応天府へ
上は青で下も青という印象を受ける水平線あたりの風景をここ数日間は見ていない。今、見えるのは両側を背の低い木々の群れに挟まれた道に、上空からの日光によって照らされた箇所と木々に光を遮られて影になった箇所の二通りが出来ている。その道を進む数名の一団の中に、肩を少し越すくらいの黒髪の少女__費信、字は公暁が居た。
「あっ……」
費信の乗っている馬が首を振って軽く暴れ出し、馬上の彼女は少なからず動揺したが、彼女の馬に附いていた馬方さんが すぐに馬を宥めてくれた。
「ん、やっぱり馬には慣れない?」
「あ、すみません。あんまり乗った事が無いものでして……」
費信の隣を同じく馬に乗って進む淡い茶色な総髪と細眼をして縁が下側にだけ付いた眼鏡をかけた長身で凄く豊満な壮年期前半の女性__湯華さんが此方の様子を見て問いかけてきたので、費信は照れ笑いを浮かべながら返事をした。この一団の中で騎乗しているのは費信と湯華さんの二人だけなのだが、乗馬に不慣れな費信が馬方さんを附けてもらっているのに対して、湯華さんの方は馬方なしで完全に自ら手綱をとっている。
「ああ、ところで……今日は陽の有るうちに応天府に着けるでしょうか?」
「それなら心配ないわ。ほら、城壁と城楼門が見えてきたでしょ」
「え?」
費信からの何気ない問いに答えながら湯華さんは、道の先を指さした。道の先の地平線あたりへと目をやると確かには色に近い線状の物が左右に伸びているのが見えて、さらに目をよく凝らして見ると其の中央に屋根付きの望楼が付いた門状の物まで見える。
__あそこが明帝国の帝都、応天府なのね。
費信が住んでいた崑山の街にも、政庁ごと街を囲う城壁と其の出入口である城楼門自体は有ったのだけど、やっぱり一大国の帝都の物ともなると其の規模と風格も崑山の物とは段違いなのだろうか?残念ながら、ここからでは未だ遠すぎるのに加えて、道の左右に林立する木々に阻まれて全貌を確認する事が出来ない。
「さ、あと一息よ。急ぎましょう」
「あ、はい。けど今更ですが、本当に私で良かったんでしょうか?」
「アナタの語学力と文章力と道術知識は確かなモノよ。それが有れば役目を果たせるから、自信を持って」
費信は いざ応天府が近くなって、つい気後れしてしまったのだけど、隣を進む湯華さんから言われて気を持ち直した。最後のだけは内容や種類を知識として知っているだけで、実践する事までは出来ないのだが。
「えーっと、確か……西洋沿岸の諸外国へ朝貢とかを促しに行く為の遠征航海なんでしたっけ?」
「ええ。大体そんなところらしいわ。より詳しい事は私も未だ聞かされていないわ」
「え?湯華さんって確か、例の航海では総旗艦の艦長へ推薦された筈なんじゃ……」
「総旗艦のとは言っても所詮は一艦長でしかないし、それに私は武装商船の副長からの成り上がり者だから出港前後くらいまでは教えてもらえない情報も多いのよ」
「はあ……」
こちらの確認や疑問に冷静な態度を保ったまま答えていく湯華さんに、費信は軽く呆然となった。
湯華さんが自ら語ったように、彼女は元々 民間の船乗りの家系出身者で少し前までは武装商船の副長をしていた。それが、三年前の “靖難の変”末期に彼女が乗った武装商船が太倉港に寄港していた際、建文帝側の官僚・黄子澄が高飛びしようと海運倉に隠れていたのを湯華さんが発見して捕縛し、自らの手で応天府まで送り届けたのだそうだ。その手柄を認められたのが契機となって船舶指揮能力や管理能力を見込まれ、遠征艦隊編成に併せて就役した総旗艦の艦長に選抜されたのだそうだ。
「応天府に着いて、一日おいたらアナタを鄭和提督に引き合わせる、その間に最後の覚悟を決めておきなさい」
「は、はい。あっ、要するに一泊分だけ間が有るって事ですよね?」
「そうなるわね。ああ、あまり気を張りすぎもしないようにね」
「わかりました」
湯華さんへ返事をすると費信は再び顔を前に向けた。湯華さんが言うには、費信の紹介は到着から一日おいた上で行うそうだ。
(当日の内に偉い御役人さんに会うとなると、緊張しすぎて失礼な事を仕出かしてしまうかもしれないしね)
到着から其の日の内にではなくて良かったと費信は少しホッとした。馬方さん附きな彼女の馬は費信と湯華の会話中も其れとは関係なく、湯華さんの馬や一団の他の人達と共に歩みを進めており、二人の会話の分だけ応天府に近づいたという事になる。一大国家計画級の遠征航海に参加するという名誉の、その第一歩の始まりが近づいているのだという事への期待と不安を胸に、費信は馬に揺られながら道の先に見える応天府の城楼門を目指した。