序章
その日は、珍しく霧のない朝であった。
肥後人吉は霧の町。季節は、真冬。この時期には深い霧が立ち込めることが常であるが、今日に限っては霧がなく視界も澄みきっている。
そして朝日が昇るその時間に、八つになる相良長寿丸は四つ下の弟、藤千代の手を引いて、城の一角から城下を見下ろしていた。
朝日が球磨川に反射して、何とも美しい景色である。
彼らから少し離れたところには父と兄がいて、何事かを話し込んでいる。
父の名は、相良義陽。肥後南部、人吉城を本拠とする相良家の当主である。この度、服属している薩摩の島津家からの要請で肥後北部の阿蘇家と戦うこととなり、今日が出立の日であった。
そのような父の話を、長寿丸の四つ上の兄で相良家の長男でもある亀千代が、真剣に聞き入っている。
朝日の光で二人の表情はわからないが、その時の長寿丸には二人の姿がどこか神々しく見えていた。
そして父はこちらを振り返り、長寿丸と藤千代の元へ歩み寄ると、目線に合わせるように腰を落とした。
「長寿丸、藤千代。父はな、これより戦に行って参る。これよりは、そなたらが兄をしっかりと支えるのじゃ。よいな」
少し悲しげな、髭を蓄え雄々しく整った顔。戦続きで多忙な中にも、長寿丸たち兄弟を慈しんでくれる、優しい父。
――この時父の言葉の裏にあった本当の意味を理解することなど、できるはずもなく。そして、その言葉を聞いた兄、亀千代の表情を見ることもなく。
長寿丸は、大好きな父の言葉に笑顔で返事を返した。




