十束建速
「何をそんな不貞腐れておる」
膝に枕する男が言った。そんなつもりはなかったが、どうやら顔には出ているらしい。
問われれば思い当たるところはあった。
しかし、はたして男にそれを伝えて良い物かが悩ましい。
「言え、黙っていては通じぬぞ」
『主は――』
せっつかれてつい口から音が出た。
だがそこまで。
それより先は些か視線が泳ぐ。
言葉にはならなかったし、胸にうずまくそれを、どう言い表したものかとまず考えなくてはなるまい。
「どうした」
笑いながら男は促した。その顔を、両掌で抑えて視界から締めだす。
手の下でごもごと動くさまがなんともくすぐったい。袂から忍び込んだ手が私の腕を撫でている。
(さてさて、これをどう言葉にしたものか――)
『主は何故数打ちばかりを佩いて行くのだ?』
「む」
ひくり、と、暖かな掌が動きを止めた。硬く分厚いそこから、ほんの少し熱が失われたのを感じる。
『言い難い事か?』
「そう言う訳ではないのだが」
返答は芳しくない。歯切れの悪さは奥歯に物の挟まったが如し、ぱかりと掌をどければ、眉間に皺を寄せてしかめつらしい男の顔がある。
『のう、主よ。なぜ他の刀を連れて行きやる?』
「う……む」
しばらく唸って主は答えた。
「以前、数打ちであれば精は宿らぬと言ったろう」
『言った』
「しからば、うぬに気を使う事もない、と」
『それなら私を連れて行け。私を何故佩びぬ』
「うぬぅ」
頬を挟むと私は言った。
『不満だ、不満だぞ主よ。別に他の刀に嫉妬している訳ではない。ただ、私が主と離れているのが堪らないだけだ。不安になるのだぞ?』
ぐむ、と小さく唸ると男は私の腰を抱いた。
陽だまりには春の日差しが降り注いでいた。
※※※
「場に、非ず」
声には逡巡の色が乗っていた。思考錯誤のそれと言っても良い。
『嘘だ』
声には非難の色が乗った。
「嘘ではない、うぬを佩びるほどの戦場に非ず、そんな勿体ない事が出来るものか」
『半分は本当の様子だが、それも半分嘘だろう?』
「……うぬはサトリか何かか」
『たわけ、顔に書いてあるわ』
私が言うと男は黙った。表情は少しずつ暗さを帯びて行く。その理由が解らなくて胸が苦しくなってしまう。
『何故黙るのだ』
問いかけに答えは無い、ただ暗めの表情が百面相をする。
何を思っているのやら、じれったくてその唇に唇を落とした。
目を開いた男に私は言った。
『置いて行くな、主』
棒読みの言葉だが、むしろ万感彩られているだろう。それが男にも伝わった様子だった。
呑みこむ息が微かに震えている、紡がれた言葉は熱に塗れていた。
「……使えば刃も毀れよう」
『然り』
「毀れれば砥石も当てよう」
『然り』
「うぬが痩せてしまう」
『然り……うん?』
それは私が刀である以上、当然の結末だと思うのだが。
「もし、もし俺が使い損じたとしよう」
『うむ?』
「うぬを折ったとする」
『うむ』
「うぬは如何様になる?」
『さて――』
……なるほど、男は私が失われる事を恐れているのか。
「誤魔化すな、うぬは消えよう?」
『然り、私は消える』
「俺が、うぬを殺すのか」
『それは否、主の仕業に非ず』
「露よ、うぬはそう言うだろう。勿論存じておった。だが、俺はそうは思わぬ」遠い目で空を見詰めて主は言った「俺はうぬを失いたくない」
視線を追う様にして天を仰いだ。高い所に雲がすだれを掛けている。引っかかる様なそこに束の間視線を彷徨わせた。
これもまた、まともな答えが見当たらなかった。ただ胸の奥が熱く、息がひどく苦しい。
『主、私を置いて行かば、誰ぞに奪われるやも知れぬぞ』
「それも困る」
『奪われれば如何にする?』
「必ず捜し出す」
『嬉しいな』男の頬を撫でて続けた『だが私は思うのだ』
「言うな」男は言葉を遮って続けた「解った。負けた。俺が佩いて行けば済む話だ」
涼やかな、良い香りのする風が吹いていた。
『ああ、それで良い』
※※※
それより後、男の傍らには常に私の姿があった。
煌びやかな大鎧に、掲げられた大太刀。先陣切って馬を駆けさせる姿は常に戦場の花形となった。
男が馬を進めれば、即ちそこが目貫通りよ。土地の物に謡われる程、男の名は知れ渡った。
男は強かった。武者であろうが僧兵であろうが、立ち塞がる者で無事で済んだ者は無い。棒切れが如く手に持った数打ちを打ち振るい、当たるを幸い薙ぎ倒していく。
手に持った数打ちの太刀は、常に刃毀れと誉れ傷でささらの如くなっていた。
だが滅多に腰の三尺五寸は抜かれる事が無かった。
※※※
そんな戦に明け暮れた歳月が、どれだけ過ぎただろうか。
男が娶った人の妻にも子が産まれ、その子が育ち、男と肩を並べる様になった頃のこと。
ある戦が決まった。一族の興亡を賭けた一戦である、時の将軍に付くか、はたまた。
男はいつも通り男臭い笑みを浮かべると「公方様をお助けする」と言った。
※※※
篝火が赤々と焚かれている。方々から聞こえる怒声は戦の支度に忙しい。胴丸に烏帽子姿の雑兵が、我も我もとその身に太刀を帯びていく。
夜襲である。それはこの大戦の趨勢を決める場でもあった。
『太刀緒に弛みは無いか』
「無し」
頷き合うと、私はそっと男の肩に手を掛けた。
見える者がいれば目を疑うだろう。或いは狂い己の眼を抉るやもしれぬ。
馬上の鎧武者、その後ろに肩に手を掛けた白拍子の姿が、現世の戦をこの世ならぬ神代のそれに化けさせる。
最初は静かに、だが近くまで行かば、後は鬨の声を上げて打ち当るのみ。
一際高らかに男が吼える。
雑兵を蹴散らしつつ、夜闇濃いまばらな木立に敵を追い込んで行く。
相手の陣幕はこの先にある筈だった、そこに、追い立てた雑兵諸共に一当てする。死に物狂いで逃げる人間の勢いは凄まじい。それは己達の勢いを幾倍にも見せてくれる筈であった。
すぐ後ろには男の息子も来ていた。見事な若武者ぶりである。初陣から幾年か経ち、その有様は一人前の武者姿であった。
まるで己が子を見る様で微笑ましい。
※※※
ふとした拍子の事だ。
(――なんぞ?)
ちり、と、首筋に刺さる様な気配を覚えた。
背筋を伸ばし、馬の背に立って先を、遠くを見透かす様に目を凝らす。
何かが違う。夜襲、奇襲の類は幾度も経験を重ねて来た。だが、今回のそれはいつもと違う。
押し包む様な、あるいは刺し貫く様な違和感。
(これは――)
殺気の類である。
それも濃密であり、此方の奇襲に慌てふためく様なものではない。
良く練られた殺意だった。
先を駆ける雑兵の背が徐々に近付き――否。
(彼奴等の足は、命は既に止まっている!)
『――主よ、罠だ!』
「ぬ!? ぬかった……!」
同じく気が付いた主が馬の手綱を引き絞る。
「なぬ――全軍止まれ!」
男の息子が主の停止に気が付き声を上げた。良く訓練されているとは言え、気性の荒い駒達が口から泡を吹いて棹立ちになる。
不幸だったのは判断の遅れた者達だ。
そこには伏兵が潜んでいた。
次々と突き出される長柄が、慌てふためく鎧武者を骸に変えて行く。追撃する様に、正面の木立から鬨の声が上がった。呼応するように左右の林からも。
これですっかりと自軍は浮足立ってしまった。
何しろ状況が見えぬ。敵が多いのか、少ないのか、どれほど包囲されているのか。奇襲を掛けたつもりが逆襲されてしまったのだ。
読まれたのか。
それとも内通者か。
御注進の声と共に誰それが裏切った、誰それが討ち死にしたとの声がこだまする。
男の口から乾いた笑いが漏れた。
「負け戦である」
「で、ありまするか! 御館様、お逃げあそばしませ!」
男の息子が男を急かす。唇の端を持ち上げると、男は馬首を巡らせて声を張り上げた。
「御方々! 所払の関まで退かれよ! 俺が殿軍を勤めよう! いざ走れ!」
※※※
――四半刻ほど駆けただろうか。
馬の嘶き、がくりと急落する視界。
鞍から転がり落ちつつ、ここぞとばかりに男は蓮の葉を抜き放った。
「御館様!」
息子が叫んだ。
負け戦である。死地である。立ち止まればたちどころに首を挙げられるだろう。
落馬した父を助けようと、反転させた馬を此方へと駆けさせ手を伸ばした。だが男は、息子の手をひょいとくぐると、馬の尻に太刀の切っ先をつきいれ無理矢理に馬を駆けさせた。
「今この場で家督を倅に譲る! 当主を守って方々は退かれよ!」
周辺に居た者からすれば晴天の霹靂である。
だが、夜闇を見通す私の声を聞く男からすれば最善の手であった。
男達の馬は疲労の極みにあった。馬足は鈍りに鈍り、じきに追いつかれる事だろう。誰かが足止めをする必要があった。だが、此処に来て男の簒奪者の異名が足を引っ張っていた。男には倅を逃がすほかに、味方の信を得る手段が残されて居なかった。
倅が生きれば家は続く。無論ながら長く生きるのは息子の方だ。
(そして、あの息子を殺してはあの女に泣かれるだろう)
男の馬は首を折っていた。血のあぶくがだらしなく開かれた口から止め処なく滴っている。どうやら後ろから来た矢に足をやられたらしい。
近場に馬は居らず、これではすぐに逃げる事は叶うまい。
男は兜の錣を傾けると次いで飛んできた矢を弾く。その口元には笑いが浮かんでいた。
『手傷は?』
「無し」
隘路である。騎馬武者がどうにかすれ違える程度の山道、山寄りには馬の骸が寄せられて、急ごしらえの矢楯と赤々と燃える篝火が二つ置かれている。急ごしらえの関であった、そしてどうやら関に詰めていた者も一緒に後退したらしい。
ごく一般的に考えれば男は此処で死ぬ。
『左肩、来るぞ』
体を開いて襲い来る矢を避けた。見れば先程より矢を放つ者がある。彼方より二十四騎、此方へと駆けてきているのが見えた。
「討って出るぞ」
『心得た』
夜陰に乗じて敵の隙を突く。夜襲に奇襲を返された。それに意趣返ししてはならぬ掟など無い。
「うぬと二人きりだ」
『今それを言うか』
たわけ。小さく呟いた声は笑っている。男もそれに微笑み返した。力強い顔だった。死ぬ気などひとかけらも持っていない。
男は既に腹を括っている。死ぬかも知れないではなく確実に死ぬ。死人をどうして殺す事が出来よう。どの道この戦が終われば隠居する心づもりである。であればいっそ、既に死んだ物と思っていた方が生を拾うやも知れぬ。
月影を姿勢を低く走る男の背を追った。これより先は乱戦の渦中。男の背を守ることこそ私の仕事である。
陰に潜む脇を騎馬武者が抜けて行く。功名に逸ったか、後続は未だ彼方にある。
たかだか二十四騎。不意を付けば、あるいは切り抜けられるやもしれぬ。
三人やり過ごした所で月陰から踊り出た。飛び出した勢いそのままに、目の前の武者を谷底に突き落とす。行き過ぎた三人が、狭いこの道で馬首を返すまでにどれだけ減らせるか。
「つかまつる!」
「仔細問わぬ!」
「御首頂戴!」
「しゃらくさいわ!」
突き出された切っ先を籠手で弾く、太刀を振るうには内に入り過ぎている。男は体を捻りざま、腰へと肘を叩き込んだ。皮と鉄の当たる硬い音、騎馬武者はなんとか体勢を立て直そうとするも、一度崩れた体は戻す事もならず、無念の声と共にあえなく谷底へと転落した。
『矢が来るぞ、頭下げろ』
「応!」
馬首を巡らせるよりも早いと判じたか、振り向き様の騎射が男を狙う。
矢道を見切った私がそっと、男の頭を押し下げた。
狙いが正し過ぎるのも考えもので、兜の錣が、矧板が狙いすまされた筈の矢を理不尽に弾き飛ばす。
だが見事。
この夜闇の中で、敵の首だけを狙うとは相当な腕前。
「しかし煩わしや!」
矢をうるさく思った男が、更に敵の内懐へと踏み込んで行く。そうこうする間にも五騎、崖から奈落へと叩き落とされている。
既に男は蓮の葉の柄のみを握っていなかった。上身の中程を引っ掴むと、長巻よろしく小回りの利く取り回しを見せていた。鎧われた武者の首は切れねども、馬の首であれば容易く裂ける。血で出来たぬかるみに足を取られる武者あれば、ぬるりと寄って男は切っ先を鎧の隙間に突き込んだ。
今なら、あの猫のように侍る刀の気持ちが解った。鋼の我が身に火が灯る。それがたまらなく心地よく、己が何者であるのかすら忘れてしまいそうになる。
※※※
がたりと音がした。
背中が何かにぶつかった音だ。鞴の様に荒い息を吐きながら、男はちらりと背後に視線を投げる。先程置き去りにした矢楯であった。切り結ぶ中、どうやら再び此処まで押し込まれたらしい。
どれほどこの場で粘る事が出来たのか。
既に空は白み始めていた。
流れ込んだ汗が目に酷く染みた。目を細めて追い出そうと試みるが、試みは上手く行く事が無かった。
(これまでか)
男は全力を使い果たしていた。
残すところ九人。半分以下にまで減らせたのは名の誉れその物であろう。祖と伝えられる御名にも決して恥じ入る所はあるまい。
男は既に意地でこの場に立っていた。
『主、後ろから援軍だ!』
淡々とした、しかし歓びが隠しきれない露の声。
声は出なかった。からからに乾ききっている。代わりにからりと微笑んで見せた。
(それは重畳、であれば心配ごとの一つは無くなる、と)
かの太刀は、男と心から繋がった女は、良く男を助けてくれた。
切り結ぶ最中の後ろ矢すら、意識の外の太刀筋すら、或いは死人に隠れた不意打ちすら、蓮の葉の加護は退けて見せた。いつしか遠巻きにしか囲まれぬ、いかな矢襖も男を仕留められぬ。これでもかと浴びせた矢雨の中を、小雨でも凌ぐように男は進む。露は男のみに触れられる。そして当たらぬ様に、微かに男を退かすのだ。
(これはしたり。この楽を知ってしまえばうぬを伴わぬなど考えられぬ)
だからこそ、今死ぬわけにはいかなかった。
此処で死ねば首を取られるだろう。当然のごとく戦利品として蓮の葉も。露も。
それは許し難いことであった。
男は向かい合って殺気を放つ男達を知っていた。自らを『大蛇党』と謳う悪党である。自然と顔に猛々しい笑みが浮かんだ。
(大蛇、大蛇か。頭が八つに尾が一つ。八岐大蛇だ。良いぞ、我が祖の名に賭けて、なおさら負けられぬ)
『御味方は四半刻も掛らぬ、凌ぐぞ主!』
胸の内を涼やかな風が吹き渡った。
男と露は常に共にあった。傍に置かぬ時は人の妻との閨においてのみ。常に傍らに置き、常に傍らに彼女は侍った。
掠れた喉で唾を飲み込んだ。否、唾など既に湧かぬ。顔を流れる汗を舌で啜って飲み込んだ。
それで、どうにか声が出せる程度の湿りは手に入れられた。
「――やあやあやあ! 我こそは出雲の国は鳥髪に、降臨まします素戔男尊、その末葉たる十束建速なり! いざや、尋常に勝負!」
※※※
――やあやあやあ! 我こそは出雲の国は鳥髪に、降臨まします素戔男尊、その末葉たる十束建速なり! いざや、尋常に勝負!
山間に木霊する大音声。若武者は、はっと顔を起こすと、応える様に声を張り上げた。
「御館様!」
既に空は白んでいる。男が息子を逃がしてより一刻が過ぎている。
生存は絶望的であった。
だと言うのに、男の声が木霊した。馬腹を蹴る足に力が乗る。
間に合え、間に合ってくれ。
馬を馳せる男達の思いは一つであった。
やがて、最後の曲がりに差しかかる。これを越えれば姿が見える。
「父上!」
建前はかなぐり捨てた。
見えた。谷を挟んだ奥、一対九。絶望すべき戦力差である。だが、武者の鑑は絶望など欠片も見せていなかった。
此処までにどれほど戦い抜いたのか。
萌黄糸縅であった具足は既に赤糸縅の如く。
大袖は左右共に失われ、草摺は引き千切れて垂れさがっている。
兜は鍬形が欠け片角に、どうやら吹返しも一部欠けている様子である。
「父上!」
もう一度声を張り上げた。
微かに風に乗って届いたであろう声に、敵方の動揺が見てとれる。今更ながら自らの突出に気が付いたのであろうか。或いは、気がついては居たが、父からは逃げる事すら叶わなかったと言うのか。
「推参! 推参!」
御味方が声を張り上げた。瞬間、谷間に朝日が差し込んだ。日輪を背に負った父が飛ぶ。
下から這いあがる様に一人目を切り上げた。
勢いそのままに跳ね上がって斬り下ろした。
すぐ隣の武者を足を踏み変えて切り下ろした。
振られる太刀を、肩に担いで太刀で切り返し切り下ろす。
目の眩んでいる武者へ手首を返し様に切り上げる。
蓮の葉の長大な刃が、分厚い鉄が、例え切れずとも甲冑をひしゃげさせながら相手を打倒していく。御味方の感嘆の声、父は強い。途方もなく強い。後少しだけ保ってくれれば馳せ参じ轡を並べられる。
後ろへと回り込んだ相手がいた。
危ない。
だが後ろに目でも付いているのでは。そう思わせる危うげのなさで、足を踏み変えて切り下ろす。
目前の薙刀に太刀を突き込んだ。鍔迫り合いになったのを、雄たけびと共に押し切った。だが止まぬ。抵抗はまだやまぬ。膝立ちの武者首を、まるで丸太でも切るかのように、父はのこぎり引きで押し切った。
やっと目が慣れたのか、体ごと太刀を突き込んできた相手を跳んでかわし、山肌を蹴って鍔元で切り下げる。
あと一人、相手の腰は引けていた。大柄な武者である、手に持った金砕棒が振りあげられる。その勢いは弱かった。だが、不意に父の振りが僅かに遅れた。
馬鹿な。疲れか、それとも。
武者は咄嗟に金砕棒を捨てた、女手差しの短刀が朝日を照り返す。
交錯した瞬間は見えなかった。ただ、父は手の大太刀を改めて振りかぶり、切り下ろしていた。
――そして、そのまま四肢を大の字に張って後ろへと倒れた。
※※※
(――しくじった)
男の脳裏に苦い思いが過った。
最後の一振り、あのまま押し切れば、こうして致命の傷を負う事は無かったであろう。
金砕棒の振りは緩かった。例え打ち合ったとしても蓮の葉が打ち負ける事はあるまい。
何しろ鎧すらひしゃぐ剛刀であった。
だが、それでも。万に一つの可能性を、男は踏み切る事が出来なかった。
いつかの夜。戯れに打ち折った太刀。その末後を看取った露の顔を、男は忘れられなかった。
自らの腕と、太刀の強さを信じ切れなかったのか。
それとも、女に抱いた心故にか。
男は己の鎖骨に短刀が突き立てられるのをかわせなかった。
(まあ、だが、露が無事であったから良いか)
満足は、それでもしていた。
ふと、目が覚めた。
ああ、これはいよいよらしい。
そう思い目を開けば、必死の形相で戸板に乗せた我を運ぶ御味方と倅の姿が見える。
「……おい」
「!? 父上、傷は浅うございます、御気を確かに!」
気休めである、男は苦笑をこぼした。自らの胸に、腹に、少しずつ命が流れて行くのが解る。
不思議なものだ。普段から詰まっているはずの血潮なのに、何処とも知れぬ所へ流れ行く。
「蓮の……露、当主の証だ」
大太刀は腹の上に置かれていた。力が入らずに、震える指で掴むと倅に押し付けた。
息子がそれを胸に押し抱いたのを見て。やはり男臭い笑みを男は浮かべる。
そして、何処か知れぬ所に視線を投げた。誰にも何も見えぬが、そこには確かに男の愛した女が居た。
『たわけ、死ぬな――たわけ』
女は泣いていた。男の太刀であり、妻であった。
女のおかげで良い最後を迎えられた。
「うぬを折らずに済んで、良かった」
声にならぬ声を上げて女は泣いていた。
胸が痛んだが、誇らしくもあった。
「つゆ、よ。俺が名を呼んでくれ」
「ああ、ああ、だから――たけはや。とつかのたけはや……死ぬな――」
最後に耳にした音は、己の名を呼ぶ女の声だった。