神楽
コートの襟を立てる。
今年の冬は例年よりも厳しい、朝一番の仕事をする際、桶に湯を足すようになっていた。
研師は眉根に皺をよせながら境内を歩いていた。懐には、神社からの招待状があった。
くそくらえ。
対して真っ先に頭に浮かぶのは罵倒のそれであった。
研師からすれば、人よりもプライドよりも、刀の方が余程重要な物である。これから行われる神楽とは、例えるなら自身が全身全霊で描いたキャンバスを、他人にカッターで切り裂かれる行為に他ならない。それは絵を買った当人が行い、その上「これで更に良くなったでしょう」とのたまわれるのと変わらなかった。
刀剣研師とは、研ぎ減らす事により、結果的に刀の終りを先延ばしにする職人である。
「御勤め御苦労様です」
「あ、これは先生!」
当然の事、十束青年に投げる挨拶も、何処か皮肉を帯びた物となった。
「正直に言って、来てくれないものかと思っていました」
「私も来ないつもりでしたし、正直何度引き返そうと思った事か」
今でも見ないで帰ろうと思っています。そう笑わずに告げると、小さく呻きながら青年は頭を下げて礼を言った。
「改めてお礼を、御足労頂き有難う御座います」
「……招待状にこんな事が書かれてなければ来ませんでしたよ」
懐から封筒を取り出すと、二三度振ってから、研師はそれを傍らの篝火に放った。不遜であり、失礼な態度である。しかし不快さは無かった。むしろそうなるのが正しいと、周囲の誰もに思わせる仕草であった。
火の粉と散った便箋にはこう書かれていた。
『先生のおっしゃる研ぎ、抜いた瞬間に全てが終わる。その、研ぎの完成する瞬間をお見せします』
目の入っていない竜だ。
受け取った研師は、そう言われたと感じていた。そして、今宵その竜を天に飛ばす、とも。
「はっきり言って、これは招待状ではなく挑戦状、あるいは決闘の申し込みですよね」
「おっしゃる通りです」
職人の殺気だった声にも十束青年は怯まない。
険しい顔に、更に殺意を漲らせると、研師は来賓席と書かれた最前列に、乱暴に腰を下ろした。
話さなければ良かった。
心を掻き毟る苛立ちは到底治まりそうにない。
だが、その苛立ちの中に研師は確かに感じる所があった。それはまるで、鞘に納められたままの太刀を見ている感覚である。
刀剣の研磨とは、観賞する人間が居て初めて完成する。
そしてそれは、抜いた瞬間に、見た者全てを切る研ぎを目指さねばならないのだ。
※※※
時刻は二十三時を回った。
ここ数年で異様に増えた二年参りの行列に、崇敬者の老人は細い目を丸くして溜息を吐いた。
まるで毎年人数が増えている様に感じられた。
否、実際そうなのだろう。
対して、人が入っているとはいえ、神楽の舞台となる境内の一部は、八重の幕が張り巡らされて一般の参拝者からは見えない様になっていた。
「八雲立つ、か」
この神楽は一般公開をされていない。見る事が出来るのは、崇敬者と神社で招待した人物だけであった。今回の客は御刀様と研いだ職人と、文化庁の役人だと言う。
秘事であった。その神秘性が、参拝客を引き寄せるのかもしれない。
老人は首を鳴らすと、上着を脱いで黒子装束になった。誉れ高い縄の引き回し役であるが、そろそろこの仕事も代替わりの時期であるかもしれない。教会長から副長に、舞い手が代わった様に。
「そうは言っても今更遅し、今年も気張ってやるとするかね」
老人は隣の老人の肩をどやしつけた。どっしりと重い感覚が、掌に頼もしく帰って来た。
※※※
――どん、どん、どんどんどん、どどん。
太鼓が鳴った。
ざわめいていた客席が沈黙する、此処までは例年と同じであった。
だが次の瞬間から全てが違った。
どん、たーん、どん。
太鼓と、それに合わせて男が雨戸を左右に分け開く。力強く踏み出された足が、濡れ縁を太鼓に負けじと踏み鳴らす。
音を立てて狩衣の袂が掃われた。観客が、照り返しの眩しさに目を細める。
目に映ったのは金銅装長覆輪太刀拵、昨年までの糸巻太刀拵とは違う、武張った、それでいて、古雅な印象を受ける刀装であった。
磨き地の黄金色が朱金に篝火へと映えた。
「――え」
「あれ、ちが」
「おお」
微かにざわめいて、観衆は再び沈黙した。
目を擦る者が居た、しきりに頭を振る者も。
良く見れば見慣れた狩衣である。だが、なぜか気を抜いた瞬間に、舞う男の姿が武者鎧に見えるのか。
どどん。
太鼓が鳴った。
同時に男は境内に飛び降りる、そこは篝火の陰であった。薄暗がりに黄金の鍬形、萌黄糸縅の大鎧が浮かび上がる。
そして――
今度こそ、全員が息を飲んだ。
綱を引きまわしていた老人たちが、一斉に平伏した。既に綱は定位置に着いている。例年であれば舞台裾に引っ込む手筈であった。しかし、今宵ばかりは勝手が違っていた。
老人達の震える喉から嗚咽が漏れた。
ぼろぼろと涙を溢しながら、掌を合わせて伏し拝んでいる。
「――御刀様」
大鎧の武者姿。
侍る様に背を護る、凛と美しき白拍子。
文化庁から派遣された男は、瞬時にこの異常に馴染んでいた。慌てもしたが同時に悟ってもいた。これがこの神楽本来の形であり、何らかの条件でそれが整ったのであろうことを。
(なるほど、八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を、か)
一説によれば“妻籠みに”とは妻との共同作業であると言う。須佐之男の妻と言えば奇稲田姫、霊妙なる稲田の女神だ。しかし武者姿を見るに時代はもっと下がるであろう。もし皆が皆同じ幻を見ているのであれば、恐らく南北朝時代初期頃の装束と考えられる。
(周囲の幕が結界の役割を果たした? あり得る事だ。つまりこの空間自体が信心の吹き溜になっている。即ちこの場合の奇稲田姫とは古神道の奇魂、一霊四魂思想以前の霊妙なる存在そのものを示している訳か――)
それであれば得心が行く。小さく呟くと、男は何一つ見逃すまいと、考察は後回しに神楽に意識を集中させた。
※※※
――どん。
太鼓が鳴った、同時に、とうとう太刀が鞘から抜き放たれた。
落雷の直撃を受けた。或いは、股下から頭頂まで断ち割られた。
そんな光であった。
言葉が出なかった。
一度上段に静止したその瞬間、二本目の綱を断つ迄の僅かな硬直。
観客の誰もが絶対の終りを身に感じていた。
死、どころではない、三界に跨る存在そのものを終わらせられる衝撃であった。
研師の目から熱い涙が溢れていた。そこには確かに天に昇る竜の姿があった。自身だけではどうしても完成させられない、研磨の感動が確かに躍動していた。
十束青年のしている事は、決して自分では許す事が出来ない。
だが、この瞬間の感動は、生まれて初めて刀と出会った瞬間に比肩すると、男は涙ながらに受け入れていた。
※※※
――どん。
と、腹に響く音が鳴った。
記憶を手繰れば、神楽の舞台には常に白い女の人が居た。
いつからか居なくなってしまって、気にもしなくなっていた。
ただ自分に見えなくなっていただけで、彼女は常にそこにいたのであった。
そうだ。この神楽の舞い手は常に一人。
代々の教会長副長以外に、主となる者は居ない。
蓮之露は常に、主と共に舞っていたのだ。
※※※
下から這いあがる様に一人目を切り上げた。そっとその頭に白い袂が寄せられる。それだけで相手の太刀の刃道から建速の身は逸らされる。
勢いそのままに跳ね上がって斬り下ろした。
女の手が肩を引く。導かれる様に見ることなく、すぐ隣の武者を足を踏み変えて切り下ろした。
勢いに振りまわされそうになる手へと繊手が添えられる、途端太刀が思い通りに動くようになる、肩に担いで太刀で切り返し切り下ろす。
篝火は朝日のそれか、目の眩んでいる武者へ手首を返し様に切り上げる。
蓮之露の、今よりも恐らく長大な刃が、分厚い鉄が、例え切れずとも甲冑をひしゃげさせながら相手を打倒していく。
後ろへ回り込んだ相手がいたとて、露がその太刀筋を教えてくれる。
危なげなく、足を踏み変え切り下ろす迄。
目前の薙刀に太刀を突き込んだ。長柄で受けられ切っ先が上がる。鍔迫り合いになったのを、雄たけびと共に押し切った。
だが止まぬ。抵抗はまだやまぬ。
強力のままに競り寄せた。力負けした武者が膝を突き、その首に白々と研ぎあげられた刃が迫る。そこからはのこぎり引きだ。力任せに押し切るまで。
『避けろ!』
「心得た!」
後方より体ごと太刀を突き込んできた相手があれば跳んでかわし、山肌を蹴って鍔元で切り下げる。
その全てがこの場に居る全てに見えていた。今や、神楽の表す物が何であるのかを理解しない者は一人も居なかった。
これは、かつての勲詩の再演であったのだ。
武者の活躍に、十束建速の立ち回りに観衆が手に汗を握る。
あと一人、大蛇の尾に当たる大柄な武者。そこへ建速の太刀が振り下ろされる。
同時に武者の鉄砕棒も振り上げられたどちらも致命の軌道であった。
ただ、白拍子のみがその前に立ち塞がった。
晦日の境内に、殷々と澄んだ鋼の音が鳴って消えた。
~終幕~
この小説はフィクションです。実際の団体、人物等には一切の関係がありません。団体名同じでもです。