勇将ぞろいともっぱらの評判だが、側に控える猛将然とした弟たちに比べ、長兄である義久は知的で落ち着いた風貌をしていた。
齢は五十ほど、太守と呼ばれるにふさわしい風格を備えた男である。
「よき面構えをしておられる。遠路はるばるご苦労なことでござったな」
「ありがたきお言葉でございまする。この忠房、太守様に頂いた名のとおり、島津家と太守様への忠義、尽くしていく所存にございまする」
思ってもいないことを言わねばならぬのも、軍門に下った家の悲しさである。
「これは心強い。頼りにしておりまするぞ。……時に相良殿。そこの御舎弟、長寿丸殿だが、薩摩へ来る前に元服をして名を『四郎次郎頼房』と改めたそうな」
義久の目が、一瞬鋭く光る。頼房は、背中にぞくりとしたものを感じた。出水の島津義虎は気を遣ってか深くは聞かなかった。あるいは、ここではっきりとさせるために敢えて聞かなかったのか。どちらにせよ、言い逃れはできそうにない。
「太守様の御疑念を招き誠に申し訳ございませぬが、これは……」
さすがに深水宗方が幼い主君に代わって弁明しようとするが、それを制するかのように、忠房が口を開いた。
「我が弟長寿丸は、我が魂を二つに分けた大切な弟にございまする。故に、我が『四郎太郎』の名にちなんで『四郎次郎』と名付け、諱も亡き父の最初の名であり、相良の通字である『頼』ともったいなくも太守様に頂いた『房』の一字を使った『頼房』に改めましてございまする。この『四郎次郎頼房』を太守様に差し出すことこそ、相良の島津家への忠義の証、そう心得ておりまする」
幼い声ですらすらと口上を述べる忠房にさすがの義久も呆気にとられていたが、ふと口元緩ませると声を上げて笑った。
「これはこれは。疑ごうて悪かった。相良殿の忠義、ようわかり申した。さて、堅苦しい話はここまでとして、宴の席と致そうか」
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「殿。全く、肝が冷えましたぞ」
宴の後に宿に戻ると、早速深水宗方が忠房に苦言を呈した。その日は終日酒宴をしていたためさすがの宗方にも酔いが回っているようだ。
「すまぬ。じゃが、嘘は言うておらぬぞ。のう、長寿」
頼房は、嬉しさと照れくささでなんと言ってよいのかわからない。
「兄上、その……」
「何じゃ、もしや照れておるのか? そなたは我が魂を分けた大切な弟じゃ、この言葉に嘘偽りはないぞ」
兄が、いたずらっぽく笑う。
「はい、兄上……」
顔が火照っているのは、酒のせいばかりではあるまい。この当時、年齢による飲酒の制限などは存在しないため、頼房も当然のごとく酒を注がれ、宴席に座していたのである。
さほど酔うこともなかったため、もしかしたら自分は酒に強いのかもしれない。
「それにしても、隣国とはいえ国が違えば食物も建物も変わってくるものじゃ。やはり球磨にばかり留まっておってはわからぬことの方が多い」
忠房はそう言うと、大きく伸びをした。
その動作だけは、年相応の子どもに見える。
「明日の晩は島津の重臣たちが宿を訪ねてくるらしい。今夜は早く休んだ方がよさそうじゃ」
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二十一日の晩には、伊集院忠棟、本田親貞、上井覚兼の島津家の重臣三人が宿へとやってきたため忠房自らが酌をしてもてなし、頼房もそれを手伝った。
そして五日後の二十六日には忠房が太守義久へ今後も島津家への変わらぬ忠誠を誓う起請文を提出した。太守義久は病で来られないとのことで、弟の義弘を名代として立てていた。
義弘は他国にも鳴り響くほどの歴戦の名将で、いかにも猛将然とした佇まいである。礼儀は尽くしていたが時折垣間見える鋭い眼光に頼房は圧倒されそうになった。
島津家からの起請文は忠房帰国の後に改めて相良家へと届けるとのことである。
そして忠房一行は、ようやく薩摩訪問の全ての日程を終えた。
島津の一族から重臣に至るまで、気を遣いに遣ってきた忠房は疲労の色が濃いし、さすがの深水宗方と犬童休矣も疲労を隠しきることはできなかった。
「ようやく終わったか。何とも気を張って疲れたものじゃ」
忠房は頼房にそう言って苦笑して見せた。
「ここまですれば島津も満足するであろう。わしも、球磨に帰るとするか」
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嬉しい再会の時間は、あっという間に過ぎていった。
頼房は出水の屋敷へと戻り、忠房一行もまた、球磨への帰国の途に着くこととなった。
「達者でな、長寿」
忠房が、寂しそうな顔で頼房の肩に手を置いた。
「はい。兄上も、お元気で」
頼房は、自分よりも背の高い兄を、少しだけ見上げてにこりと笑った。
久々に会えた兄との別れは身を引き裂かれるように辛いが、きっとそのうちまた会えると信じ、笑って別れようと心に決めていた。
すると兄も、それにつられて笑ってくれた。
交わす言葉は少なくとも、きっと兄はわかってくれる。自分たちは、魂を二つに分けた兄弟なのだから。
兄が、名残惜しそうに去ってゆく。
その後ろ姿が、頼房の脳裏に焼き付いて離れなかった。




