出会い
「あれ? アンデロ、いなくなっちゃった……」
街を歩く人の中、リーナは足を止めた。
仮面をかぶった人々は談笑しながら街の中を通り過ぎていく。誰も、一人で立ち止まるリーナの姿を気にも留めない。そんなこと初めてだった。
「ま、いっか」
侍女も従者もいない生活を、リーナはちょっと憧れていた。
鼻歌を歌いながら、リーナはてくてくと歩いていく。
リーナは辺境の地にほとんど一人と言っていいほどの暮らしをしていた。もちろん、本当に一人ぼっちというわけではない。
母親が心を病み、別宅へリーナを連れて移り住んだ。しかしそんな母親だから、リーナと接することはほとんどなく、リーナの回りには侍女たちしかいなかった。
しかも、侍女たちはリーナに何かあっては大変だと、部屋から出るときは必ずついて回った。
人数だけはたくさんいても、そんな人たちに囲まれていたリーナにはいつも一人のような気寂しさが付いて回っていた。
それに侍女たちの目だけが光る、まるで鳥かごの中の鳥のような生活に、リーナは心底うんざりしていたのだ。
そして父親といえば、年に一度、訪れるか訪れないかというくらいの頻度でしか会ったことがなかった。会えばいつでも優しい父親だったが、会えない時間の方が圧倒的に長く、リーナは寂しさを募らせていた。それから、母が死んで父に引き取られてからも、仕事で忙しい父はリーナに構うことが出来なかった。
その分侍女や従者の数を増やして、リーナが寂しくないようにと配慮しているつもりのようだが、リーナにとっては息苦しい生活に何の変わりはなかった。
今でこそ、そんな生活をしているのはリーナだけではないということを自覚しているが、幼い時の寂しさはやはり今でも胸にぽっかり穴が開いたようなそんな気持ちにさせるのだ。
一人は嫌い。
でも、一人になりたい。
常々そんなことを考えていたリーナにとって、今はやっと手に入れた、一人でも寂しくない自由な時間なのだった。だって、街にはキャンドルの優しい明かりが灯り、きれいに飾られた建物に響く人々の笑い声。薄暗い街の中でも、笑顔を見ていれば、自分も幸せな気持ちになれた。ずっとこのお祭りが、終わらなければいいのに。
辺りを見回しながら、どんどん歩いていたリーナは気が付くと人があまりいない町はずれに来てしまっていた。
この町を囲むように川が流れている。その川に架かる橋の近くまで来てしまい、リーナは慌てて辺りを見回した。
街の中央の広場から離れてしまったら、アンデロが探しに来れないかもしれない。
アンデロがいなければ、リーナは一人で帰れないのだ。
どうしよう……。
誰かいないかと辺りを見回しても、人の姿はまばらだった。
きょろきょろと辺りを見回していると、橋の方で女性の話し声が聞こえた。
リーナはぱっと顔を挙げると、そちらの方へ駆けだした。
よかった。
女の人だったら、助けを求めてアンデロを探してもらえばいい。
侍女たちに囲まれて暮らしていたリーナはアンデロしか身近な男性がおらず、やはり年上の男性はどうしてもかしこまってしまうのだ。
声のする方に走っていったリーナの目に映ったのは、男女のカップルだった。
リーナは二人を見てほっとした。男女の身なりが良かったので貴族だと思ったのだ。貴族ならば、助けを求めて連れて行ってもらえばいい。
そう思い、声をかけようとしたのだったが、リーナは思わず手を止めた。
リーナからは女性の姿しか見えない。その女性はえらく怒り顔で、男性に詰め寄っていた。
モスグリーンのドレープのたっぷりしたドレスを着ている女性は、髪もきれいに結いあげてせっかく生花の花飾りをしているというのに、真っ赤になって男性に詰め寄っていた。
「あなたはいつもそうよ! 仕事が忙しいって、わたくしのところに訪れてもくれなかった!
私はいつも待っていたのよ! それを……」
そういうと、泣き出しそうになって拳を震わせている。
男性が何かを言うのを待っていたのだろう。
「待っていた? 待っていたのなら、会いに来ればよかっただろう? まるで私だけが悪いような口ぶりだが、お前は私を繋ぎとめるために何をした?
何もしなかっただろう? それならば、私と同じではないのか?」
男の方は呆れたような口調だった。
「な、なんですって!」
女性の方は、男性の言葉に激高し、みるみる眉を吊り上げた。
あ、マズイ!
リーナは女性の手が大きく振り上げられるのを見て、思わず飛び出してしまった。
ばしん
と小気味良い音があたりに響き、男性は目を伏せていた。
「あなた! 暴力はいけないわ! まして、女性が男性に暴力をふるうなんて!!」
咄嗟に男性を庇うように、手を広げて二人の間に入っていた。
幼いころから、女性はしとやかにと言われ続けていた。
言われているからと言ってそうなるというものではないということは、嫌というほど実感したのだったが。
とりあえず、男性には逆らわず、つつましやかな淑女となるのがリーナに与えられた役目だというのは幼いころから自覚していたのである。
と、突然現れたリーナの姿に二人はあっけにとられていた。
男はリーナの後姿をまじまじと見つめ、女性はリーナを見て再び目を吊り上げた。
「――なによ! エルダー! あなた、私を振ってこんな小娘とあいびきしようとなさっていたの!?
私を馬鹿にするのも、いい加減にして頂戴!! 見損なったわ!」
そういうと、再び大きく手を振り上げる。
ぶたれる!
そう思い、体を縮めたリーナだったが、その手が振り下ろされることはなかった。すんでのところで男性が、女性の手を掴んでいた。
「やめないか――」
男性が小さくそういうと、女性は掴まれた手を振りほどいた。
「あなたにはがっかりしたわ。幼女趣味だったなんて。道理で、私を見てくださらないはずね」
そういうと、ふんっと大きく鼻を鳴らし、女性は踵を返して歩き始めた。
エルダーと呼ばれた男性は、額に手を当ててため息を一つ吐いた。
「えっと、なんか――ごめんなさい」
残されたリーナは申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、みっともないところを見せてしまったようだ」
エルダーの言葉に、リーナは首を横に振る。
「もしかして――、サウォン祭をあの人と過ごすつもりだったんじゃないの? だったら、私のことよりもあの人を追いかけた方がいいのではなくて?」
すると、エルダーは再び大きなため息を吐いて、後ろに合った白いベンチにどっかりと腰かけた。
そして膝に肘を置いて、頭を抱える。
「その予定だったんだ。だからこそ、仕事を全部片づけてきた。厄介な仕事が一件あったんだが、それだけはなんとか頭を下げて、隠居した先代に代わってもらったのだ。
そこまでして俺は予定を開けたんだぞ!」
ばんっと椅子を叩いた。
「それは――なんて言葉をかければいいのか……」
「いや、同情はいらん」
「あら、そう? とてもそんなふうには見えないけど……。あなたは今日、サウォン祭で恋人と踊ったり、将来の約束をしたり、そういうつもりだったんでしょ?」
「まあ、そうだな」
「だったら、相手がいなくなっちゃったわね。家に帰って、お仕事の続きをするの?」
「……する気は全くおきんがね」
「そうよね。そうだと思ったの、私も」
にっこりとリーナがほほ笑む。
「あなた、私の恋人になってくれないかしら?」
「は?」
リーナの申し出に、エルダーは面食らった。
「私、サウォン祭で恋人を見つけるつもりだったの。
――そして、恋人に振られてしまったあなたを見つけたの。これって、出会うべくして出会ったんだと思わない?
あなたが今日恋人に使うはずだった時間を、私に下さらないかしら?」
まだ10代半ばだと思われる少女に言われ、エルダーははっきり言って困惑していた。
どっからどう見ても、恋人というには無理があるだろう。エルダーはかろうじて20代という年であり、見た目からして15は年が離れている。
正直、からかわれているとしか思えなかった。
「君は従者とはぐれたんだろ? 従者の元まで送ってやる。さっさと帰れ」
「い・や。
恋人がほしいって言ってるでしょ? 聞いていたの、あなた?」
橋の側から広場近くまでそんな攻防を何度も続けていた二人だったが、とうとうエルダーが折れる羽目になった。
「恋人がほしいのなら、お前と釣り合いのとれる年頃の少年を捕まえればいいだろう? なぜ私なんだ」
「……飛んで火にいる夏の虫?」
首を傾げながら、きゅるんとした笑顔でリーナが口元に手を当てる。
こちらが夏の虫ということか……。
ばかばかしい、とエルダーは空を仰いだが、暗くなった夜空にはきれいな星が瞬いている。
「祭りを楽しんだら、従者と家に帰ればよかろう? 恋人というのは無理に作るものではない」
「まあ、そうなのよ。それはそうなんだけどね、でもそういうわけにはいかないのよ」
「なぞかけか?」
「よくある話なの。
政略結婚っていうの? 私、明日お父様が決めた婚約者と顔を合わせないといけないの。
婚約しちゃったら、恋人はもう作れないでしょ? だから、その前に私、恋をしてみたかったの」
地面を見つめ、思いつめたように落ちていた石を蹴飛ばしながら、リーナは呟くように言った。
「よくある話だな」
貴族にはよくある話だ。むしろ政略結婚が当たり前だから、結婚には恋だの愛だのはない。その代り、結婚してから他に愛する人を見つけるのだ。だから、不倫や浮気は横行している。むしろ、伴侶の不倫相手により、夫の出世も決まってくるから不思議な話だ。夫よりも身分高い愛人を作ることが出来れば、夫の出世の足掛かりになる。そのため、妻の不倫に目をつぶることはとても多い。結婚なんて、そんなものなのだ。
「愛だの恋だのは、庶民の話だろう?」
物語の中にはよく純愛の話が出てくるが、実際恋に愛に奔放なのは庶民の方だ。そして、庶民だからこそ自由恋愛でも結婚できるのだ。
「そうかもしれないわね」
ぽつりとリーナが呟く。
「――それでも、自分で決めたかったの。好きになる人ぐらい。
好きな人がいたら、頑張れる気がしたの。いろんなことを」
きっとリーナは良家の娘なのだろう。婚約が決まり、近いうちに嫁いでいく。リーナの背格好からすると、まだ10代の半ば。恋人を作ることもなく、嫁に行く。それは貴族の娘としてはごくありふれた事だ。貴族には自由な結婚はほとんどなかったと言って等しい。
エルダーは屈託のないリーナの笑顔を見て、不憫に思った。
見知らぬ相手が伴侶となり、見知らぬ家に嫁いでいく。きっとこの素直さも、どこかの貴族の夫人となり、失われていくのだろう。それが貴族に生まれた女性にとっての当たり前だ。
エルダーはそう心の中で思いつつも、この少女がそんなふうに顔を曇らす姿を見たくないとも思っていた。
エルダーは慌ててその気持ちをかき消した。
ばかばかしい。たった一言二言言葉を交わしただけなのに。
「で、お前の従者はいつ頃迎えに来るんだ?」
「あ、忘れてた。多分、今頃私のことを必死になって探していると思うんだけど……」
あのアンデロのことだ。今頃自分を血眼になって探しているに違いないだろう。
「それは、従者失格ではないのか?」
エルダーの呆れたような声に、リーナは慌てて首を横に振った。
「いつもはそんなじゃないの。アンデロは顔に似合わず強いのよ」
「そうか。では、その従者が迎えに来るまで、付き合ってやろう」
ため息交じりにエルダーが言うと、リーナは一瞬驚いた顔をしたが、まじまじとエルダーを見つめて、ぱあっと顔を輝かせた。
「本当? 本当にいいの?」
「ああ。従者が迎えに来るまで――な」
「じゃあ、今日だけはアンデロが迎えに来なきゃいいのに」
リーナはそういうと、花が綻ぶように笑って見せた。
「えーっと、君は――」
言いかけたエルダーの声を制するようにリーナが言う。
「リーナよ。私の名前。あなたは?」
「エルダーだ」
エルダーは短くそう答えると、すっとひざを折った。そしてリーナの右手をそっととると、
「では、リーナ嬢。私と一曲踊ってくださいませんか?」
と、正式なダンスの申し込みの作法をする。
「もちろん、喜んで。エルダー様」
リーナに手を添えているエルダーの手が思いのほか温かくて、リーナの気持ちまで温かくなるようだった。
二人はそっとお互いの顔を見つめ合うと、どちらともなく微笑んでいた。