楽しい時間はすぐ終わる。
自分の話を一通り終えると、それまでのリーナと様子が違うことに気が付いた。
エルダーはどうしたのだろうかと、リーナの顔を覗き込む。
「いやな話を、聞かせてしまったかな。
リーナ、大丈夫だよ。君は可愛らしい。素直で明るいお嬢さんだ。
きっと君の結婚相手も、君のことを好きになるよ。大丈夫だ」
リーナの婚約者がどんな人かも知らないのに、上っ面を撫でるようにエルダーは辺り障りのないことを言う。
もしもリーナの婚約者が自分のような歳の離れたオヤジだったら。
わがままで高飛車ないかにも貴族然とした男だったら。
そんなことはどこにでもあることだ。
だからこそ、リーナにはリーナに相応しい婚約者だといいと、エルダーは心の底から思った。
リーナには幸せになってほしい。
エルダーは空を仰ぎ見る。
こんなことなら――
「もっと、社交界に顔を出していればよかったよ」
ぽつりと呟いていた。隣の少女は、まっすぐに自分の方を見て問い返す。
「どうして?」
「そうだね、もっと社交界に顔を出していれば、君をもっと早く見つけることができた。もしも君に婚約者が現れる前に、君と出会っていたら、私と君は恋に落ちていたかもしれないだろう? こんな一夜限りの恋人ではなくてね」
「そうかしら――?」
「そうだよ。きっとそうだ。
私はね、上司とはあまりうまくいっていないんだ。どうにも苦手でね、向こうもそうだと思うんだ。お互い苦手だから、ぎくしゃくしてしまってね。夜会の場で上司に合うのも嫌なものだから、避けていたんだよ。だから君も、私の顔を知らないだろう?」
もしももっと早く夜会で知り合って、一度でもダンスの相手をしていたら、きっとリーナのことを覚えていただろう。
そうしたら、リーナに縁談を申し込んでいたのは、自分の方だったのかもしれない。そうでなくても、もしも夜会によく出ていたら、明日婚約を発表する家を把握することが出来ていただろう。そうすれば、彼女がどこの誰だか、すぐわかったのに。
リーナともっと早く出会っていたら、私もこんなに長く独身ではなかったのかもしれないな。
と、ぼんやりと考えていた。
「ふふ、私たち、お互い顔も知らない同士だからよかったのよ、きっと。あなたが私のことを知ったら、きっとあなたは私のことなんて好きにはならないもの。きっと私たち、澄ましたお嬢さんと、遊び人の独身貴族ってお互いのこと思って近寄りもしなかったとおもうの。あなたがどんな人か、知る由もないまま終わっていたわ」
「だから、今日会えたのはすごく素敵な偶然なのよ。たった一夜の恋だとしても――ね」
そう言って笑うリーナの瞳にキャンドルの明かりが反射していて、彼女はとても美しかった。
魔物に捕らわれたか――。
そう思わずにはいられなかった。
サウォン祭に現れる、人にいたずらするという魔物たち。
キャンディをあげれば大人しくなるから、街の者はみなこの日は合言葉のように「トリック OR トリート!」と言って、キャンディをやり取りする。
リーナにもキャンディをプレゼントして、彼女は嬉しそうに笑っていた。
そんな子供じみた祭りを過ごすのは、一体いつ振りだろうか。
普段だったらリーナのような女性は苦手だっただろう。リーナが言うように、近づきもしないタイプだ。
それなのに、目の前のリーナはとてもいじらしくて、どうしても我慢が出来なかった。
そっとリーナの頬に触れる。
そのまま、いつものように唇を重ねてしまえばいいだけだ。
リーナの髪をそっと耳に掛け、こちらを向かせる。
リーナは真っ赤になりながら、自分を凝視している。
そんなうぶな様子も可愛らしくて、口づけしようとした。
触れるか触れないか、顔を近づけた時だった。
背後から、殺気のような鋭い視線を感じて、エルダーはばっと顔を上げた。
その瞬間には立ち上がって、背後を見回していた。
――気のせいか?
座っていた後ろには誰もおらず、にぎやかな通りをカップルが談笑しながら通り過ぎるだけだ。遠くからは屋台の呼び込みの声が聞こえ、楽団の音楽がまた始まっている。
さっきと変わらない、にぎやかな祭りの夜だ。
「エルダー?」
何があったのかと眉を顰めるリーナの姿を見て、なんでもないよと、安心させるように微笑んだ。
「少し、視線を感じたんだ――」
とうとうばれたか、とため息を吐いた。
当主が長々と家を空けているのだ。明日は諸聖人の日。様々な式典が催され、その準備で忙しいのにほったらかしている。家から誰か捜索に遣わされていても何ら不思議はなかった。
そろそろ、潮時か――。
このままリーナと離れるのは、何ともさびしく思え、なかなか腰を上げることは出来なかった。
隣のリーナにそっと視線を移すと、不安そうな表情をし、俯いて黙り込んでしまった。
「見つかってしまったのかしら……」
リーナがポツリとつぶやく。
ああ、そうか。リーナも良家の子女ならば、自分と同じように家の者が探しに来ていても不思議はない。むしろ、まだ年若い令嬢だ。家の者たちは心配していることは間違いないだろう。
「どうやらお別れの時間のようだね」
そういうと、まるでその言葉を待っていたかのように背後から人が現れた。
「お嬢様――、探しましたー」
まるで緊張感のない、間延びした声がして、小さな男の子が走ってきた。
「アンデロ!」
リーナは立ち上がる。
「ごめんなさい、勝手にいなくなって」
「もー、心配したんですよー」
まるで緊張感のない口ぶりに、リーナはごめんね、と小さく謝っていた。
「従者のお迎えが来たようだな」
もともと、従者が迎えに来るまで――という約束だった。
それにしても、この小さな少年に従者が務まるのだろうか。
「うん。アンデロに見つかっちゃった」
えへへ、と笑うリーナを見て、胸が締め付けられた。
「エルダー」
「ん? どうした?」
リーナの顔が、泣きそうだった。
「私も、もっと早く社交界デビューをしたかった。あなたとちゃんと、出会えていたらよかったのに……」
リーナの目から、ぽつりと涙が溢れた。
「リーナ――」
呼び止めようとした時に、アンデロと呼ばれた少年が二人の間に体を差し込んできた。
「お嬢様を保護して下さってありがとうございました。後で、当家の者から礼を改めてさせていただきます」
アンデロはそういうと頭を下げて、最上級の礼を取った。
「お嬢様、行きましょう」
従者に促されて、リーナは頷く。一度こちらを振り返って、今にも泣き出しそうなのを堪えて、微笑んだ。
リーナ!
待って!
追いかけたくて、手を延ばそうとした。
追いかけたくて、声をかけようとした。
――だけど、出来なかった。
たった一夜で何が変わるというのか。明日になれば、彼女と仲直りするか、新しい女性を見つけて、またいつもと同じように恋愛ゲームをする。
リーナは親の決めた家に嫁ぐ。
それだけだ。
たったそれだけなんだ。
一夜の出会いになんの意味なんかない。
恋に恋する少女の夢にほんの少しつき合ってあげただけだ。
そう思うのに、いつまでもリーナの泣き出しそうな横顔が心に残っていた。