第三話『ビトー』(五)
牢屋を出ると左右に土壁の廊下が続いている。
「ふーむ、どっちじゃ?」
もちろん、牢屋に入れられた事など初めてじゃ。明かりは全くないが、まるで昼間のように遠くまで見通せた。あの兜のおかげかも知らん。
儂は左右を睨むように見つめた。流石にはっきりとは見えなかったが、右側にだけぼんやりと扉のようなものがあった。
「……あれかの」
夢を見る前は、連続した吐き気に体力を消耗していたが、今は元気百倍じゃ。儂は両足がしっかりと地を掴んでいる事を確認し、力を込めて走り出した。
「うおっ」
自分でも吃驚とするくらいの早さが出る。自分で言うのもなんじゃが、初老の男が走る早さではない。ミリャトと会った日から感じていた調子の良さが、身体全体を駆けめぐるようじゃった。
扉まではかなりの距離があったはずだが、ものの数瞬きで到着した。
そのまま扉に体当たりをかます。
「どりゃっ!」
ここは警察隊の監獄棟の筈だ。牢に繋がるこの部屋には、看守が詰めているだろう。
儂は部屋に転がり込むと、すぐに身構えた。闘いなどした事は無いが、身体能力が上がっているような今なら、どうにかなるという確信があった。
じゃが、儂は拍子抜けして構えを解く。
「な……、なんじゃ?」
部屋の中には複数の死体が転がっている。身体に大穴を開け、血反吐をまき散らしている姿は、一瞥して死んでいる事が分かった。
全部で五人。じゃが人数の割には、戦闘があった様子は見えない。
儂に先行して、ここから出ていった人物を思い浮かべる。
「ミリャトか……?」
傭兵組合に所属していたというが、ノゴリオ副代表もどのような人物か知らない様子だった。
そもそも、大の大人、それも訓練を積んでいる警察隊を、こんな風に殺せるものなのか。
「……まあ、今は工房に急がねば」
儂がここから逃げれば、これも儂のせいになってしまうだろう。じゃが元々相当な所行を受けた身。今更、御上の庇護を仰ごうとも思わん。
監獄棟から出ると、外は先も全く見通せない豪雨じゃった。叩きつけるように浴びせられる雨粒は、一瞬で儂の身体を濡らしていく。
じゃが、雨宿りをしている時間はないかも知れん。ミリャトは、街の様子がおかしいと言った。深夜であり、人々の喧噪が聞こえる時間ではないが、雨の音がやけに響く。
水分を含んで重くなった上着を脱ぎ捨て、上半身を晒す。何気なく戻ってきた腕をみるが、依然よりも若々しさが戻ったような、力が溢れてくるのを感じる。
身軽になった身体を確認し、儂は工房の方向にひたすら走った。
街中を抜ける間も、厭な空気がそこかしこから漂って来ていた。まるで魔物が潜んでいるような、悪しき気配がする。
「これが障気じゃろうか……」
依然、客の傭兵に聞いたことがある。時折出される魔物討伐の依頼に参加した男だ。
魔物が現れる際、辺りに漂う重い空気を感じる事がある、と。体中にまとわりつくようなねっとりとした感覚らしい。それを感じたら、傭兵達は身構える。
王都に魔物が現れるはずはない。そう自分に言い聞かせて、儂は工房への足を進めた。
大通りに出ると、路は洪水のように雨水が氾濫していた。この王国を造った賢王が整備したという下水道も、この雨には耐えきれなかったようじゃ。
儂は足を取られながら賢明に走った。
途中、ネルメ殿下流刑のお触れ書がある広場を横切る。雨に流されたのか、お触れはなくなっていた。
今朝、ドガーと歩いた横道に入り、儂の工房に急ぐ。
それほど大通りから離れていないはずなのに、いつもより時間が掛かっているような気がした。
雨は更に強くなり、儂は方向感覚が狂いそうになるのを感じる。方向どころか、気を抜くと天地まで分からなくなりそうだった。
「はあっ、はあっ、はあっ」
やっと息が上がってきた。生まれてこの方、こんなにも全力疾走を続けた事は無かったが、儂はこんなに体力があったのだろうか。不思議に思いがらも、今は一瞬でも早く工房に着きたい。
妙な胸騒ぎは収まっていない。街の様子がおかしい事も拍車を掛け、儂の工房になにか悪い事が降り掛かっている、と想像してしまう。
「思い過ごしでありゃ良いのじゃが……」
警察隊から逃げてきて、儂がこの先どのような処分を受けるか分からん。じゃが、どこか遠い土地で、工房をやり直すのも良いかも知れん。
夢の兜から受けた着想が、儂の技術を一段上に押し上げてくれるじゃろう。弟子も何人かは付いて来てくれると思う。ドガーなんかは筋が良いし、儂も目を掛けてきた。言えば来てくれるじゃろう。
工房がやっと見えてきた。見慣れたはずの我が家じゃが、なにか異界に入り込んでしまったように感じる。
「ドガー!!!」
続けて何人かの弟子の名を叫ぶ。その間にも、工房は近づいている。
工房から人が出てくる様子はない。ミリャトが現れた朝のような事もあるが、儂が呼べば彼奴等はすぐに来るはずじゃった。それが師匠と弟子というもんじゃ。しかも今は儂が捕まって彼奴等も右往左往としているはず。ぐうすかと寝ている事はあるまい。
じゃが、儂の期待に反して、工房は静まりかえっている。まるでだれも居ないようじゃった。
「おい!!!」
儂は濡れたままで、工房の扉を乱暴に押し開けた。そのまま中に転がり込む。
中は暗かった。この時間じゃから当たり前かも知れん。じゃが、牢を出た時と同じく、昼間のように様子が見て取れた。
工房の中には見慣れた工具が並んでいる。熱した鉄を掴む火ばさみが作業台の上に置かれ、壁には大小様々な鎚が立て掛けられている。炉の火は落とされている。そりゃこんな時に剣を打つ奴も居まい。
「ドガー!!!」
儂は改めて弟子の名前を呼んだ。じゃが、やはり反応はなかった。
「どこにおる!」
ふと、工房から続く材料貯蔵庫への扉を見ると、薄く開いている。儂は扉に近づき、その周囲だけものが散乱している事に気が付いた。
「何があった……?」
扉に手を掛ける。耳を塞ぎたくなるような雨音は、今までもはっきりと聞こえている。
ぬるり、とした感触が手を伝わった。扉の一部が赤黒く変色している。
それに気が付くと同時に儂の鼻に届く、血生臭さ。手入れを怠った工具に浮かぶ錆のような、惨憺たるにおい。
儂は一瞬だけ躊躇し、扉を吹き飛ばすように押し開けた。
貯蔵庫の中は、血の臭いが充満していた。儂の心臓が不安に高鳴り、最悪の想定が頭を過ぎる。
「……ドガー?」
あまり期待をせず、弟子の名前を呼ぶ。返事は無い、だが。
「ぐううぅ……」
奥まった角から、うめき声が聞こえてきた。ここからは見えない角度だ。だが、ドガー、ではない。明らかに人の声ではなかった。
「な、なんじゃ……?」
暗闇から、何かがのそりと顔を出してきた。
それは人の顔では無かった。犬のように尖った形状をしており、半開きになっている事で、その口の大きさが想像出来た。皮膚は血に濡れているのか赤黒い色をして、てらてらと濡れた光を放っている。
頭の位置からは、四つん這いの姿勢なのだろうか。ゆっくりと太い両腕が見えた。両手を上げるように頭上に掲げ、ぬちゃりとした湿った音を立てて地に着ける。そのまま身体を引き寄せるように、滑らせた。
身体全体が視界に入る。両腕のたくましさから、その下半身や足も相当大きいのだろうと想定したが、現れた身体は、腰から下が無かった。引き裂かれたぼろ雑巾のように、ずたずたになっている。顔と同じく、身体全体が血を浴びたように湿った輝きを放っていた。
「なんじゃ、こいつは」
儂はとっさに貯蔵庫にあった小型の鎚を手に取る。鉄の具合を見る為に叩くものじゃ。
「ぐうぅ……」
そいつは儂をじっと見据え、口から怨念めいた呻きを上げた。
併せて黒い唾液が滴る。粘つく糸を引いていた。
言葉は通じそうにない。
「こいつ、魔物なのか……?」
武器を作る上で必要な知識の為、魔物の事は研究してきた。王都から出た事が無い為、これまで本物の魔物に遭遇した事はなかったが。
魔物は儂の方に向き直ると、その口を大きく開けた。口内では無数の何かが蠢いている。
その穴から、何かが来る。
「むうっ!」
咄嗟に横に飛び退いた。儂がいたところには、線虫を束ねたような奇っ怪な塊が着弾した。細い糸のような蟲が、うごうごと何かを探しているように四方に伸びる。
暫くすると、びくびく痙攣し蟲達が萎縮した。そして、一斉に針のように尖った。
儂は、蟲達が身体の中に入って来た時の事を考えて、身震いした。身体の中からあんな風に飛び出されたら、良ければ死、もし死ななければ想像を絶する苦痛に、のたうち回る事になるだろう。
針のようになった線虫は、再び柔軟性を取り戻し、這うように魔物のところに戻っていく。
魔物までたどり着くと、地面に着いた両腕に突き刺さるように頭を入れ、皮膚の内側を潜るように上へと体内を泳いでいく。遠目にも無数の蟲が皮膚の下を蠢いているのが分かる。
蟲達が入っていった穴からは、膿のような赤黒い液体が滴っている。
「ぐじゅる、ぐぎゅる……」
苦痛を我慢してるのか、快感に身悶えしているのか。魔物が頭を左右にゆっくりと振りつつ、うめき声を上げている。
「どうなっとるんじゃ……」
こいつは何じゃ。
想像したくないが、こいつの存在とドガー達の返事が無いことが、厭でも結びついてしまう。
儂は改めて鎚を構え、魔物に向かい会う勇気を自分の中に振るい起こした。
改めて魔物の外見を窺う。目のようなものは顔についているものの、水晶玉のようになっており、何かを写している様子はない。と言うのも、次の蟲玉を放って来ないのだ。儂が移動した先に検討が付いていないようだ。
嘴のように飛び出た口を、嗅ぎまわすように左右に振っている。
こちらには近づいて来ない。先ほどの動きから察するに、あまり素早くはないようだった。身体は人の上半身に酷似している。じゃが、頭部や腕もそうじゃが、赤黒いぬらぬらとした粘着質の皮膚をしている事が、人外の存在である事を強調していた。時折、びくり、と痙攣するように皮膚が蠢く。先ほどの線虫が這い回っているのかも知れない。
「ぐううぅぅぅ……」
再び両手を上げ、身体を引きずるように動き出した。べちゃり、と湿った音が貯蔵庫に響く。
それほど大きくはない貯蔵庫の中じゃ。そのうち追いつめられてしまうかも知れん。
儂は一歩、また一歩と、魔物の方ににじり寄った。目は全く見えていないのか、飛び込めば鎚が打ち込める距離まで近づいた。
「ふうぅ……」
儂は魔物に気が付かれないよう、小さく息を吐いた。鎚を握りしめる手に力を込める。牢の檻をひしゃげさせた時と同じ感覚で、腕に力が集中するのが分かる。
「…………、はあっ!」
気合いを入れ、魔物の前に飛び込むと、鎚を思い切り振り下ろした。
小さいながらも金属を打つためのもの。風切音を上げて、鎚は魔物の脳天に直撃した。
「いいいいぎゃあああああ!!!」
魔物は頭部をへこましながら、耳をつんざくような悲鳴を上げた。鎚から手に、柔らかいものを潰す感触が伝わる。
「どうじゃ!」
儂は二撃目を加えようと、鎚を引き抜こうとする。じゃが、鎚の先端は包まれるように魔物の頭部に入り込み、動かない。
「くそが!」
魔物は頭で鎚をくわえたまま、口を大きく開く。その内部では、先ほどと同じく無数の線虫が蠢いていた。
魔物の喉が伸縮し、蟲玉が吐き出された。咄嗟に鎚を放して避けようとしたが、距離が近すぎる。腕を盾にするのが精一杯じゃった。
「ぐじゅうううっ!」
魔物が愉悦に満ちた叫びを上げる。
蟲玉は儂の腕に当たると、まとわりつくように、広がり始めた。皮膚の上をもぞもぞと這いずり回る感触が不気味じゃ。
儂は蟲を振り解こうと、腕を回したが、複雑に絡まっている為か、離れない。すぐに突き刺すような痛みが腕中から襲ってきた。線虫どもが内部に入り込もうとしている。
「ぎゃあああ!」
このまま内側から先ほどのように突き出されては、また腕が使い物にならなくなってしまう。
儂は必死に蟲をむしり取ろうと、腕を掴んだ。だが、がっちりと食い込んでおり、引き剥がせない。
じゃが突然、蟲どもが内部に入り込むのを止めた。正確には、いまだ潜り込もうと蠢いているが、それ以上に進行してこない。
やがて、腕から離れ、地面をはいずりながら、魔物のところに戻っていった。
「なんじゃ……?」
何かで運良く助かっただけかも知れん。じゃが、どうにか腕が使えなくなる事は回避出来たようじゃ。
じゃが、もう鎚はない。
「どうしたもんかの……」
ドガー達はまだ無事かも知れない。一刻も早く探したいが、この魔物を放っておいて探す事は出来ん。
どうも打撃は効かないようじゃ。儂は貯蔵庫を見渡し、この魔物を殺せる何かを探した。
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