翌日、お互いの正体を知りました。
翌日。空は澄み渡り、雲一つない青空だった。
毎年諸聖人の日は、青空だ。ここ数十年、いや記録されているはるか昔から、雨が降ったことはない。
諸聖人の日を祝う祝祭が行われ、式典には国王陛下とその第一王女が姿を現すことになっている。領主であるエルダー・ハインリヒ・ディッセル・ネーンドルフは国内の序列に従った正装をしていた。
ネーンドルフ辺境伯として、また王国騎士団の聖騎士の一人として、ネーンドルフ領騎士団の団長として、騎士服に今まで与えられた勲章をつけ、ネーンドルフ領主の証の貂の毛皮を纏ったマントを羽織っていた。
そのネーンドルフ辺境伯よりも上座に、国王陛下と王女が位置し、そのエスコートをするのが決まりだった。
祝祭が始まると、まずネーンドルフ辺境伯を筆頭に領内の主要人物がすべて広場に集まり、国王陛下と王女殿下を出迎えた。
国王陛下が姿を現すと、広場は割れんばかりの歓声が起こる。ネーンドルフ辺境伯は陛下に礼を取り、王女をエスコートするために、通路の脇にそっと跪いた。
再び王族を迎えるためのラッパが鳴り響き、王女の入場を知らせる声が広場に響いた。
それに合わせて、通路の奥から王女が姿を現した。
膝を折り、顔を伏せ、地面に左の拳をついて控えていたエルダーは、その声にしたがって顔を上げた。
「お手をどうぞ、ディアテナ王女殿下」
そう言って、膝を地面に付けたまま王女の左手に自分の右手を添わすように手を差し出して、まっすぐに王女を見つめた。
その瞬間、エルダーは動きを止めた。
そして、おずおずと通路から姿を現したディアテナ王女もまた、ひざまづく領主の顔を見て、その足を止めた。
――だけではなく、見る見るうちに目を見開き、口を大きく開けていた。
二人はその瞬間固まり、お互いをたっぷり数十秒は見つめ合った。
もちろん、王女はこぼれんばかりの目を開けて、あんぐりという言葉がこれ以上ないほどふさわしいほどに大きな口を開けて。
領主エルダーも口こそ開いていなかったが、ディアテナ王女の小さな顔を真顔でたっぷりと見つめたまま、息をするのも忘れているんじゃないかと思うほど固まっていた。
「え、エルダー?」
「リーナか……?」
二人は全く同じタイミングで、口を開いた。
お互いの声が耳に聞こえてきた瞬間、二人同時に呪縛が解けたかのように、周りの歓声が響き始めた。
もちろん周囲には、二人の様子はばれてはいない。しかし、二人は逡巡してからまたお互いの顔を見て固まるということを、数回繰り返した。
さすがに疑問に思った従者たちが、慌てて領主に王女を促すように目で合図する。それが視界に入ったエルダーは夢でも冷めたかのように、宙を泳いでいた視線を戻し、我に返っていた。
ぎくしゃくとしながらも、何とか王女をエスコートし、国王の左隣に座らせる。
それにしても――と、エルダーは王女の姿を盗み見した。
昨日のディアンドルとは全く違う、白をベースにし、アプリコットのレースや飾りがついたドレスを纏うリーナの姿は、やはり昨日とはまるで違った。
昨日のお下げとは違う、金色の長い髪をきちんと結い上げ、化粧もし、豪華なドレスを身に纏っているリーナは、15才ほどの子どものようなあどけなさはなく、王女の威厳と年相応のりりしさを兼ね備えていた。
そう、ディアテナ王女は御年18歳の立派な成人女性だった。
まさか……。
エルダーは半信半疑だった。
王女がリーナだったなんて。
いや、だって王女の名前はディアテナだ。リーナなんて名前ではない。
それからふと王女のフルネームを思い出した。
ディアテナ・リアネーゼ・フォン・ヴァーデル第一王女――
俺のバカ。
今ここに誰もいなかったら、頭を抱えてのた打ち回りたいぐらいの衝撃だった。
リアネーゼ――、母姓の愛称は思いっきりリーナになるではないか。
それからの二人は、式典なんて上の空だった。
リーナはたびたび傍から見れば小さなドジと言えるような失敗を犯し、父王に窘められ、エルダーもらしくない様子に側近に呆れ顔を浮かべられる始末だった。
どうにかこうにか式典を終えると、それぞれ控えの間に入っていった。
もちろん、国王一行と領主では控えの部屋は違う。
部屋に入って、お互い同じタイミングで深呼吸をしていた。
※ ※ ※
二人は隣り合った部屋に入り、お互い無意識のうちに向かい合った壁に背を靠れさせた。
いやいやいや――嘘だろう?
まさか、ウソでしょう?
王女殿下がリーナだったなんて。
……ネーンドルフ辺境伯が、エルダーだったなんて……。
お互いがお互いにそう思いあい、ため息を吐いて、壁に向き直る。
いや待て、確かに午後は隣国の王太子がこの領内で祀る聖ルドモントの礼拝にやってくる。そして、毎年友好の証として国王陛下もこの日はこのネーンドルフ領の記念式典に出る。
エルダーはそれを思い出し、あっと声を上げそうになった。
かつてネーンドルフ領は国境沿いの交通の要所を抑える交易の要として栄えた貿易の街であり、その領主のネーンドルフ公は王をしのぐ権力を持っていた。
歴代の王は王の威厳だけでネーンドルフ公に服従を迫り、それを是としないネーンドルフではいつ謀反の旗を上げるか戦々恐々としていた。それを平定したのは先代の国王陛下と先代のネーンドルフ公だった。
二人は領主の息子として、王太子として、騎士団で寝食を共にするうちに友情を培ったのだ。
その友情はそれぞれが王となり、領主となっても続いた。従って、ネーンドルフが王国領に組み込まれたのは近年の話であり、国王はその関係を崩さないためにも、諸聖人の日はこのネーンドルフを訪れ、友好の証として聖ルドモントの礼拝に参加するのである。
先代の領主が隠居しても、国王陛下が亡くなっても、毎年の諸聖人の日の祝祭だけは恒例行事となっていたのだ。
そのネーンドルフ領に祀られている聖ルドモントはかつて聖戦の御旗となった聖人であり、武の聖人と呼ばれ、戦の守りとして名高い。
大国である隣国は常に領土の拡大とその周辺地域からの侵攻に備えるため、後顧の憂いであるこの国との同盟を選んだ。
その調印式はこの武の英雄である聖ルドモントを祀るネーンドルフで行われることになったのだった。
エルダーはそこまで考えて、今年に限ってなぜディアテナ王女がネーンドルフに現れたのか悟った。
ディアテナ王女はこれまで公の場に姿を現したことはなかった。
亡くなった王妃は王と結婚してから精神を病み、ディアテナを産んだころを境に、心の均衡をとうとう崩してしまった。
一人娘のディアテナを奪われると狂ったように泣き叫び、それを見ている臣下たちは悲痛にくれた。
ディアテナ王女を王妃の側に置くことは賛否があったが、結局王妃の懇願を受け入れる形で、王はディアテナを王妃の手元に残した。
それ以来、王女ディアテナは禁忌の王妃の産んだ王女として、離宮に隔離され、その存在を亡き者として世を過ごしていた。
貴族ではあるが、辺境伯として国境の警備についており聖騎士として国内の最高騎士の称号を手にしている武官としての自分は、王妃と王女のことは門外漢だった。
知らないはずだよな。
エルダーは空を仰ぎ見た。
昨年王妃が亡くなり、国葬が行われた。
そして、その時に初めて姿を現した王女殿下。彼女はすぐに王太子の元へ嫁ぐことになる。
「旦那様、午後の調印式の最終確認をお願いいたします」
書類を持ったカロンはそれをめくりながら、壁に向かって悶えているエルダーに淡々と告げる。
「調印式の後に、何か予定があったか?」
「いいえ? 調印式の後は、陛下と王太子の宣言をいただき、その後は歓迎晩さん会ですけど?」
調印が終わると、同盟が済んだ証に両国の代表から一言ずつ挨拶がある。
そして、隣国の王子を迎える晩餐会が行われることになっていた。
リーナは言った。
恋をしてみたかったと。
好きな人ぐらい、自分で選びたかった。
そうしたら、頑張れる気がすると……。
それに対し、自分はなんて言った?
情けない上っ面の言葉しか出てこなかった。
親に見放され、離宮に放置されていた少女に対し、明るくて素直なお嬢さんだと?
そうせざるを得ない理由を、自分は考えもしなかった。
あの子は誰にも迷惑かけずに生きることしか、その術がなかったんじゃないか?
エルダーはリーナの寂しそうな横顔を思い出して、くそっ……と呟いた。