蓮の葉と露
明滅。
未分化の感覚に響く不可分、一定ではなく様々で定点は無い。
混沌である外的刺激が分化し分類され焦点を結ぶ。曖昧であった視界が、音界が、徐々に意味を持つ像として結ばれる。
自己の内外に存在する何かが、空間に響く音であることを突然認識した。
そうか、この明滅は人の話す声か。
取り乱さなかったのは、私が既に取り巻く世界を識っていたからであろう。
いつの間にか、自分が何物であるか、目の前の人物が何者であるか。今がいつで、此処は何処であるか。それらが聞くともなく見るともなく私に刻み込まれていたらしい。
今より以前の事は茫漠としてとりとめがない。ただ、覚醒した瞬間に、この世に私が出来あがってからの事は、知識として保存されているのを自覚する。
今目覚めたのか、それとも既に目覚めていたのか。そこに疑問は覚えなかった。
はたしてこれが自我、と呼べるものの目覚めであろうか。人であれば物心ついたと言う事か。ただ存在するだけのモノであった私が、明確な意識として覚醒する。
自我の誕生はやはり、私が私を認識した瞬間なのであろう。我と、我を取り巻く空間。そこから改めて莫大な情報が雪崩込んで来る。光、音、匂い、我が身に備わる感覚器は無い、だが五感として受け取られるそれ。人ではないこの身が、何を以てその情報を感覚と捉えるのか。圧倒される質量は、飽和して、しかし溢れださずに身に満ちた。
見下ろせば我が身は人の写身、なれども、それは姿を写すだけで、中身はがらんどうの張子であった。
山間の水桶で産声を上げた後、如何程の時が流れたであろうか。
刹那に無限とも思わしき事柄が私を形作る。
はた、と目を開くと私はそこに立っていた。
茫漠とした中身のない頭蓋の中で、自らが太刀であること、人の写身を纏っていること、それが人間には見えていない事を理解した。
まるでこれまでもそうであったかのように、当たり前の様に、私は存在していた。
ぐるりと室内見渡せば、髭面のむさくるしい男共が集っている。その中で、御館様と呼ばれる男が私の主であった。
私は主の頭を見下ろす様にして立っていた。
これと言って感慨もない。知っている様で知らない男だ。
むしろ、他の席の女――あれも刀なのだろうが、まるで猫の様に主に縋り侍っている――に興味があった。何をどうすれば、そこまで鍛えられた鉄の板である我らを懐かせる事が出来るのか。
どれも作られたばかりは無垢である。やがて私も主に染められて行くのだろう。そうして人の何たるかを学び、共に生き、見送るのだろう。
しかし、どうすればそうなるかは私には皆目見当もつかなかった。
※※※
――火の気配に意識が冴えた。
幾十年かが過ぎ、若武者であった主も順当に歳を召し、壮年をそろそろ終えようとした頃の事だ。
主は滅多に私を鞘から抜かなかった。
悪党と呼ばれる類らしく、日頃から動き回ってはいるがこの男、武張った姿からは思い付かぬ程知的である。世の中が乱れていると思しき気配の中、鏃と太刀ではなく、文と銭と物で動かしている様子であった。
ごく稀に、思い出した様に私を脱がすと、ごしごしと遠慮も何も無く、古い油を拭い去った。
出番か。
その度に目を開くのだが、そうでは無いらしい。また今日も新たに油を引かれ、皮巻の太刀拵に納められる。
起きているとも寝ているともつかない時間がただただ無為に過ぎていく。
考える、という事を、私はまだ知らなかった。
『火だ』
どうやら屋敷が燃えている様子であった。木の爆ぜる音、諍いの気配、断末魔。
温もりと言うよりは痛み、圧倒的な熱は優しさよりも畏怖をまず覚える。たらふく餌を与えられた火産霊が、火之夜藝速男神が笑っている。
生まれ出でてよりこの方、これほどの気配を感じた事は無い。
火神は我等が父祖である。鍛冶の祖神であるが、それが味方するのは生まれ出でるまでのこと。火産霊は焼く。何もかもを焼く。そこに境は無い。
刀に神は宿るが大神ではない。
精霊とでも呼ぶべきか、あわれにも我等には器としての力しか宿らない。
一度形を生した我等は太刀の言霊に縛られる。
担う者が望めば天地陰陽森羅万象遍く理全てを断って見せよう。
だがそれしか出来ぬ。断つ事しかできず、守る事は出来ぬ。何より我が身こそを守る事が出来ぬ。
解るだろうか。かつて形をなさぬ頃とは違い、今となっては火程忌まわしいものも無い。
何しろ火は鋼を緩め、焼きを飛ばし、鉄をとろかせ刀を殺してしまう――
未だ茫漠としたまま、私は意識を起き上がらせた。
空気はからりと乾ききり、それに留まらず熱過ぎる気温が革巻きの鞘を乾かしていく。
対照的に私の体はしっとりと露を帯びていた。鉄は鞘木よりもまだ冷えている。このまま抜かれずに置かれれば、二晩と持たず錆を帯びるだろう。
否。それすら待たずに、火に巻かれるのではなかろうか。
香ばしくも呪わしい煙が舞う。同時に色濃い人の死が匂う。甘くもなければ好ましくもない、ただただ死は厭わしい穢れとして漂っている。
『――あ、あっ』
――死、ぞ。
へばりつく終わりの気配に、鋼の我が身が戦慄いた。
万物は流転する。高き山の磐根が砕け、含まれた鉄気が川床の砂粒となり、集められて土と炭を食らい鉄として生まれ刀に変ずる。その行く先は錆と鉄である、我を構成する要素が失われる訳ではない。
知っている、識っているがそんな理屈は何の気休めにもならない。終りは終りだ、山であった頃の記憶など無く、鉄であった頃の記憶も当然無い。我が身は刀として生まれ落ちた。ならば刀としての終りが我が身の終りである。
そして、その終りが今呵々と笑いながら足音も高らかに駆け寄ってきているのだ。
何処かで柱が倒れたか、床を伝わる振動に刀掛から倒れて音を立てた。
足萎えの姫君が如く、我が身を床に這いつくばらせたまま人を呼んだ。
『誰か!』
声なき声で幾度も。
『誰か!』
不思議と主の事は呼ばなかった。
心の何処かで、心の底で、むしろ心そのもので、私はかの男を主と認めていなかったのかもしれない。
身の内に宿る、父とも言える男の声がある。
良い刀を。
折れず曲がらず良く切れる。
千年先にも讃えられる刀を。
それを、確かめようとすらしない男を、認めていなかったのだろう。
私を突き動かしたのはそれだった。
『……まだだ。まだ私は何も現していない。ただ鞘に収まって、このまま燃えてしまうなら鉄屑でしかない!』
私は刀だ。
刀なのだ。
使われる為にあり、振るわれる為に生まれた。
ああ、私に自我が生まれたのはこの時だろう。
『誰か! 誰かある!』
涙は無い、そんなことは学んでいない。
ただ火が迫っている。
当然の如く声なき声だ。呼び掛けに応える声はなく、ただ火の気配だけが迫ってくる。
『……終わりか。こんなところで』
胸の内を焦がす物がある、それはおそらく焦燥であり、渇望であったのだろう。ただ真っただ中の自身に自覚は無く、火に巻かれる前に身の内から焼かれている。
『嫌だ……嫌だ。嫌だっ!』
声に応じたかのように板戸が弾け飛んだ、はっとして顔を上げれば、その上を蹴り破られた戸板が飛び越えていく。
戸を蹴り破ったのは若武者だった。いっそう強くなる火の気配。ただ、今度の物は火自体ではなく、その中を潜りぬけてきた彼が身に纏った、残滓が如きそれであった。
『御主は……』
見覚えのある男だ、むしろ幼き日から見守って来たと言っても良い。いつも主の近くに侍り、時に私に視線を投げてきた事もある。男は主の息子であった。
赤く濡れたその男からは、拝すべき主の血が匂い立っていた。
『……なるほど、危急と言うに現れない訳だ』
事態はすぐに理解に至った。鍔競り合う事も鎬を削る死線も無い。なにしろ武者の手に太刀が無くば、襲い来る者に太刀打ちなど到底出来まい。
既にかの者の命は失われたものと見える。
見れば物打ち(切っ先五寸――15㎝――程下まで)より先を派手に欠いた太刀を男は手に握っていた。
がらりとけたたましい音、一瞥もくれずにそれを放り出し、草摺に血で汚れた掌を擦りつけ、若武者はのっそりと室内に踏み入って来た。床板に砂利混じりの足音が響く。血で粘ついたそれに微かに身を震わせた。
『――良い、愛着のある相手でもない。そんな事よりも此処から運び出してくれ』
縋る様に男を見た。
具合が良かろう、男の手には太刀もない。私には担う者が無い。その点だけでも利害は一致している筈だ。後は必死で伸ばした手を、男が鞘なり柄なりを握れば重なったが如き幻視を得るだろう。
「ふん」
『――は?』
乱暴に力強く、けれど決して野卑ではない。
掴まれ握られ引き上げられて引き寄せられた。私は目を見張った。
不快感が無い訳ではない、籠手に染みた血は確かに粘ついて嫌悪感をそそる。だが何よりもそんなことよりも、私の掌が今は燃える炭を押し付けられたかのように熱い。
「うぬか、俺を呼んだわ」
男が握ったのは、確かに私の掌であった。
触感は識っていた。それが今生身の熱感を伴って知っている事に書き換えられていく。
『……どういう事。見えるのか。私が』
「呼んだのはうぬであろうが」
男は私の言葉に怪訝な顔をする。此奴は何をほざくのか。そう言わんばかりに寄せられた眉が、凛々しい顔に険のある色を醸す。
私は言葉をつづけられなかった。睨むように私の顔を覗き込むと、男は鼻で短く強く嘆息し、にっと男臭い強い笑みを唇に佩いた。
「奇怪なことよ、化生か、鬼神の類か。はたまたうぬは話に聞く付喪神とやらか。何でも良いわ。ちょうど俺が太刀が折れた所、親父殿の太刀よ、うぬを頂戴して行くとしよう」
男は太刀緒で手早く左の肩に私を背負うと、戦利品を誇る様に私を右肩に俵抱きに担ぎあげた。
「しかし面妖、うぬは他の者共に見ゆるのか否か」
『……おそらく見えぬ』
「おう! ならば俺が有様は過ぎた戯れが如しか!」
若武者は呵々と笑うと、入って来た時と同様に、ただし今度は土壁を蹴破ると表を目指した。
「おい」
『なんだ』
「うぬの名は?」
『無い』
「さようか」
男は器用に私を馬の鞍に乗せると自らも跨った。何かを考える様に呟きながら、朝駆けた後の朝焼けに馬首を向けている。行く先からは、騎馬武者が一騎此方へ向けて駆けて来ていた。こちらも見た顔だった。
「おのれ小童が、うぬは己が父を弑したか!」
「おう、叔父御か! 如何にもその通りじゃ! 叔父御の御首も頂戴つかまつらん!」
「吐かせ!」
男は馬腹を蹴ると馬を走らせた。ずらりとその背から、背負われていた私が器用にも抜き放たれる。腰佩きの太刀よりも相当に長い刀身を、男は閊えることなく右手に抜き落とした。腿が馬腹を更に締めあげる。一段と加速した馬が口角に泡を滲ませながら嘶いた。
「覚悟召されよ!」
「痴れ者が!」
彼我の間合いには一尺の猶予がある。だが男はその理を自ら捨てた。
大きく横に振りかぶられた構えから、棒切れを打ち振るが如き横殴りの一撃が放たれる。叔父御と呼ばれた男のものより僅かに先んじた一閃が、深々と馬の頭蓋に食い込むと、そのまま勢いを減じずに壮年の騎馬武者が着込んだ胴丸に食い込んでいった。
「討ち取ったり――叔父御、無念であろうが家督は俺が頂戴する!」
応えは無い。武者は落馬する以前に絶命している。刃は心の臓にまで届いていた。
折しも道は蓮田に差し掛かっていた。朝露が蓮の葉に、丸く球になって乗っている。
馬から徐に降りると、露で濡らした手拭いで私の血を拭い、朝日に刃を翳すと若武者は言った。
「良き太刀ぞ、この上なく切れる太刀ぞ。なにより強かだ。決めたぞ、蓮の葉だ」
号を決めたと男は言った。
それから馬上の私を振り返り、やはり男臭い笑みを浮かべて言った。
「そしてうぬはその葉に乗った露よ。女、お前は今日から露だ。そう名乗れ。そうして俺が妻になれ」




