踊りましょう
リーナはエルダーの腕を引っ張って、広場まで駆けだした。
ずっとずっと夢だったのだ。恋人と一緒にダンスを踊ること。幼いころ母親が読んでくれた物語の王子様がダンスをヒロインに申し込むシーンを何度も何度も読んでもらった。
その夢が、叶うのだ。
リーナが憧れていた金髪碧眼の王子様ではないけど。
線が細く、すっきりとした長身の王子様ではないけど。
「エルダー、早く、早く」
しぶしぶといった体でついてくる黒髪の男にむうっと頬を膨らませる。
広場に向かう道の途中でリーナは足を止めて振り返った。
「ちょっと、エルダー」
リーナが完全に怒っているのに気が付いているのか、気が付いていないのか、エルダーは淡々とついてくるだけだ。
「ねえ、私たち恋人同士なのよね?」
「……一応な」
どこ吹く風といった様子のエルダーに、リーナはますますむっとする。
「だったら!」
リーナは声を上げる。目の前のエルダーはリーナが何に怒っているのかわかっていない様子で、ただ見下ろしている。
「私も今日は、あなたを恋人だと思うわ。そりゃ、あなたは金髪碧眼の王子様ではないけど。あ、金髪碧眼の王子様が私の憧れだったの。昔お母様が読んでくれた物語に出てきたんだけど。ちょっとエルダーの容姿とはほど遠いんだけど、まあ、仕方ないわよね。選べないんだから」
最後の方はもう自分に言い聞かせるように呟いている。
エルダーの顔をじっと見て、ああ、やっぱりちょっと理想とは違うけど……とため息を吐いた。
「えっと、違う、違う。ちょっと話がそれちゃった。
そう、恋人! 恋人だと思うから、あなたも私を恋人だと思ってちょうだい。恋人のように私を扱ってちょうだい」
「恋人ねえ……」
エルダーは困ったように呟いた。
そりゃそうだろう。リーナの目から見ても、目の前の大男は、はっきり言って若くはない。どちらかというと壮年? 中年まではいかないだろうけど、自分の父親の方が下手をすると年が近いのではないだろうかと思える。そんな男から見れば、リーナはお子ちゃまに違いない。いつも恋人にしているようには、どうにも無理があるだろう。
「いいのか?」
そう問われて、リーナは へ? と顔を上げた。
「覚悟はいいのか?」
意地悪く笑うエルダーに、リーナは戸惑い顔で「う、うん」と呟いた。
「よし。なら遠慮はしないぞ?」
不思議なエルダーの問いに、リーナはやっぱり「う、うん……」と一抹の不安を抱いて頷いた。
それからのエルダーは、ものすごく紳士だった。
いや、身なりからしてわかるのだが――、リーナには意外だった。
フロックコートにステッキに、シルクハットは正に上流階級の格好だ。黒髪に深い茶色の瞳は、落ち着いた紳士然としている。体は大柄で、筋肉質でがっしりとしている。
よくよく見ると――リーナはこれは……と思った。
リーナの実家にもよく貴族階級の紳士たちが訪れるけれど、エルダーの立ち居振る舞いはそれ以上に優雅だ。
見知った貴族たちの中でも、ずば抜けて見目が良かった。
「リーナ、手を」
そういわれ、リーナは右手を差し出す。そっとその手を取ると、自分の左腕に沿わせるようにする。
「人が多い、はぐれるといけないから掴まっておきなさい」
そう言ってリーナをすぐ近くに引き寄せた。
そっと横顔を見ようとするだけで、顔が視界のすぐそばに入ってくる。
そのエルダーの顔を見て、胸が高鳴った。
考えても見れば、リーナが知っている男性というのは父親とアンデロだけだ。父親は例外として、アンデロもふわふわの金髪の巻き毛にそばかすの童顔だったからときめくかと言われたら、まったくそんな要素は皆無だった。
リーナが屋台を覗き込んで、不思議そうに見ていると、さっとその場でそれを買ってリーナに手渡してくれたり、近くにいるキャンディ売りの少女からお祭り用のキャンディを買って、リーナにはい、と渡してくる。そのたびにリーナは、どうしていいかわからずに、真っ赤になって固まってしまっていた。
「リーナ、それは君のために買ったんだ。遠慮せずにどうぞ?」
両手いっぱいにキャンディや花だらけになってしまい、リーナは困ってエルダーを見る。そんな姿を見てエルダーは腕を組んでいない方の手で、ひょいとリーナの手にあった荷物を受け取った。
広場に近づくと、楽団の音がいよいよ高らかに響いている。初めはテンポの良い明るい曲から始まり、だんだんと激しさとにぎやかさを増していく。そのピークに達した時に、ふと落ち着いた曲調に戻るのだ。まるで熱に浮かされる人々の酔いを醒ますように。その曲が始まると恋人たちはスローステップでワルツ踊りを始める。女性たちのスカートがふわりと回る様子は、まるでそこに花が咲いたようだった。
そして、ワルツが終わると、飲み物を片手にカップルたちは談笑を始める。
その時、吊るされた魔よけのカブの近くでキスをすると、そのカップルは永遠に別れないというジンクスがあり、世の恋人たちのあこがれのシチュエーションだった。
「リーナ、そろそろワルツだ。踊ろうか」
そういうと、リーナの腕を取って広場の空いているスペースに躍り出た。二人で手を繋いで向い合せに立つと、そのタイミングで曲が始まった。
ゆっくりとスローテンポの曲に、リーナはエルダーのステップに合わせて踊り始める。
エルダーのステップは完璧だった。
リーナもダンスは苦手な方ではなかったけれど、ダンスの先生と踊っているよりもよっぽど踊りやすかった。
リーナのドレスは黒いディアンドルだった。
こんなことなら、もっとかわいいドレスで来ればよかったと後悔している。サウォン祭では黒や紫の色合いが主流だったから、リーナもそれに従って決めたのだ。でも、こんなことならもう少し明るい差し色のエプロンでもよかったかもしれないなと後悔した。
ダンスを踊りながら、リーナはエルダーの顔を見つめていた。
時折リーナに目を合わせたエルダーはリーナに微笑みかける。リーナはそんなエルダーの顔を見てふっと目を逸らした。
自分でも、顔が赤くなっているのに気が付いている。だったら、エルダーから見ても真っ赤になっているだろう。
どうしてダンスを踊るだけで、こんなに気恥ずかしいんだろう。
ダンスの先生と踊った時とは全然違う、ゆっくりとしたテンポなのに、心臓が早くなって、胸が痛いくらいだ。
さっきアンデロと踊った時は、ただダンスを踊るのが楽しくて、こんなに恥ずかしくはなかったのに。
エルダーの横顔を見るだけで、早くなった鼓動はますます速くなって、エルダーがこちらを見ると、どきんと心臓の音が跳ね上がって、息をするのを一瞬忘れてしまいそうになる。
私、ダンスは上手と褒められたのに、どうしてエルダーと踊ると、こんなに息が上がってしまうのかしら。もしかしたら、本当はみんながお世辞を言っているだけで、私のダンスはへたくそだったのかしら。
そう思ったら、急に泣き出したくなった。
エルダーとは踊っていたい。でも、みっともない姿を見られたくない。
ふわふわとおぼつかない足でリーナは早く終わってほしいような、もっと踊りたいような不思議な気持ちでワルツを踊り続けていた。
「ねえ、私、ダンスとっても下手じゃなかった?」
ワルツを踊り終え、近くのベンチに腰かけたリーナをそこに待たせて、エルダーは飲み物を買いに行ってきた。若い女の子に人気のあるアルコール抜きの果実の飲み物だ。炭酸水にはちみつと、グーズベリーが入っている。炭酸水に踊るグーズベリーの赤い実がかわいらしくて、エルダーは迷わずリーナにそれを買った。
そして戻ってきたエルダーに向かって、開口一番そう尋ねてきたのだ。その顔があんまりにも真剣だったから、エルダーは一瞬面食らってしまった。
確かに時折苦しそうな顔をしていたけれど、リーナのダンスはとても上手だった。リーナのステップはとても軽やかで、エルダーは自分がリードしなければならないのを、時折忘れてしまいそうになるほどだった。
「とても上手だったと思うけれど?」
「うそ!? 本当に――?」
「ああ、本当だよ」
すると、リーナはベンチの背もたれにとすんと背中を預けた。
それから安心したように大きく深呼吸した。
「よかった……。私、踊ってるときすごく苦しくて、暑かったの。どんなに踊っても踊ってもふわふわ足が付いてこない感じがして、まるで夢の中で踊ってるようだった。エルダーがあんまりにも上手だったから、私、いつまでも踊りたかったけれど、へたくそでエルダーは迷惑なんじゃないかって、思ってしまったの」
そういうと、安心したようにエルダーに微笑みかけてきた。
「――それは、私ともっと踊りたかったということか? リーナ」
エルダーがふっと相好を崩して、こちらを覗き込む。まっすぐに見つめられて、リーナはエルダーの顔が見ることが出来なかった。思わずパッと目をそらしてしまい、それから俯いてしまった。
いやだ。なんでもない風を装って、「そうね」なんて笑えばいいのに。
恋人同士はきっと、こんなふうに相手の顔を見て恥ずかしくなったりしない。
こんな私をエルダーはきっと呆れるわ。自分から恋人になってってお願いしておいて、ひどい態度ばっかりとってる。
リーナはぐるぐるとそんなことを考えていた。
エルダーにもうちょっといいところを見せたい。彼と並んでいても恥ずかしくない立ち振る舞いをしたい。そう思えば思うほど、動きはぎくしゃくして、エルダーの顔が見られなくなっていく。
「あ、あのね、エルダー」
慌てて話しを変えようと、エルダーの方へ向き直る。
「本当は、さっきの人と踊りたかったのじゃなくて?」
リーナの突然の問いかけに、エルダーは ん? と首を傾げてみせた。
「他の女性のことなんて、考えていないよ、リーナ」
名前を呼ばれると、親密になったような気がしてリーナはドキドキする。ついさっきまで、全然知らない人のはずだったのに。
どうしてこんなにドキドキしているんだろう。
「エルダーは、私のお願いを聞いてそんなふうに言ってくれるのでしょう? 今だけお休みでいいの。
本当のことを教えて」
せがむようにエルダーの腕に縋ったリーナの姿に、エルダーはため息を吐いてベンチの背に靠れた。
「あのね、私、知りたいの。あなたが――というよりも男の人が、かしら。どんな女性が好きで、好きな女性の前でどんな風に振る舞うのか、知りたいの。知っていたら、もしも婚約者がそんなそぶりを見せてくれたら、私、とっても喜べるわ。人を好きになるって、どんなことかしら。人を好きになったら、みんなどうするのかしら」
一生懸命話しかけるリーナの横顔を見て、エルダーは深呼吸をしてから腕を組んだ。
「――そういうことなら、私の話は参考にならないかもしれないな」
エルダーはそういうと、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「私はね、こう見えても爵位を持っていてね、まあその家の当主なんだよ。ここで名前を出すのは野暮だから、言わないけれどね、まあそこそこいいところの長男坊で、将来は約束されていた。出世コースの近衛騎士団に入ったりして、それなりに箔もつけて、人脈も広げて、順風満帆だったね。
だからこそ、おごっていたのかもしれない。女性を心から愛したことは、未だにないんだ。もちろん、向こうからは腐るほど寄ってくる。地位も私の見た目もそれなりに整っているのだろう。それだけで女性は寄ってくる。それこそ婚約話も何度もあった。
だけどね、どれも全部断っていたんだ。
今じゃなくてもいい、今は妻はいらない。そう言って縁談はすべて突っぱねていた。
だけど、私も成人してからはね、まあいろいろと思うところもあって、それなりに女性とお付き合いしているし、娼館なども行ったこともある。そんなふうな付き合いだからこそ、結婚にあこがれを持つ君のような純粋培養のお嬢様とのおつきあいは、ほとんどないんだがね。後腐れのない人妻か、名のある娼婦たちばかりだね。そんなはすっぱな女性ばかりを相手にしていたら、まあ女性のあしらいもうまくなるというもんだな。昨日の女性は、私のそういうところが、好きだと言っていた。深入りしない、後腐れのない関係がいいとね。
だけど――さっきのざまだ。
女性はみんな、そんなことを言うんだよ。だけど、関係を続けていけば、束縛するようになる。そんなことの繰り返しだよ」
ところどころ話に休みを入れながら、エルダーはそう言って、参考になることなんて何にもないなあと自嘲気味に笑った。
リーナには理解の出来ないことばかりだった。ただ思ったのは、エルダーは女性を心から愛したことなんてないんだということだった。
男女のことなんて全てゲームのような感覚で、いつだって切ってしまえるものだ。
だからこそ、こうしてリーナの恋人ごっこにも付き合ってくれるのだろう。
この人は、リーナのような子どもに恋することなんて、絶対にありえないんだ。
リーナの心の中に、黒い小石がコトンと落ちてきたような気がした。