掴まった中年領主
広間を飛び出した二人が駆け込んだのは、カロンが警備が手薄になっていると言っていた西の森だった。辺境騎士団の手勢を西の森へ持ってきたのなら、そこにいるのは自分の部下ばかりだ。
だからこそ、エルダーは西の森へ向かった。
案の定兵士たちは、白いドレスで走るリーナと自分たちの領主を見て、一瞬目を瞠りこちらを見たが、まるで草を駆けていく野ウサギを見るかのように一瞥しただけですぐに任務に戻る。お前たち、俺が無事に領主でいつづけられた時にはちゃんと昇給させてやろうとエルダーはひそかに心に誓う。
二人は西の森へ駆けこむとその中にある小さな小屋へ入った。
狩猟をするための道具が置いてある粗末な狩猟小屋は設備が整っているわけではないけれど、一時身を隠すだけなので十分だった。
「とりあえず――だな」
小屋に入り、二人とも息を切らせて座り込んだ。お互い逃げられるはずがないとは分かっていた。
二人は息を整えてから、顔を見合わせてどちらともなく笑いあった。
リーナが履いていた絹張りの式典用の高いヒールのかかとはものの見事に潰れていた。元々耐久性のあるものじゃないから仕方ないが、リーナの靴を脱がせるとその無駄に豪華な靴のかかとが彼女のかかとを擦っていたらしい。少し血がにじんでいた。
大丈夫かとエルダーが尋ねると、リーナは笑いながら頷いていた。
エルダーも来ていたテイルコートを脱ぐと、ぐっとタイに手をかけて外した。
それからシャツとスラックスだけになると袖を捲る。ずいぶん楽な格好になった。これなら何かあった時も動きやすいだろう。
「また、走る?」
恐る恐るといった体で聞いてきたリーナに、エルダーはいいや、と短く返事をした。暖炉の中に入っている薪を確認すると、そばにあった毛布を一つ取り出した。
「さすがに君を連れて逃げられるわけもない。とりあえずあの場から逃げ出したのは、事態の把握というのか、本気だというのを示すためだ。
追っ手に見つかったら、戻らなければならないな」
そう言うと取り出した毛布をリーナの方へ放る。茶色い毛布は全く使われていないモノらしく、毛足が長く温かそうだった。
元から逃げられるものとは思っていない。本当にただの時間稼ぎだ。
「あの、エルダー」
「ん?」
「本当に、よかったの?」
リーナの言葉に振り返ると、エルダーは小さく肩をすくめてみせる。
「――金髪碧眼じゃないけれど、ね」
ウインクしてリーナの問いに答えながら、彼女の横に腰を落とす。リーナはこんな時に冗談を言うエルダーに呆れたのか、肩を軽く叩いてきた。
「……意地悪」
リーナのその言葉に笑い出す。
「正直俺も恐ろしい。この国と隣国と、二つを敵に回すことになるもんな。
いいとこ爵位の剥脱と、一生幽閉だろうな。
それもぬるいかもしれん。反逆罪で死刑かもしれん――」
天井を仰ぎ見ると、茶色い板目は美しくもなく華やかでもなく、見ていて楽しいものでもなんでもなかったが、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
「……そんな」
リーナの顔が青ざめる。まさか、そんなことに思い至ってないわけじゃあるまい――と思いつつ、箱入りお姫様のリーナがそれほど重大だということを分かっていないという線は十分考えられる。
「それでも構わないと、あの一瞬で思ったんだといえば、君は信じるか?」
それまで青ざめていたリーナはエルダーとは対照的に、床に視線を落とす。
「私は今まで、いない子だったの。お母様はいつまでも小さな私を見ていて、お父様には年に一度会えるかどうか。その時以外は、侍女たちと一緒だったけど、みんな私がいなくなると困るけど、いても関心を示すわけじゃなかったの」
ぽつりと語られたリーナの過去に、エルダーは肩を抱き寄せた。
「だからね、さっきエルダーが連れて逃げてくれた時、私は初めて自分のための世界を手に入れられたような気持だったの」
エルダーは滑稽だと笑いたくなった。
こんな年端もいかない少女を手に入れるためにすべてを捨てた自分と、初めて求められて世界を手に入れた少女。
どちらの思いが強かったのか。
「私、嬉しかったの。
今までで一番、嬉しい事だったのよ」
そう言って笑うリーナの笑顔は、まるで月の光のように柔らかく、さっき城の広間を照らしていたシャンデリアのあかりのように眩しかった。
その笑顔に、エルダーはリーナを引き寄せる。
そっと頬に手を添える。
「昨日、カブの下でキスをし忘れたんだ。『サウォン祭の日に、カブの飾りの下でキスをするとその恋人同士は永遠に離れない』
だから、キスしようとしたら、君の従者に殺されそうになった。それでやめたんだが……」
そう言うと、優しくリーナの頬にキスをする。
リーナもくすぐったそうに肩をすくめながら、エルダーに視線を合わせてからそっと目を閉じる。
リーナの唇にそっと自分の唇を重ねた。
たっぷり10秒は唇を重ね合わせた後、
「一日遅れだが、私も魔物に掴まったかな?」
とエルダーはリーナに笑いかけた。
「やっぱり、昨日出会ったのは素敵な偶然だったんだわ」
「ああ。素敵な偶然だった」
「もしかしたら、追っ手に掴まって引き離されてしまうかもしれないが、私はこれから何を置いても君を妻に迎えるまでは引き下がらないと、諸聖人たちに誓うよ」
今日は諸聖人の日。
もしかしたら奇跡というやつが起こるかもしれない。そんな夢のような都合のいい話があるわけもないと思いつつも、リーナと一緒にいる未来を夢見た。
一日遅れの魔物に助けられるか、諸聖人たちに救われるか。
それともここでチェックメイトか。
「私も、お父様を絶対説得するわ。エルダーの元にしか嫁がないって。万が一許してくれなかったら、私、アンデロとネーンドルフへ来るわ!」
無邪気に笑うリーナの顔は微笑ましかった。その素直さ、その明るさ。取り繕った笑顔よりも、よっぽど生き生きとしている生身のリーナだった。
「ああ、このネーンドルフで二人で生きていこう」
腕にはしっかりとリーナのぬくもりがある。それは今まで生きてきた中で、一番満ち足りた時かもしれないとエルダーは何とも言えない、幸せな気持ちだった。
他の女性ではなぜダメだったのか。
きっと理由なんてない。
たった一夜の恋だったけれど、その出会いは一生忘れることはない。エルダーはそれだけは自信を持って言える。
リーナはきっと、このネーンドルフの自然の中に溶け込んで、生き生きと笑って暮らしていけるだろう。
二人でそんな未来を夢見て何が悪い。
それからほどなくしてから狩猟小屋を騎士が取り囲み、エルダーは反逆罪で捕まった。
そしてディアテナ・リアネーゼ王女は城に連れ戻されたのだった。
ほんの数時間の、短い逃避行だった。