刀妻
蛙の声が響いていた。そこかしこで歌われるそれは、雌を求めて張りあう雄の物だと男は言った。
日中は暑気を増してきたが、夜の帳が落ちればまだ田畑を渡りくる風は肌寒い。
寝転がり、膝の上に頭を乗せた男の肩に、意味のあるなしは解らぬがそっと袂をなげた。
心地良さそうに、男は耳の後ろを小指で掻いている。
見下ろして微笑みながら私は言った。
『主よ、ぬしは人の妻を娶れ』
「何故だ」
膾と間違えて羹を食った声で男が言った。
男は烏帽子がずれるのも構わず、膝の上で此方に向き直ると咎める目で私を見上げた。
頬に伸ばされた手を掌で包みながら私は言った。
『私では子が成せぬ、血が絶ゆるぞ』
「これはしたり」
真面目くさった顔で主がいう。何処まで真剣かは解らない。それだけ言うと男は両手で私の腰を抱くと、腹に自らの顔を押し付けた。
衣越しに男の息が、生温かく擽ったい。逃げる様に身を捩れば、逃がさぬとばかりに腰が強く抱かれる。したり、したりと言うが、何処まで本気で思っているのかは怪しいものであった。
『郎党が言っておるぞ、同世代の男には既に子が多く居ると言うに、と』
男はこの歳で十八になる。一族の若衆が子を成す中で、未だ妻すら娶らず周囲を困惑させていた。
結果として立った噂がある。
――曰く、若当主は物の怪に憑かれて居る。
あながち的外れではない。鋭いところを突く者がいたものだ。
耳に挟んだ時は、正直に言って感心したものだった。
全く然り。自らが何者かは解さぬが、ひとでないことだけは間違いない。
一度噂が流れれば、そこから先は早いものであった。郎党の者共も、近頃では物の怪とやらの正体にかなりの数が気付いている。
具体的には寄り合いの席、主の腰に佩かれた蓮の葉に向けられる視線が、怨嗟と恐怖を孕んだ物になっていた。
このまま捨て置けば、いずれ私を盗んで焼くか折るかしかねない顔ぶれもあった。
『子を成すのは当主の務めであろう』
「然り」
(私はこうして男を叱っているのにな)
そうは思えど、声は男にしか届かぬので、すれ違いも甚だしい。
困り顔の私に対し、男はやはり真面目くさった顔で頷くと膝に載せていた頭を支点に体の向きを変えた。
『鉄は孕まぬぞ』
なるほど如何にも面妖な光景である。
私の実体はそこに立て掛けられた太刀であり、男の眼に映る様な、肉を纏った身はこの場にない。
この情景がもし他の目に映ったならば、それはどの様に見えるのであろうか。
あるいは首ごと上体を持ち上げて、腹と首でも鍛えている様に見えるかも知れぬ。
『ん――ふ』
鼻をついて甘い呻きが漏れた。伸ばされた男の掌が、私の乳房をまさぐっている。
「如何にも、然り」男は真面目くさった顔のまま実に不思議そうに続けた「しかしだ。俺にはうぬがただの鉄だとは到底思えぬ」
触れ合った箇所から拡がる、むず痒い様な、擽ったい様な、表現し難い感覚に身をよじりながら私は男の顔を撫でた。
『左様か?』
「然り。斯様に触れられる、柔らかく熱い、衣も剥けるし外陰もある、陽物も収められれば随喜の声も上げる。――子ぐらい成せるのではなかろうか」
『……たわけ』
叱る私の声は掠れて小さく弱い。
這い上がってくる男に軽く眉根を寄せた。
無念は知っている。恐怖は最初に覚えた。歓喜は男に教えられた。
ただ、今腹の底に渦巻くこれを言い表す言葉は未だ知らなかった。
「どれ、試してみよう」
『無理だと言うに――ぁ』
※※※
生まれ出でて幾星霜か。男と言葉を交わすようになって、様々と考える様になった。
いざ疑問を持つようになってみると、この世は摩訶不思議な様相を呈している。あれは何だ、これはどうしたと男に問えば、知っている事は教えてくれ、解らぬ事は「知らぬ」と簡潔に答えが返った。その度になるほど、なるほどと頷きながら、男と漫ろ歩くのはとても胸が沸き立つ――楽しいのだとこれも教えられた――ものであった。
夜半に目を開けば、主の顔が目の前にある。筋骨に優れた益荒男の寝姿であった。ごつごつとはしているが、柔らかくもある厚い体にそっと唇を這わせる。なんとも表現しがたい穏やかさに熱い溜息が漏れた。
ふと肩越しに体を見やれば、一人と一口に掛けられた上衣は二人の形に盛り上がって見える。これは実に不思議な感覚であった。
なにしろ実際そこに女の肉はないのだ。
男が膝を枕にしている時も思ったが、これを余人が見れば、なるほど物の怪に取り憑かれていると考えても当然の光景であろう。
(まことに面妖なものよ)
腹の奥に残る疼きに、へその下をそっと手で押さえて笑った。
その時である。
こき、と鳴る音。蛙の声が途絶え夜闇にしじまが訪れた。
ゆっくりと身を起こす。
(今のはなんだ? 人の骨が鳴る音か?)
関節の骨が鳴る音と言うものは、存外に広く大きく響く物だ。ましてや夜のこと、殺気に敏感な蛙共が、一斉に源の動向にそのかそけき命を怯えさせる。
聞こえた方に耳をそばだてれば、微かに聞こえる話し声はひどくきな臭いものであった。
そっと男の腕から抜け出すと、様子を見に表へと向かった。
――かつては歩けなかった私だが、男が言う「立って座れるなら歩けるだろう」との言葉に、自然と歩き方を覚えていた。現金なものだとは自分でも思う。とは言うものの、何処までも行ける、という訳ではなく、進めるのは太刀を中心に片側十五間(27m)程らしい。そして、歩けるからと言って、何かを持ち上げたり、男以外の誰かに触れる事も出来なかった。
人や獣は透け、物は張り付いた様に持ち上がらぬ。
閉めた板戸も私には関係のない事であった。濡れ縁に立ち、主の眠りを妨げる者共を見下ろす。
はたして表には、抜き身を従えた男達が、目配せしつつ中の気配を伺っていた。
『主ら、何をしに来たか』
声が返るとは思っておらぬ、あくまでもひとり言の積りであった。どの道主以外に言葉は届くまい、そう思い、踵を返そうとした時に。
『そなたの主を切りに来たそうじゃ』
どこか躊躇いがちな、鈴を思わせる声が私に届いた。
さて主を起こすか、そう考えていた私が、つい弾かれた様に振り返る。
男達の傍らには、それぞれの刀が楚々とつき従っている。その中で、一番私に近かった女が、動揺を隠すことなく私を見上げていた。
驚きつつも、刀同士であれば声が通るのかと微かに嬉しくなる。嬉しい。嬉しいとはこういう事であるか。初めて知った。
『左様か、それは困るな。教えてこよう』
言えば彼女等はひどく驚いた顔をした。
『声が届くのかえ?』
弾かれた様に顔を上げた、最初の太刀とは違う太刀が言った。
『如何にも然り、主らの声は届かぬのか』
『……然り』
『左様か……』
改めて踵を返し、肩越しに振り向きながら言った。
『声の届く主が現れると良いなぁ』
女達は消え去りそうな程儚い顔をして、初めて抱く悲しみに身を浸していた。
※※※
なるほど、どうやら余程何か伝い合う物が無ければ声は届かぬらしい。
男の唇に指で触れ、それはそれで嬉しき物だと微かな笑い声を立てる。
高鼾の男の枕元に座ると、頭を抱えて膝に載せた。
起こさぬ様にとの配慮は無い。何事かと、戦の野に生きる男が眼を開く。
「露よ、如何にした」
つまりかの女等は知らぬ訳か。
こうして目を見て名を呼ばれる歓びを。
『主、刺客ぞ』
にっと男臭く笑うと、男は音を立てずに跳ね起きて着物の帯を締めた。
「幾人か」
『三』
「我が郎党か」
『否』
「見知りか」
『否』
「相分かった、遠慮は要らぬな」
短く言うと、男は厚拵えの短刀だけを持ち、そっと庭に忍び出た。
私は背後に置き去りになった私を見ると、色の乗らぬ顔で男に寄り添った。
『使わぬのか?』
私は訊ねた。
「場に非ず」
男は応えた。
なるほど、主が言うのであればそうなのであろう。我が主は戦の上手である。
裏からそっと夜闇に紛れる主を背に、私は夜討ちに逸る男達の正面に端坐した。
夜更けの濡れ縁はしっとりと冷たい。血走った目の男達と、楚々とした女達の対比が面白い。
私が笑うと、釣られて女達も微笑んだ。あどけない微笑みだった。
ぐるりと回り込んだ男が、一番後ろの男の口を塞ぎ様、逆手に持った短刀を首元から心の臓へと押し込んでいく。太い血の管が裂けたのだろう、一度血潮を飛沫せると、ぐるりと目を白くして体から力を失った。途端、風に乗った血臭に残りの二人が振り返る。その時には、主は既に二人目の男の肝を抉っていた。野太い蛙の様な呻きがしじまに響く。
「おのれ、如何にして察したか!」
それが三人目の最後の言葉になった。
振り下ろされる太刀を二人目の頭蓋で受け止めた、骨の割れる音と共に、ぴしりと聞き慣れない音が混じる。男はすれ違い様にその首を捩じ折った。
一呼吸、二呼吸、それに半分程度の時であった。
「誰かある!」
大音声で男は郎党を呼ばわった。
「御屋形様、如何なされましたか!」
「ややっ、此奴等は何者に!」
「俺が寝首を掻こうとした輩よ、さかしまに殺してくれたわ」
何処の者か調べておけ、明日よりは戦よ。そう言うと、男は松明の光を背に此方へと歩いてくる。濡れ縁に近付いて困った顔の私を見て、男もやはり戸惑った顔をした。
「これはしたり」
『主よ、人を娶れ。私では主に足桶の一つも用立てられぬ』
では是非もなきか。そう呟いて、男は郎党へと爪先を向けた。
途中、男達が取り落とした太刀を拾い上げては鞘に戻していく。
二人目の男の頭蓋を割った太刀を拾い上げ、血糊を拭う男の背後でその刀が悲しそうに首を振っていた。
『主よ』
「如何にした」
此方を向かずに男は問うた。
私は彼女の声を男に伝えた。
『それは使えぬ』
「悋気か、愛い奴よ」
憮然としつつも私は言った。
『たわけ、用いれば死ぬるぞ』声には険があった。やっと此方を見た男に、私は女を透かし見ながら続けた『刃切れぞ、鍔元に六分、芯まで割れておるそうだ』
「……左様か」
不満気に呟くと、男は地に太刀を一振りした。なるほど、締め固められているとはいえたかが土である。健全な太刀であれば地を割りもしよう。
だが、はたしてその身に致命の傷を負った太刀であればどうなるか。
「成程、真であったか」
『――然り』
韻々と、しじまを裂いて澄んだ音が響く。それは太刀の断末魔であり、一つの妖しの終りでもあった。或いは、天目一個の娘が一人、鉄に返った音と言っても良いだろう。
先程までそこにいた女の姿は無かった。
(なるほど、これが我等の終りであるか)
郎党が驚いた顔を此方に向けている。
男は私の顔を見ると、切なそうに顔を歪めた。普段であれば、どのような顔をしているのか考えるまでもないのだが、今宵に限って私は己の顔にどの色が載っているのか解らなかった。
がりがりと額を掻くと、男は郎党に向けて「妻が欲しくなった」と言い放った。
喜色に塗れる郎党の顔とは裏腹に、男の顔は何処までも不機嫌で、何処か悲しげであった。