建速と露と建速
昭和二十年、敗戦。
日本は連合国に降伏した。戦争末期、本土空襲によって齎された被害は甚大であり、この街も、見渡す限り焼け野原になったと言う。むしろ、焼け残ったのは山際にあった農家が数件と、この神社だけであった。
空襲の影響は筆舌にし難いほど大きく、神社も全焼こそ免れたものの、室町時代より連綿と記されてきた綴り物。中には様々な神事の記録、御神宝の目録、あるいは御神宝そのものもあったという。およそ神社としての格を示す全てが灰燼に帰した。
教会長の持つ個人的な財産も、そのほぼ全てを焼失したらしい。保管されていた銀行ごとである。現代であれば電子化されて情報共有された結果、どの支店からでも引き出せるが当時は紙に書かれた書類と現金でしか存在しない。本殿以外は何もかもが燃え尽きたと言っても良いであろう。
残されたのは、力を使い果たしたが如く呆けた当時の教会長と、その十五になったばかりの孫。それから、記録を失い名を忘れられた太刀が一振だったという。
聞けば、当時の副長は南方戦線で戦死していたという。一時は社の存続すら危ぶまれる事態になった。
混乱期であった。
誰しも生きるのに必死であった、確かに絶望に一度は塗り込められたが、戦争という重苦しい蓋がどかされた事は何よりも大きな福音として人々に響いたであろう。新しいもの、より良い世界を目指して日本中が進む中、同時に古い物や信心、神々の在り方などは、記憶の片隅に押し込められ、何処かへ忘れ去られていった。
近代から現代へと移り変わる中。
空襲により様々な神事の記録を焼失したこの年、皮肉にも、太刀神楽は再開される運びとなった。
「この社が曲がりなりにも神社としての体裁を保てたのは、空襲当時、境内に避難していた崇敬者、及び空襲以降崇敬者となった方々の寄進浄財の賜物だそうな」
そう、板の間にあぐらをかいた父は言った。
「普通だったらまず自分の生活だよね、どうしてそこまでしてくれたんだろう」
人間二人の面倒に、焼けた境内の修復、現代で考えれば億単位で金銭負担となる物を、当時はマンパワーだけで解決したという。
それにしても解せない、青年は思った。確かにこの街には崇敬者が多く存在していた。戦後この地にやって来た人以外はそうであると言っても良いであろう。とは言え、それらの人間自体、家財を失ったばかりである。家も職も収入もない。それが如何にして復興に漕ぎ着けたというのか。
「御親戚が居る人はそっちを頼って、後はこの辺りの地主を頼ったそうだ。金は全部地主衆が持ってくれたとよ」
「なんでまた」
青年の声に、何とも表現し難い顔で父は答えた。
「火災が家の蔵で止まったからだと。何でも空襲で起こった火災を、当時の教会長が斬り伏せたんだそうな」
「そんなバカな」
「お前それ八十以上の崇敬者さんに言うなよ、本気で殴られっから」
「俺も言って実際にぶん殴られた事がある」父は言った。
恐らくは、今でも大蛇綱を引き回している方々だろう。厳しい顔が脳裏を過ぎった。ついつい父に釣られて顰め面になる。
気を取り直して青年は続きを促した。
「……記録が無くなって、どうやって神楽を続けたのさ」
「当時は体の動く爺様方が多かったそうだからな、昔に見た物をちゃんと覚えてた人も居たらしい。何しろ娯楽の少ない時代だろ、ちゃんとやってた当時、御神楽をやる教会長はちょっとしたヒーローだったらしい」
「鞍馬天狗とかそういう扱い?」
「お前も変な例えが出んな。まあそんな具合じゃねえの?」
「や、崇敬者さん見てるとなんかなんとなくそんな具合かな、と」
「大体あってる気がする辺り何とも……。で、だな。最初の何十年か――俺が物心付いた頃だから結構長いな――三十年くらいか? 御神楽は崇敬者の有志で持ち回りだったんだよ」
「なるほど」
「ところが流石に歳取って、段々と巻藁切るのがしんどくなったらしくてな」
「巻藁?」
言ってなかったっけ? と、父はバツが悪そうに惚けた顔をしてから続けた。
「昔は巻藁だったんだよ。歳とって一発で切れなくなってきたから、そろそろ当主に返そうって事になった。ところがだ。先代が巻き藁切るようになると、今度は持ち回り衆の出番が無くなる。三十年やってりゃ神楽にも愛着が湧かぁな、後はどうにか混ざれねえかって話になった訳よ。流石に巻藁役はできねえしな。じゃあ綱にしようって流れだったかと」
「それで」
「おう、切るのは巻藁から藁の太綱になった」
結果として、現在演じられている、境内を太綱が這いずり回る形態に変化したという。何しろ舞台が広くなる、確かにそちらの方が、据物切りよりは見栄えがするであろう。
(しかし巻藁とは)
切るならばその方が楽かも知れない。しかし、竹の芯を切るとなるとどちらか良いものであるか。
「そんな変遷があったのか」青年は小さく呟くと、頭の中で神楽の型を再現した。
言われてみればその通り、張られた綱を切るにしてはどれも動きの大きい型だ。据えられた巻き藁を切ると言われた方が余程しっくりとくる。
しかし、そう考えると嫌に生々しい動きが入っているのも事実であった。突き込んで鋸引きにする所など、どのような目的でなされた動きなのであろうか。
(想像するに、腹に刺して押し下げる動きだよな、あれ)
両手で突き出した太刀を、踏み込みながら棟に右手を添え、下に押し引き切る。これを一体巻き藁相手にどう使うというのか。こうなると相手は本当に大蛇なのか、との疑念も湧く。何しろ神話に依れば、大蛇は八塩折之酒で酔い潰されていた筈なのだ。まかり間違っても何かを避ける動作は必要が無い、筈だった。
だと言うのに、動作の中には明らかに受け太刀や、身かわしらしき動作が含まれているのだ。
(……あの型って、ひょっとして人を相手にしている型なんじゃあ)
思った以上に血生臭くなった想像に、顔をしかめると青年は一度己の思考に蓋をする事にした。
※※※
「それで? お爺ちゃんが切っ先折ったの?」
「そうそう、そうなんだよ。それまでに剣なんざ振った事もなかったみたいだからよ」
抜き放ち様に切り上げる所で、正面の群衆目がけて太刀をすっぽ抜けさせたと言う。
「それは……正面に立ってた人達は生きた心地がしなかったんじゃあ」
「何しろ神楽見物してたらいきなり刀投げつけられる訳だからな、たまんねえだろうよ。今思い出してもぞっとするぜ。ひゅんひゅんひゅん、がん! って具合に松の木に突き刺さってよ。結構深く行ったんじゃねえかな?」
青年の祖父は大慌てで松の木から太刀をもぎ取ったと言う。
「よぉおく覚えている。べきゃぁっ! て、すぅっげえ音がしたんだ。今思えばあん時に折れたんだろうな」
多分、まだ松の木に刺さったまんまになってるぞ。腕組みしながら父は言った。そうは言っても今更回収出来るものでもないし、例え回収出来たとして、くっつけられる訳でもない。
折れた刀を再生するには、刻んで沸かして原料にまで戻さなければならない。研師はそう言っていた。
「なるほど」
「で、そのまま動転していて気付かずに神楽だよ。全部御仕舞さあ鞘に戻そうって段になって、初めてひん曲がってる事と、切っ先がねえ事に気が付いたんだな。いや、あん時の崇敬者会のジイサマ方の怒り様ったらなかったぜ……曰く“御刀様になんて事を”」
「まあ、うん、それも仕方ない気もするけど」
「まあなぁ、ジイサマ方の話を真に受けるなら、どうもこの太刀の神様が、自分達を火災から護ってくれたって事らしいからなぁ」
「そら怒るわ」
「だなあ」
ちゃぶ台に置かれた湯呑を持ち上げ、茶を啜ると父は言った。
「そんでな、爺様は兵学校かなんかで居なかったそうなんだが、その、空襲の時に見た人が大勢居るんだわ」
「見た? 何を?」
「御神楽の御刀様。綺麗な女の人だったって言うんだよ、長い黒髪の、若い、その、白拍子? のカッコしてたらしい」
視界がぶれる程に、青年の心臓が一際強く動いた。
長い黒髪の白拍子。青年は身に覚えがあった、研ぎ上がった刀を受け取って、最初に型稽古をした晩に夢で見たのであった。
色の白い若い女。整った顔立ちの、さめざめと誰かを呼びながら泣き続ける女。
「……へえ、そうなんだ」
内心では激しく動揺しつつも、努めて表情には出さず、青年は先を促した。その努力を知ってか知らずか、への字に結んだ口に、片目だけを見開いた不動顔で父は話を続けた。
「口を揃えて言うんだよな“御刀様が大蛇を退治してくださった”って」記憶を探る様に、眉根を寄せて微かに身震いしながら男は続けた「俺も当時の記録を調べて見たんだが、確かに火炎旋風って言うの? アレ。火災がでかくなりすぎて竜巻が燃えてる奴。あれが九本だよ、街からこっちにのたうって来たって記録がサァ、――ぁあるんだよ」
(――火災旋風とはなんぞや)
聞き慣れない単語である、竜巻が燃えてると言うからだいたいの想像はつくが。と、青年は徐にスマートフォンを出して調べた。
「それらがどれもこれも不自然に家の手前で燃え尽きてるんだよな」
(手っ取り早いのは画像検索か、……うお、なんだこれやばい)
大規模火災で発生する。そう、そこには記されていた。関東大震災では、十五分間で三万八千人が命を失ったと言う。可燃物と酸素を求めて地上をのたうつ様は、まさしく大蛇の姿と言えるだろう。
(これが九本って……)
改めて空襲の恐ろしさが浮き彫りになる、と、同時に、何故それで社が燃え残ったのかが不思議でならない。
周辺は松や杉などの古木が多くある。社とて、可燃物の塊と言っても良い木造建築だ。山から吹き下ろす風は、さながら鍛冶場の鞴の様に火災に酸素を送り込んだ事だろう。そうなると、確かに記録の通り、火災の次なる、そして最大の餌となったのはこの神社の周辺であった筈だ。
「なんでそれで無事、じゃないけど、まあ、無事だったんだろう……」
「蔵は焼けたらしいけどな、どうも、崇敬者さんの話からすると尻尾を切り損ねたらしい。そこで当時の教会長がプッツン倒れちまったんだと」
「なにそれ、また謎が増えたんだけど」
「火災の中、一心不乱に御祈祷していたら、突然御祭神様の御声を聞いたらしい。爺様は大慌てで太刀を取り出すと、徐に御神楽を舞ったらしいんだよ。刀袋の紐引きちぎって抜き放ったって。不思議なのは、その場に居合わせた誰もが乱心したとは思わなかったってことだな。察するに、全員が全員同じ物を、聞くか、見るかしたんだろう。それこそ御刀様だ。でな、太刀を振る度に、火炎旋風が力尽きたかのように燃え尽きて散って行ったって話なんだよ」
「嘘臭い、けど」
「そうだよな、俺もそう思う。けど事実らしいんだなこればっかりは。……でだ、八本の竜巻を吹き散らし、後一本って所で御刀様も随分と苦しそうになっていたらしい、爺様はそれを助けようとしたんかなぁ」
「それで倒れたんだ」
「そう、御刀様の姿もそれで消えた。竜巻の最後は半分以下にまで小さくなっていてな、それでも最後の一撃とばかりに我が社の蔵をぶっ壊してくれたらしい」
「壊すだけならまだしも、とどめに燃やすあたり、大蛇の積年の恨みを感じるな」と父は話を括った。
頭の中で、何かが組み上がるのを青年は感じていた。
伝承に依れば大蛇の尾を断とうとした時、十束剣は刃毀れを生じたと言う。怪しがり調べたところ、尾から取り出されたそれが天叢雲剣だ。
運命などと言う物は信じないが、これはひょっとして何かの符丁ではないだろうか。或いは。兆しの様なものなのでは。
「――教会長」
「おう副長、どうした改まって」
青年は研師に伝えられた事を父に伝えた。太刀の腰元に刃切れと呼ばれる傷がある事、それがかなり大きな物である事。
用いれば折れるかもしれないと言う事。
父親は瞑目してそれをじっと聞くと、しばらく考えた後に一つ頷いて言った。
「俺が思うに、今が色々と節目何だろう。そう思う。戦争が終わって七十年と少し、つまり、副長が考えた様に、竜巻ぶった切って罅入ったってんなら、以降六百数十度物切って、それが深くなって行った可能性は高い。そうすると、だ。このまま研ぎ上がったその太刀を、御神宝として仕舞い込むのも一つの手だ、否定はしない。それで新しい刀を用意するとなれば、大変だが、まあ借金でもすればどうにかなる。無担保で無利子で貸してくれそうな所に心当たりもあるしな。しかしもう一つ。副長の御世話になった剣術の先生な、鍛冶屋を知ってるそうだ。意味は解るな?」
そこまで言うと、父親は「風呂へえってくる」と席を立った。
脇を通り抜けざまに、青年の頭に、ぽんと分厚い掌が置かれた。
「あと半年ある、よく考えて決めてくれ。伝承した以上は副長がそれを決めて良いからよ」
肩越しに振り返りながら、ひらひらと手を振る父を青年は唇を軽く噛んで見送った。
廊下の暗がりから、後押しをするように暖かい声が聞こえた。
「此処で終わらせるのか、それとも新たに始めるのか。こんな機会は何百年に一度しかねえぞ、まあせいぜい頭悩ませるんだな。建速よ」
※※※
りん、と、鈴の音が聞こえた。
遠いところではない、目の前を転がったかのような音に、青年は瞑っていた眼を開いた。
当然の事ながらそこには誰も居ない。二人分の湯呑だけがちゃぶ台には置いてあった。
「気のせいかな」
建速は呟くと、再び自らの思考に埋没した。
※※※
――はたして気のせいではなかった。
先程まで父が座っていた向かい側、青年から見て、本殿の方に当たる席には、確かに白拍子姿の露が端坐していた。
まるで、描かれたかのように美しい顔。それは研師に蓄積されてきた、千年の美学の現れだろうか。文字通りの付け焼刃、まるで氷の様な脆さを感じさせる容貌で、露は建速を切なげに見詰めていた。
青年の姿は、半年前とは見違える姿であった。甘さや儚さを含んでいた柔らかい輪郭が、男性を感じさせる確かな横顔に変化している。元来の濃い造作が、そこに男性の持つほろ苦さを含んだ甘さを垂らしていた。
それは良く見知った横顔であった。
『主は、違うのだな』
長い眠りについていた。力を使い果たし、人の映し身も維持できず、当時の主を食らってまで人々を守った。鈍く響く痛みに呻きながら、やがて訪れる終りに怯えていたと言っても良い。
なすべき事は成した筈であった。だが、どうしても思い切る事は出来なかった。
『主は、建速なれど建速に非じか』
目覚めは乱暴な按摩と共にであった。力尽くで歪みが正され、弛んだ皮肉が梳られ、顔を失った所に再び描き込まれた。それが、ただ傷として打ち込まれたものであれば目は覚ますまい。研師は如何なる手段を用いてか、刃中に錵の粒を再び生じさせたのであった。硬さを失った筈の刃先が確かに強さを取り戻している。その事実には、ひどく驚かされた。
建御雷神の息吹を感じた気もする。これが終りであるかと、露は覚悟をしていた。だが終りは訪れず、代わりに見た事のない男が、精根尽き果たした顔で、研ぎ上がった蓮之露を拭っていた。終わった筈の、切っ先を失い刃切れを得、ただ折れる前の鉈と落ちた我が身を再生させる、神技とも呼ぶべき手腕であった。
以来、露はずっと「何故、今そうなったのか」を考えていた。
明確な意識を持つのは久方ぶりである。そして、その眼前には、愛しき背の君の血を引く、同じ名の、本当によく似た男があった。
だが、だと言うのに。
『主にはこの声が届かぬのか――』
はらはらと涙滴が頬を伝い落ちた。
これは何だ、どうしたことだ。何故、想い人の顔でまるで違う人間がそこに居る。
同じである。体も、心も、ただ生まれが違うだけで、青年を、建速を構成する全てが同じだと言うのに。
『見てくれ、私を、たけはや、みてくれ――』
思えば長かった。男の血を守護し続けて、はや六百年数十余年。ずっと建速を慕ってきた。最早居ない人だと言うに。
ずっと一緒に在れるものだと思っていた。
人の一生など鋼の我が身に比べれば瞬く間だと言うに。
ずっと悔やんできた、恨んできたと言っても良い。
どうして、どうして一緒に連れて行ってくれなかったのか。
噛み締めた唇が人並みに痛む。その事実がまたさらに胸を刺し抉る。
不完全だ、刃切れによって不完全になった。
折れば折れる身になって、初めて人並みに傷の痛みをその身に刻んだ。
「たけはや、なぜぬしはわらえた、むねをえぐるきずをえて、なぜわたしにわらってみせた」
何故私を庇った。
露は叫んだ。
悲痛な音が室内に響き渡る。どうせ誰にも聞こえない、その事実が彼女を更に自棄にさせた。
※※※
ひとしきり、露は恨み事を、募らせてきた想いを建速の末に向けて吐き出した。
涙は熱かった。胸に縋り、その胸を打った。装束は布だと言うにひどく硬く、まるで巌の様に彼女の拳を跳ね返した。
「――露」
『――ッ!?』
跳ね起きて、身を離した。
まさか呼び掛けられるとは思っていない。よもやこれまでの言葉も聞かれていたのか、それともそもそも見えているのか。
途端、羞恥が全身を駆け巡る。熱湯を浴びせられたかの如き醜態の後に、なんとか端坐し居住まいを正す。
ゆっくりと青年の目が開かれた。その目が彼女を向く事はない。巨大な穴に似た喪失感が、露の胸に冷たい風を吹き抜けさせる。
熱湯を浴びたとも思ったら、次は凍て付く川の水に浸けられた様だ。
落差に愕然としながら、皮肉な笑いを唇に佩く。
建速の手が、刀掛に置かれた蓮之露を手に取った。途端――
『――な、あ?』
――ぐっと、腰を抱き寄せられていた。
間近で見る建速の顔は、何故か建速の顔をしている様に見えた。
「何が正しいか、僕には解らない。ただ、泣いているのは知っている」
何故、と、問う事は出来なかった。
ただ見惚れた。かつて愛した顔だった。今も愛する顔だった。まごう事無き同人で、それでも違う男の顔であった。その顔で男は小さく、だが、確かに言った。
「僕が折る事になるだろう。それが今年か、ずっと先になるか解らないけど」
男の顔が二重にぶれて見えた。
万物は流転するのだ。唐突に露は悟っていた、刀も同じなのだと。
「必ず作る、だから、どうかその時は泣き止んで欲しい」
皮肉な話である。
青年はこの時、夢で泣く彼女に恋をしていた。
その上で悲恋である事も、既に知っていたのであった。
そして皮肉にも、建速の手による終りこそが。
いまこうしてすれ違う、露の切なる願いでもあった。
『……姿形は見えずとも、万物は確かに流転している。建速は此処に確かに在るのだな』
涙は止んでいた。
頬に残るそれを掃うと露は微笑んだ。