第四十七話 イレーネ・ミラーの事情
ティーリアがハロルドに黙祷を捧げていると急に廊下から声が響いた。
誰? 思った瞬間扉が開く。
「遊びに来てあげましたわよ!」
……カロリナだ。
止めきれなかったのが悔しいのか背後でイレーネの侍女が頭を抱えていた。
「……ご機嫌よう。カロリナ様」
「ご機嫌よう、ティーリア! ……あ」
イレーネをみたカロリナがぴしりと動きを止める。友達付き合いを始めてから気付いたがカロリナは割と人見知りだ。いや、裏切られてきた経験からなかなか信じられないのかも知れない。
「ご、ご機嫌よう。ミラー様」
ティーリアにしたときと違い優雅に腰を折るがもう手遅れだ。
警戒していた彼女もこのカロリナの様子をみれば、分かってくれるだろう。内心の笑いを抑えてイレーネを振り返る。
だが、イレーネの顔はひどく冷たかった。
「……ご機嫌麗しく、フレンテラ侯爵令嬢様。先約があったようですね? 知りませんでしたわ。申し訳ありません。すぐに去ります」
「え? あ、ちがっ、まっ」
蒼い瞳に映りこむ感情がよく見えない。
「イレーネ様?」
「では」
イレーネは二人の声を振り切り素早く道具をまとめ、一礼して去っていった。
明らかにおかしい。
何か押し寄せる感情を殺すような横顔だった。
(そう、そういえばこの前からやたらフレンテラ家に拘っていたような……)
ティーリアが黙り込むと部屋に沈黙が落ちる。
「ティ、ティーリア。ご、ごめんなさいわたくし……友人との、約束を……」
「え? あ、気になさらないで下さい!」
泣き出しそうなカロリナを宥める。
普段のイレーネなら笑って一緒に過ごしてくれたと思う。
「イレーネ様、どうしたのでしょうね……」
「や、やっぱりわたくしが急に押し掛けたのが迷惑だったんですわ……。友人との時間を邪魔したのですもの」
「そういう方では無いんですが……」
心配になる。
「あの。刺繍なさっていたのですか?」
控えめな声がカロリナの背後からかかった。カロリナ付きの侍女である。彼女はカロリナが、マリアンネやハンネローレに侍女を貸し出したときもカロリナの側を離れなかった侍女である。
「ええ」
「でしたら、刺繍を送る相手などを気になさったのでは?」
「ああ!」
イレーネの刺繍していたイニシャルはハロルドのもの。確かに見られたくないものだったのかもしれない。
だが。それでもあんな態度をとるだろうか。やはり心配だ。
「……申し訳ありませんカロリナ様。わたしイレーネ様が心配なので様子を見てきますね」
「ええ。こちらこそごめんなさいまし。次からは先触れ出しますわ……」
確かにそこは気をつけて欲しい。ティーリアのいるときならいいが、ティリーとして外に出ているときに来られたら困ってしまう。
「ではまた明日、わたしから伺いますね」
「本当!? 楽しみにしていますわ」
落ち込んだ様子のカロリナに声をかけるとすぐにぱぁっと顔を輝かせた。相変わらず分かりやすい。
※ ※
ティーリアはすぐにイレーネの部屋を尋ねた。とは言っても彼女の部屋とティーリアの部屋は対極にあるので、時間はかかったが。
コンコンとノックする。
ややして、キィッと扉が開いた。
「入って」
開けたのはイレーネだった。恐らく侍女は下がらせたのだろう。
イレーネが、ティーリアを席へ誘導する。
「ごめんなさい。私、余裕がなくて、不快にさせたわよね」
「いいえ。わたしもカロリナ様も気にしていませんわ」
「フレンテラ……ね」
いつかの様に瞳を陰らせてつぶやく。感情を殺した声だった。
「……ティーリア。その……」
イレーネは一旦は口を開きかけたがすぐに閉じる。話そうか考えあぐねているようだ。
しばらくそれを繰り返していたが、覚悟を決めたように静かに瞳を閉じると、開く。
「私、貴方に聞いて欲しいことがあるの」
「なんでしょう」
真剣な様子のイレーネにティーリアも居住まいを正した。
「貴方と初めて会ったあの日ね、ハロルドから聞いたわ」
イレーネがすっと息を吸った。
「私の父は自殺じゃない。殺されたのよ」
「……っ」
息を飲む。冤罪だとは聞いていた。だが、殺されたとはキシは教えてくれなかった。なんとなく、分かってしまう。深入りして欲しくなかったのだろう。伯爵が殺されたのだとなればそこに関わる闇は深いはずだから。
「今、犯人を捜しているの。ねぇ、私……どうしたらいいの?」
語尾が僅かに震える。イレーネは苦しげに手が白くなるくらいに握りしめる。
「……憎いの。父を殺した犯人が憎くて仕方ないの。犯人を知ったとき抑えられる自信がないのよ。知ったら私はきっと犯人を、」
―――殺してしまう。
自分の言った台詞に怯えたようにイレーネの指先がふるえた。指先の震えはすぐに全身の震えに変わる。
「……怖い」
「イレーネ様っ」
手を伸ばしてイレーネをぎゅっと抱き締めた。
イレーネの気持ちはよく分かる。くすぶる感情が、押し寄せる悲しみが、殺せと叫ぶのだ。そんな自分が怖いのだと。
「大丈夫、大丈夫です。イレーネ様。貴方ならきっと抑えられる。死の悲しみを貴方は知っているでしょう?」
死の、二度と会うことの出来ない悲しさを、絶望を彼女は知っている。喪失感という、ただただ息苦しくて出口さえ見失ってしまいそうな感情を知っている。だから踏みとどまれるはずだ。優しい彼女なら絶対に。
断言して微笑む。
「……そんなの、その時にならなければ分からないわよ」
「もし、イレーネ様の意志でどうにもならなくなったとしても絶対に殺させはしません。わたしやハロルド様がきっと止めますから」
トントンと彼女の背を優しくたたく。
「怖がらないで。憎んでも良いんです。憎しみは簡単に消せるものではないから」
そう。ティーリアの心の底にも染み着く憎しみという感情は九年経っても消えないのだ。
あの日から、まだ憎い、憎いと、心が血を流して叫び出すことがある。目の裏に張り付いて離れない光景がある。張り詰めた感情は糸のように。小さなきっかけで切れてしまう。悪くないのだと分かっていても時々、平和に笑うすべてが憎くなる。
まだ、殺されたのだという事実を知ったばかりのイレーネならなおさらその気持ちが強いだろう。
それでも。
「それでも、この感情とは案外つき合っていけますから。我慢しないで吐き出して」
洪水のように溢れる感情を消すことは出来ないけれど、防波堤にならなれるから。
「……っ、私っ、分かるのよ。お父様はきっと、復讐なんて、望んでいないと。それでも憎い。憎い憎い憎いっ! どうしても許せない。お父様を殺した人間はまだのうのうと生きている。お父様の死を利用してさらに地位を手に入れてっ! また、誰かを貶めているのかもしれない……!」
慟哭の叫びが、胸を突く。ティーリアの背に回るイレーネの手の力が増した。
「ごめんなさい。ティーリア。私、我が儘なのよ。貴方がせっかく友人が出来たと言うのに喜べないの。フレンテラ家も関わっているかもしれない。だからっ、仲良く、しないでって……っ、思って、しまう」
「……はい」
気がついてあげられなかった。伯爵を殺した犯人と聞いて思い浮かぶのはカロリナ率いるフレンテラ派閥の者達だとティーリアでも思ったのだ。詳しい話を聞いたイレーネなら尚更フレンテラ家が怪しいと思うのだろう。
「身勝手な願いよ。聞かなくていいの。ただ思っているだけだから……」
「イレーネ様」
ティーリアは身を離してイレーネの瞳を見つめた。
「わたしの、力を使えば。犯人をもっと絞り込むことが可能です」
「―――っ」
ひゅっとイレーネが息を飲む。
「協力させてください。貴方の為に。そして、わたしの為に。わたしはその中にきっとフレンテラ家はいないと信じています」
「だ、駄目よ」
弱々しくイレーネが言う。
「深入りしてしまったら、貴方にも被害が来るかもしれないのよ?」
「わたしなら、大丈夫です。精霊もいますし。それに、大切な友人を苦しませておくわけないではありませんか」
悪戯っぽく微笑んだ。
「もっと、早く聞かせて欲しかったくらいですよ? わたしにはその力があるんですから」
きっと彼女なりの葛藤があったのだろう。イレーネにティーリアの全てを話したわけではないが、持つ力の大きさは知っているはずだから。
大切な友人を危険にさらしたくないという思いと、犯人を知りたいという気持ち。せめぎ合って、それでも彼女はティーリアを取ってくれた。だから、警戒してもらえるように話はしたが、協力させるつもりはなかったのだろう。
本当に、優しい人。
心の底から支えたいと思う。大切な、友人。
「貴方の力になれることをわたしは幸せに思います。どうか、手伝わせて下さい」
「ごめ……、ありが、とう……っ」
にっこりと微笑むと、濡れた瞳でイレーネが微笑み返してくれた。
その日、ティーリアは一通の手紙を書いた。キシに向けて。




