球磨錯乱
そもそもの発端は、父が戦死した直後に遡る。
父、義陽の側室腹の弟、大膳助頼貞が義陽の戦死を好機と見て人吉へと攻め込んできたのである。
義陽と同日に生まれた頼貞は気性が荒く、武芸を好んだ。和歌を嗜み文芸を愛した義陽と気が合うはずもなく、いつか兄に取って代わらんと野心を燃やし続けていた。この頼貞の性格が家を乱すと考えた義陽と頼貞の父、十七代当主晴広は頼貞を八代の寺で出家させたのだが、頼貞は勝手に還俗し八代から薩摩へと移り住み、虎視眈々と当主の座を狙っていたのである。
そして義陽戦死の報が届くとすぐさま兵を集め、幼い甥に代わって自らが当主になろうとしたのだが、深水宗方、犬童頼安を始めとした重臣たちが何とか言いくるめて球磨から兵を引かせた。
父の戦死からわずか二十日後の出来事であった。
この叔父の存在は、頼房たちの教育方針にも影響を与えた。当時は幼児の死亡率が高い時代である。そのため長男に万が一のことがあっても次男、三男が跡を継げるようにそれなりの教育と自覚を持たせるものだが、父と反目し続け野心溢れるこの叔父のおかげで、頼房と弟の藤千代は兄の補佐をするべく教育された。
戦国の世において、幼君を戴くと一族の者が幼君に取って代わらんと兵を上げるのは特に珍しくもないことだが、実際にそれをやられるとこの上なく怒りと憎しみが湧くというものである。
そして、今回の国元からの知らせは、この叔父、頼貞に湯山の地頭湯山佐渡守宗昌と弟の普門寺の住持、盛世が同調し謀反を起こしたとの知らせであった。この謀反は即座に鎮圧され、兄の宗昌は逃亡、弟の盛世は読経の最中に斬り殺されたとのことである。
「殿を始め、皆さまご無事とのことでございまする」
「うむ……そうか」
恒松助右衛門の言葉に返事を返しつつ、何とも言えない後味の悪さを感じた。助右衛門も、同じことを思っているのであろうか、その表情は冴えない。
「読経の最中に斬り殺すなど……。相手は丸腰ではないか」
『当主故に、それを命じねばならぬ』
かつて、人質にいくことを告げられた時、兄に言われた言葉を思い出す。
重臣たちも承知の上での命令なのであろうが、武器も持たぬ相手を斬り殺すなど、何とも惨いことである。
兄は当主としての自覚は強くあるが、優しく穏やかな気性の持ち主である。だが、本人の気性とは関係なく、当主として、冷酷な命も下さねばならないということなのだろうか。
そして、もう一つ。攻め手が押し寄せてきているときに、武器も持たずに読経をしていたという、盛世。頼貞叔父の野心は重々わかっているが、本当に頼貞叔父と示し合わせて謀反など企んでいたのだろうか。
突然に男盛りの当主を失い、幼君を戴くこととなった相良家。所領は大幅に減らされ、今後の存続も島津家の意向次第。人心は定まらず、これからもこのような謀反が起こるとも限らない。
頼房は、丁寧に国元からの書状を閉じた。
「政のことはわからぬ。わしは、人質の役目を全うするだけじゃ」
もやもやとした思いを抱えつつ、そう言うしかなかった。




