刃切れ太刀
インターホンが鳴った。
男の眉根が憂いに寄せられた。一呼吸、わずかにためらいが見える。それからさらに一呼吸。決心したように唇を引き結び、組んでいた腕を解くと、男は客を迎え入れるべく立ちあがった。
仕事場からは弟子の話し声が聞こえていた。微かなそれをかき消す様に、板張りの廊下が重く軋んでいる。
迷いと惑い、男の顔は様々に彩られている。そこに明るい色は無かった。
私は扉の傍らに立ち、一部始終を見つめていた。
どれほど悔いの残る仕事であろうと、普段であればもう少し違った顔をしているものだ。上手く行かなかった点を認めるにしろ、隠すにしろ。なにしろ、手元だけで十四日、外の職人に頼む期間も考えれば二十日をこえる仕事の中身だ。手間が抜ける明るさで、少しならず顔が彩られるべきだろう。
曇っているのも、おかしなものだと小首を傾げた。
胸を張るべきだと思っていた。
男が打ち込む傍らで、最中をずっと見詰めていたのだ。彼の仕事に失敗は無い、細心の注意を払って仕上げられたそれは、ここ数年で一番の出来と言っても良いだろう。
心当たりはむしろ、その出来栄えにあった。
それは、施された技のことだ。理由には心当たりがある。途中、噛んで含める様に男が弟子に伝えていた言葉を思えば、さもありなん。
なるほど、確かに男の流派からすれば、今回の仕事は外道も外道なのかもしれない。しかし、それによって大いに救われた者もあるのだ。
それを由とさせないのは、男の誇りから這い出た罪悪感故なのだろう。
ぼんやりと考える私にも、客の気配が近付いてきたのが感じられた。
聞き慣れた足音だった。
彼が、彼を幼いころから知っている。懐かしいものと暖かいものが、存在しない胸に込み上げてくる。
やっと望みが叶うのだ。そう思って、浮ついた、浮足立った気配だ。
その事に、少しだけ胸が痛んだ。いや、あるいは大きく痛んだのかもしれない。なにしろ、胸の痛みというものを覚えるのも初めての経験で、自分以外の物がどう感じているのかは解らないのだ。もしかしたら、まるで何も感じていないのかもしれない。
そう思うと、それらが少しだけ羨ましく、同時に悲しいと思った。
これも初めて身に覚えた事だった。
「ご無沙汰してます」
「いえいえこちらこそ、長らくお待たせいたしまして」
客の声は期待に弾んでいた。
対照的に、家主の声は微かに影を帯びている。沈鬱と言っても良い。そのほの暗さは、微かにとは言え、誰が見ても感じ取れるだろう。
「どうぞ、お座りください」
「失礼します」
後ろめたさが見え隠れする声音に、家主は我がことながらつい苦く微笑んだ。
客も前回顔を合わせた時とは違う、男の様子に気が付いたのだろう。
微かに顔へ不安を乗せると、肩に緊張を覗かせながら机の前に小さく姿勢を正した。
「失礼します」脇から声がかかる。弟子が湯呑に茶を二つ、盆に載せて運んできた。「粗茶ですが」「どうぞおかまいなく」社交辞令がかわされて、弟子が退出していく。
それからしばしの間、無言で茶を啜る音だけが室内に淀んだ。
「――あの」
取り出そうとしない家主にしびれをきらしたように、固い声で青年が訊ねた。
「良く、なりましたか」
「ええ、それは間違いなく。……見違えましたよ」
覚悟を決めた様に立ち上がる。肩越しに青年へ言葉を掛けると、家主である職人は、我が身の前にある扉を開いた。重い音がして、金庫の扉が開かれる。他の物と並べられていた私にそっと手を添えると、心から大切な物を扱う様に、まるで良くできた型の様に私を取り出した。
※※※
――きし、と、音を立てる様に空間に緊張が満ちた。
端坐した男の手の内で、微かな衣擦れの音と共に正絹の紐が解かれた。細い、鮮やかな貝紫の袋から姿を現したのは、柾目の詰んだ白木の鞘だ。良い木を使っていた。
しゅる、しゅ、きゅ。と音がした。ほどかれた紐と開かれた袋の口が、拳一つ鯉口から下に、纏めて縛られる。
無駄のない、鮮やかな手つきだった。
若手の内は緊張で手汗をかく、その手で出来たばかりの鞘を握ってしまうと、掌がくっきりと白鞘に判を押したように染み付いてしまう。弟子に扱わせる際、気を使う点の一つであった。もっとも、男ほどの経験を積めば、如何に緊張感を漲らせても手汗をかくことはなくなる。
ゆるりと鯉口を握った左の拇指球に、柄を握る右親指が添えられる。同時に握りしめられた掌に押され、くん、と、音無き音で鯉口が切られた。
静止したのは半拍もなかっただろう。手はそのまま滞ることなく、装飾を排した休め鞘から私の上身を抜き放つ。鞘は押し、柄は引かれた。刀身の長さを感じさせない小さな動きだ。
姿を現す際に、かつてあった耳障りな鞘との擦過音は、鞘が新調されたこともあって微かにも残っていない。まるで水の器を傾けたがごとく、なまめかしい鋼が音もなく男の手の中に滑り出した。
持主である男――最初の担い手から幾人目である青年だろうか――が小さく、おお、と、声にならない感嘆を漏らした。
鞘を畳に寝かせると、一度全身の姿を確認する様に、職人の視線が柄頭から切っ先までを駆け上った。それから柄が左手に持ち替えられ、右手に真鍮の目釘抜きが握られた。玄翁を模したかねの道具と、角の鳩目が、かちり、と、柄の上で小さな音を立てた。かしめの緩んだ煤竹の目釘が柄から抜かれ、柄頭を握った左手首を、職人が右の拳で軽く打つ。それだけで朴の木で出来た柄から、二つまみ程の長さで私の忠が露呈する。
壊れ物でも扱うかのように、そっと右手の指三本でそこをつまむと、音も立てず、ゆるりと忠が柄から抜き出された。そこは黒紫に鈍く明かりを照り返す、柔らかな色合いの錆に覆われていた。忠尻を確りと左手で握ると、最後に、銅に薄い金の板を被せた鎺が抜き取られ、私そのものの姿が空間に描き出された。
じっくりと揉み込まれた拭い紙で、薄くひかれていた油が取り去られる。鎺元から鎺下に向けて三度、鎺元から切っ先に向けて一度、同じ動きが繰り返される。鉄の表面で虹色に明かりを照り返していた油が取り去られていく。
刀の表裏で分けているのだろう、都合二度、決められているかのように、拭い紙が私を優しくなぞる。
その上で打粉が、元から先へ太刀表に十度、裏に十度、棟に五度はたかれた。
打粉と言うのは下地の最後から仕上げにかけて使う内曇砥同士をすり合わせ、幾度もよなぎ、さらに濾して煮詰めた物を微塵に擂り潰したものだ。微細な粒子ゆえに、石の粉と言えども表面に傷を付けることなく、油を吸わせる事が出来る。
砥師は一度拭い紙を手首に叩き付けると、繊維に残っていた粉気を飛ばした。
それから、先程よりもなお丁寧に、さらに僅かに残っていた油も、丁寧に粉に絡めて取り去られた。
しっとりと磨かれた棟鎬が、細かく肌立ちつつも潤った、透き通った秋の夜空を思わせる地鉄が、それを支える大地が如き白い焼き刃が、その研ぎ上がりを誇る様に、最後の薄衣を脱ぎ去るように現れた。
一度、とは言えじっくりと、かといって幾秒もかけることなく、拭き残しが無いかを男は確認すると、刀から背けるように、顔だけを客に向けて口を開いた。
鑑賞の支度は調った。刀箪笥より持ち出されて、僅かに一分程の間であった。
「どうぞ、こちらでご覧下さい」
「あ、はい、うわあぁ」
棟を相手に向け、切っ先を天に向けた状態で渡される私を、緊張に震える手で青年が受け取る。ずしりと、重さが手から手へと受け渡された。
「ぐっと腕を伸ばして。そうです、表と裏からご鑑賞ください」
今の主が職人――刀剣研師――の言うがままに、私の姿を、突き出した腕の先に眺める。
忠を握り、水平に持ち上げられた腕に、切っ先を天に向けて存在する堂々とした鳥居反りの立ち姿。確りと研ぎ込まれた棟鎬が、明かりを鎺元から切っ先へと、微かな揺らぎもなく、まるで稲光が走る様に照り返していた。
一目で太刀、しかも、南北朝時代の大磨り上げと見える姿だった。
「いかがですか」
職人の言葉に、青年は言葉を返そうと努力をしていた。しかし、人間と言う物は予想の範疇を超えてしまうと、語彙を喪失するらしい。出てくる言葉は唸り声にも似た感嘆符のみであり、ただ瞬きだけが青年の感動を伝えていた。
「……すごい、いや、これ凄いですよ」
飽きることなく、姿だけを数分も堪能しただろうか。
職人が、僅かに焦れ始めた頃に、きらきらとした、宝物を目の前にした少年の目で、どこかに行ってしまった語彙を手繰り寄せて彼は言った。
全身から興奮が隠せない、いや、そもそも隠す気などないのだろう。
その表情には、瞳には見覚えがあった。なにしろこの二十数年、彼が私を知ってからこの方、いずれ自らが担う事になる私を見る度に見せてきた顔だった。
焦がれてきた少年の顔だった。
「これ、すごいですね、がさがさだったのに」
「荒れていた地鉄も随分と落ち着きました」
「本当に、すごい、傷だらけだったのに」
渡された袱紗を左手に、そっと刀身に添えると、青年は私の地を真上から垂直に覗き込んだ、鎬筋から匂い口に掛けての平地を見る姿勢だ。吸い込まれる様な、焦点を何処に合わせて良いのか解らない地鉄に、目をしばたたかせながら彼は言った。
「まるで湧水の砂地みたいな、もくもくとしていて、裏側まで透けて見えそうです」
「そう言っていただけると嬉しいですね」
「余談ですが、オートフォーカスのカメラには写らないんですよ」職人はそう言って笑った。なんでも、機械ではこの鉄の表面を、空間として認識してしまうらしい。手動で合わせなければ、被写体にピントが合わないそうだ。
うっとりとしながら、彼は私をまるで長銃を構える様に、目の高さまで水平に掲げる。裸電球や、蝋燭などの灯をこうして刀身に映す事で、刃文の妙味を覗く事が出来るのだ。
瞬間、研師が沈痛な面持ちで目を伏せたのが解った。
鎺元からゆっくりと、相模の国で作られた私の、乱れ刃と呼ばれるよく錵付いた匂い口を彼が追っていく。
ざわりと音を立てる様に、六月の温い空気の中だと言うに、粟立った肌が波のごとく青年の全身を這いまわる。
じわりと彼の目に涙が浮かんでいた。
だが、素人の悲しさか。
そこに研師が施した、ある外道には気が付かなかったらしい。
「いや、先生、ありがとうございます」
額と刀身を寄せる様に一礼すると、彼は研師に一度私を渡し、改めて頭を下げた。
丁寧に礼を述べると青年ははにかんだ。
穏やかな、どこか寂しげな笑顔でその礼を受け止めると、最後の仕事とばかりに男は私にもう一度打ち粉をはたき、目の細かく、柔らかい紙でそれを拭い去る。
青年がしたのと同じ、だが遥かに洗練された仕草で研ぎ師が私を覗く。
彼の目は私の顔を、それから、刃中に微かに見えるそれを確かに捉えていた。
※※※
「ありがとうございました!」
朗らかな礼を再び述べて、大事に私を抱えた青年が研師の元を辞去する。
これで神事に臨める。
青年の脳裏には、憧れ続けた光景が広がっているのだろう。
狩衣を纏い、黄金拵えの私を帯び、勇壮に舞った後に注連縄を断つ。そうして一年の穢れを祓い、新たな注連縄を張る。
それが、今年から彼に与えられた役割だった。
そして、私には果たすことが出来なくなる役割でもあった。
「これで、神事も滞りなく――」
青年の言葉に被せて、研師は掌を突き出した。
は、と、息を飲む思いをしたのは誰だろうか。
――そうだ。
彼は言わずとも良い、例えそれで御仕舞になったとしても、それが私の寿命であっただけの事。
だが彼には。
室町より続く刀剣研師の末葉たる彼には、それが許容できなかったのだろう。
「……神事に用いてはいけません」
「それは」
なぜですか。そう、青年の口からは続けられなかった。静かだが、強い悲しみを宿した瞳が彼を射抜いていた。
一度強く唇を噛み締めると、歯形の残る唇を震わせて研師は言った。
「その刀には、刃切れがあります」
砥師は強く目を瞑った。
青年も、刃切れという言葉の意味は解らずとも、言葉が持つ不吉さに肌を粟立たせた。
「見るだけならば名刀です、振るのにも問題は無いでしょう。――しかし神事に用いるなら注連縄を切るのでしょう?」
「……はい」
「おそらく、おそらくあと数度でその刀は折れるでしょう。それが次なのか、幾度か保つか。そこまでは解りません」
ですが――と。一度長く間を置いて研師は言い切った。
「致命傷です、後は広がるしかない傷だ。事故があってからでは遅い。神事には、違う刀を用いて下さい」
「そんな――」
青年の顔から血の気が引いていく。膝が震えを帯びていた。
私は知っていた。
金子の用意はこの研ぎで精一杯。
とてもではないが、新たに刀を用意できるだけの金銭はない。
青年は、憧れと共に、神事の象徴である私を失う事になるかもしれない。
私を失えば、神事の存続も怪しくなるだろう。
その責任が全て、一時に青年の肩にのしかかって来たのだ。
ぎゅう、と、私を納めた白鞘と、それを握り締めた掌が音を立てた。
――改めて自己紹介しよう。
とはいえ、名は長き時の中に忘れ去った。
貌を呼ぶべき切っ先は、長き騒乱の中で摩耗し残らなかった。
私は致命的な亀裂をその身に宿した、打ち捨てられる前の一口の刀だ。