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素振り

 ぼこん、と、間の抜けた音がする。同時に掌から肩口に掛けて涙が出る様な、しびれを伴った痛みが走った。持っていた物をつい取り落としそうになる。情けない声が口から漏れた。既に嫌気もさして久しい、だが、此処で引き下がってしまえば自分が何者であるのかすら見失ってしまうだろう。

 震える指で再び鋼管を握る。振りあげるのにさえよろめいた。

 また、間の抜けた音が裏庭に響く、鋼管が半分埋められたトラックのタイヤに弾かれた音だった。一振ごとに取り落とす、或いは取り落としそうになった。分厚いでこぼこのゴムが、叩き損なえば叩き損なっただけ此方の身を苛んだ。

 狙った箇所に、狙った様に当てる。ただそれだけの筈なのに、どうしてこんなに難しいのか。

 吐き気を伴う酸欠に、あるいは過呼吸に喘ぎながら、震える手で鋼管を杖にした。

 素振りを始めて一カ月が過ぎていた。一日に振れる回数は未だ一千を超えていない。朝の内の目標すら達成できていないありさまだった。

 気ばかりが焦ってしまう、無闇と何処かへ走り出したくなった。早咲きの梅は既に香りを境内に振りまいている。自分が前へと進んでいる気がしない。そのくせに、本業ばかりが忙しくなっていく。例年よりも仕事の量は増えていた。景気が上向きになってきているのだろう、神社を訪れる参拝客の顔色も随分と明るいものになっていた。反比例するように、自らの内側が錆び付いて行く気がしていた。

 長い溜息は、気温の上がって来た日中でもなおまだ白い。全身にまとった汗が、湯上りの様に湯気を立てている。稽古着代わりのジャージで額の汗を拭うと、タイヤから一歩離れた位置でまた鋼管を振りあげた。



  ※※※



 タイヤを打つ様になったのは、父の発案からであった。

 なにしろあまりにも振れていない。振るどころか、構える事すら困難なそれだ。握りにくい太さと言う物は、ただでさえ少ない握力を瞬く間に食らい潰した。

 切っ先を動かさない様に構える? ばかなことを、そもそも持っているだけで精一杯だ。


「俺の時は薪割りがあったけど今はねえからなァ」


 稽古を見に来た父が、立膝に頬杖をついて言った。

 口をへの字に結んでしばらく何かを考えるそぶりを見せると、徐に立ち上がり、近くにある傾いた倉庫からトラックのタイヤを転がして来た。普段から清掃用具がしまってある場所なのだが、そんなものを見かけた記憶はない。何処にそんなものがしまってあったのかと問いたくなる。次いで渡されたのは総鉄製で両手持ちのスコップだ。「ほれ」ひょいと渡されたその声は、掘れといったのかただの掛け声だったのか、ひょうひょうとした父の横顔からは伺えない。


「タイヤが半分埋まるくらいで良いからよ」


 どうやら両方の意味だったらしい。それから「懐かしいなぁ」などと言いつつ、立て掛けてあった鋼管でタイヤを叩き始めた。こうして見ると、父の背筋のたくましいことよ。そこがモリモリ動く度に、ずしん、ずしんとタイヤが腹に響く低い音を立てた。

 説明くらい横着するなよ。そう思いながらスコップを地面に突き立てる。初めての穴掘りは、これもまた想像以上に重労働だった。

 ざくりと音がする。突き立てただけでは先しか刺さらなかったが、足で踏みこむと気持ち良いくらい土に食い込んで行く。鳴ったのは歯触りの良いチョコレートケーキを齧った時に似た音だ。持ち上げようとこじって――赤い顔を更に赤くした。梃子の原理で軽く掘れる筈の土は、みっしりと詰まって梃子でも動かない事実を、まるで掴みとめられたかのように感じさせていた。土とはこんなに重たい物であるのか、良く踏み固められ、しまった肌理の細かいそれ。しっとりと程々に水気を含んだ土が、スコップをそっと抱き締めて離さない。

 早い話が抜けなくなった。

 さんざん揺さぶって何とか引き抜くと、思い切り掘り返す事は諦め、浅く、確実に土をどかしていく事にした。

 軽く、浅く掘っていくのだが、それでも腕が震えて仕方がない。やっと埋め終わった頃には三時間が経過していた。ペットボトルの水を貪り呑む。時は一月の半ば、外に置くだけできんきんに冷えた水がひたすらに美味い。


「思いっきり振りあげて、一歩踏み込んで先で力一杯叩け」


 一旦社務所に引き上げて、書類仕事をこなしてきた父が、一度見本を見せるからと振って見せた。


「素振りよりは楽そうだね」


 大きな間違いだった。

 素振りであれば、そこまでの勢いは付けない。止められなければ自分の爪先を打つかもしれないからだ。自然と振れるだけの勢いに加減してしまう。

 ところがタイヤ目がけて、となると訳が違った。

 言われた通り全力で振り下ろしたは良いが、目測が狂っていたのか踏み込みが足らず、僕は盛大にタイヤの前の地面をへこませた。鈍い音と共に微かに埃が舞った。鋼管に纏わりついていたものだろう。幾ら土とは言えど、タイヤよりは随分と硬い。ついつい鋼管を取り落とす。痺れ切った手はしばらくまともに指が動かない程であった。

 父はそんな僕を見て、腹を抱えて大笑いをしていた。


「そんなに笑う事ないじゃないか」


 憮然とした顔の僕に鋼管を拾って渡すと、父は流石に悪い事をしたと頭を下げた。


「いやスマンスマン。あんまりにも景気良く行ったから、俺ァ一瞬足の甲でも砕くかと血の気が引いたよ。安心した反動もあってな」


 そう言って頭を掻くと、一度は僕に渡した鋼管を手に、父はタイヤの前に立って見せた。


「まま、お手本が無いってのも無体な話だな。やってみせるから良く見ておけよ」

「はい、教会長殿」


 皮肉交じりの声を返すと、未だ機嫌の直らぬ僕を尻目に父は長く息を吐く。

 一瞬の間があいて、父が一息に鋼管を振りあげた。

 管の中を抜けた風が、ヒョオ、と、まるで話に聞く鵺の声の様な、この世の物ならぬ声の様に境内に響き渡る。


「ぬんッ!」


 尻に先が付く程に振りかぶられた鋼管が、瞬き一つの間にタイヤへと振り下ろされる。鋼管に引きずられる様に、だが確かに体はきちんと立ったままであった。

 ずしんと腹に響く音がした。地に沁み入る様な低い音だった、はたして鋼管の先は跳ね上がったりしなかった。

 そのままぬるりと父は後ろに一歩下がる。

 ……後に解った事だが、この動きは相当に曲者だった。とにかく膝を伸ばさない、常に一定の負荷を下半身に掛けたまま、頭を上下させない様に動けと言う。


「ま、頑張んな」



  ※※※



 大蛇退治の型はどちらかと言えば跳ねる様に舞台を移動するのだが、足腰を鍛えるのなら、重心を落としたままするする動ける方が良いと父は言った。

 これがキツイ。異様にキツイのだ。

 始める前は、そのくらい一時間でも二時間でもと思っていたのだが、姿勢を低くするのではなく、重心を低くするとなると、両足に掛る負担が想像の遥か上を飛び越えて行った。

 驚いた事に五分と保たない。運動部ではなかったが、実務経験からそれなりに体力の自信はあった。始めてほんの数分で音を立ててその自信はへし折れてしまった。

 ……まあとにかく、振れる様にならねば。


「副長、積み込み終わったか?」

「はい教会長」

「よし……ああ、運転は良いよ。俺がする」

「え、いいんですか?」

「その腕で事故起こされちゃ困るしな」

「……ゴシンパイアリガトウゴザイマス」


 仕事用のバンで地鎮祭へと向かう。

 普段は自分が運転する所であるのだが、先日ハンドルを切り損ね掛けたせいか、父は自分に運転をさせようとはしなかった。

 憎まれ口を叩くものの、その内実は心配から出ている事を知っているだけに反抗もし辛い。


「なあ副長」

「なんですか」

「今日は手順とちんなよ」

「……気をつけます」



  ※※※



 一年かけて体を作る。それが当面の目標になった。

 外回りの仕事もこなしながらだ。鉛を背負っている様な気分だった、筋肉痛がとにかくひどい。掌の感覚が覚束なくなって、まともに箸が持てるの貸すら怪しく感じられる。頭の中で常に“なんだってこんなことを”とか“バカなんじゃないのか”とか、否定的な言葉がぐるぐると回っていた。

 正直、何度投げ出そうとしたか解らない。これだったらごろごろの玉石が敷き詰められた上を木靴で歩き、祝詞を上げる方が何倍も容易い。

 もうやめよう。もういやだ。明日は雨だろう。きっと今日も雨だ。天気の悪い日くらいは。今日もきっと寒いし。

 朝、目が覚めるとまず言い訳を考える様になっていた。

 布団から出たくない。全身を苛む筋肉痛は泣きそうな程だ。事実涙が出ている。こんなにつらいならやらなきゃいい。

 その度に歯を食いしばって置き上がった。嫌で嫌で仕方がないのに、それよりももっとかつて見た輝きの方が強かった。自分自身の元風景。大本の、最初の輝きを僕は求めているのだ。

 あの瞬間出会った。そうだ。思い出すまでもない、凄いと思ったのだ。

 抜いた瞬間に、鞘から光が零れる様に。

 思い出すだけで体に火が入った。

 動かすだけで痛い体に思い切り力を入れる。これ以上は壊れる、否、既に壊れている。そんな痛みが駆け巡る。痛みという液体に漬けられている。それでも立たなければならない。

 何処からこんな力が湧いてくるのか不思議だった。痛む体に鞭を打って、冷たい水を頭から被る。その時には目もしっかりと開いていて、昨日よりもずっと強く鋼の管を握る事が出来るのだ。

 掌は皮がずれ、水ぶくれになり、それがつぶれてじくじくと痛む。最悪なのは剥けてしまった時だ。直に赤むけた所が触れる。神経を直接触られているのと変わらない。それでも布を巻いて鋼管に挑んだ。食いしばった歯は割れそうに痛み、その痛みで自分を誤魔化して庭に立つ。雪のちらつく日も、氷雨の降る日も、休まずに裏庭に立つ。

 ときおりべろりと大きく古い皮が向けた。ただ、その頃には既にまめは出来なくなっていた。



  ※※※



「おう副長、随分いかした指になったな」

「そうかな? そうだね、いつの間にか」


 よく女性の様な指とからかわれたそこも、いつの間にか男性らしい、否、相当にごつい手に変化していた。筋肉痛もいつの間にか抜けていて、はたと気がつけば鋼管もそれなりに振れる様になっていた。いつしかまめだらけだった掌も、ごつごつと硬い、分厚い掌に変わっていた。

 季節は春に移り変わっていた。

 衣替えの際に入らなくなった衣類を丸ごと新調したのは、財布にひどく大きな痛手を与えていた。量販店で揃えたとはいえ、普段着を大量にとなるとそれなりに予算が掛る。しかし、やらなければ普段から仕事着でいなければならない。

 体格が大いに変化してしまっていた。 

 素振りを始めてすぐ、体力のなさに驚かされた。なにしろすぐに息が上がる。筋肉に余裕があっても、心肺機能が追い付いていない。仕方がないので走り込みも追加した。まるで高校生に戻ったかのよう。夜も明けきらぬ川沿いをひた走った。

 その頃には、既にやめたい、とかやりたくない、なんて声も頭から綺麗に消え去っていた。



  ※※※



 五月になった。

 その日はこれまでと違い、ゴルフバッグから鋼管を取り出そうとした所を止められた。


「副長さん、そろそろ良さそうだね」


 そう言うと先生は「これで型の練習しな」と、拵えに入った太刀を貸してくれた。なんでも演武様に作った物らしい。腰に佩いて抜くと、真っ黒い酸化被膜に覆われた刀身が姿を現した。


「え、これ良いんですか?」

「気をつけてね、違反品だから」

「いや、え?」


 借りて良いんですかの意味だったのだが、帰って来たのは予想と違う答えである。

 色々と思うところはあったのだが、せっかくだから素直に借りる事にした。



  ※※※



 一通り体を解すと、体育館の端に移動する。

 型稽古は他の人の邪魔になる、それだけではなく、結構な距離を動くのだ。ある程度動ける空間を用意しないとまともに動けない。

 とは言う物の、それにしたってまずは素振りからの方が良いだろう。体を慣らしておかないと、ただの鋼管とは感覚がまるで違うだろう。バランス一つとっても雲泥の差がある。柄に置いた左手を握り締めれば、やはり鋼管に比べてとても握りやすい。際限なく力がこめられそうであった。

 何よりも大きく違ったのはその速度だ。今まで空気を叩いていた感覚だったのが、刀は空気を文字通り切り裂いていく。ただ、鋼管はその重さで体が引っ張られる事がままあった。それに比べれば、握りやすい柄巻きは、刃が走り過ぎてしまう事が無い。柄が握りやすい分、当然の様にコントロールも利く。これを見据えての太さだった訳か。

 抜いて、振る、切り上げる。

 最初の一太刀はどちらにしろ右手一本、だが、これまで家伝の太刀二本分の重さを振って来た腕だ。初めての時に鉄筋を振った比ではない。

 ひゅうと空気を裂いて、切っ先がきちんと天を向く。

 吊られる様に跳ね上がって斬り下ろす。

 足を踏み変えて切り下ろす。

 肩に担いでそこを支点に切り下ろす。

 手首を返して切り上げる。

 足を踏み変えて切り下ろす。

 突き込んで、押し切る。ここだけは何故かのこぎり引きだ。

 跳ねながら切り下ろす。

 振りかぶって切り下ろす。

 最後は大きく四肢を大の字に張って見栄を切る。

 そして、血振りの後に太刀を鞘へとゆっくりと納めるのだ。


 しかし不思議なものだ。普通、スサノオのオロチ退治となれば、最後に草薙の剣が出てくる物と相場は決まっているのに、どうして家の型にはそこまでが存在しないのだろうか?

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