第四十六話 稽古と彼女の変化
カァン!
「っ、く」
鈍い音がして手から剣が飛んだ。焦らず、だが素早く距離をとり、隠し持っていた針を投げつける。
全て弾かれるのを横目で確認しながら、息を整え、短剣を取り出して構える。短剣の長所はリーチの短さだ。それを利用して懐に飛び込もうとした所で
「はい。姫さん死亡」
声とともに首もとに刃先が当たる。
ティーリアは膝から崩れ落ちた。
「……っ、はぁ。負けちゃった」
今日は約束した通りルトに剣術を教えてもらっている。基礎訓練を終えた後の擬似試合だ。
二分程度の短いものだったが、全身を疲労感がうつ。許させるならば倒れ込みたいくらいだ。
「姫さん後宮きてから、かなり体力落ちたんじゃない?」
地面にへたり込み荒い息をつくティーリアにルトは容赦のない言葉をかける。
「二手前、こっちまで届いてない針が多かったし、速度も威力も弱かったね」
「そ、だね……」
実感を込めて頷く。確かに疲れから腕が思うように動かず上手く飛ばせなかった。
「息整った? はい、水」
「ありがとう」
あらかじめ持ってきた水筒の蓋をあけて差し出してくれたので有り難く飲む。
ひんやりとした感覚が喉を伝わって心地いい。
ぐったりと目を閉じる。
ニオミルが推薦したとおりルトはかなり強かった。だが、いくらルトが強いとはいえ手加減してくれているのだ。以前ならこんな短時間でここまで疲れたりはしなかった。大分体力が落ちてしまったようだ。
何事も継続が大切だ。失ってしまった体力と感を取り戻すのには時間がかかるだろう。
ジグドの館に吹き込む風が前髪を揺らす。
「わたし、どうだった?」
「うーん。あのさ、姫さんちょこちょこ俺の剣を剣で受けてたけど避けられるのもあったよねー。たとえば、」
ルトがすらすらと避けれた攻撃をあげていく。
「剣は受け止めずに絶対避けて。男と競り合ったら確実に負けるよー? だから絶対駄目」
「うん」
言われたことを紙に書く。
「で、次。っていうか一番大切なやつだけど。なんで姫さん最後短剣で突っ込んで来たの? 馬鹿なの?」
「う」
心底あきれた声音で言われて身をすくませた。
「無謀すぎ。大柄な男ならともかく俺は小柄な方なんだから小回りもきくんだよ? 突っ込んで来たら、その前に切られるのは当たり前だよねぇ」
「ご、ごめんね」
「よーく反省してね」
本当に怒っているようで冷え切った目が怖い。全力でこくこくと頷く。
「今度からはしません……」
「それでよろしく」
紙には一番大きな文字で書き留めておいた。
「んー、後は、そうだね。良い点をあげると、流石ファンレーチェで習ってきただけあるって感じかな。小手先の技術は高い。並の騎士より優れているんじゃない?」
「そ、そう?」
嬉しくて頬を抑えるとすぐに「技術だけで、剣の腕なら負けるけどね」と言われる。
「ま、あげた二つ以外はちょこっとした問題だからおいおいやっていくとして。やっぱり判断力の無さが気になる。体力つけるのもだけど、姫さんはまず俺との模擬試合を中心にやっていこうか」
「お願いします」
「ん。じゃ今日はこれまでだから。よく休むこと」
「はーい」
本当は少し復習をするつもりだったが、ルトの言うとおり休もうと決めて剣をしまう。
疲れて明日鍛錬が出来なかったら意味がないのだ。
※ ※
翌日はイレーネとハンカチに刺繍をしていた。
「ティーリアって本当に器用よね」
ハンカチに刺繍糸を通しながら、イレーネが呟いた。ティーリアは首を傾げる。
「そうでしょうか?」
「ええ。器用よ」
イレーネは塗っている途中の自身のハンカチに目を落とす。彼女の施しかけの刺繍は簡素なイニシャルだ。まだ半分も仕上がっていない。ティーリアの刺繍は複雑な蔓薔薇。ほぼ仕上がっている。
「同じタイミングで始めたはずなのにこの差はなんなの?」
イレーネは不器用なたちでもないのだが、確かにティーリアの進行状況の方が早い。
「慣れているだけですよ」
「違うと思うわよ?」
休憩のタイミング、と気を切かせたラーラリアがお茶を出してくれた。
集中力の上がるようにハーブティーを入れてもらったのだが、イレーネが顔をしかめる。
「これもフレンテラから?」
「いいえ。ラーラリアがブレンドしてくれたものです」
ラーラリアはカロリナにハーブの事を教わってから興味が出てきたらしく、最近はよくハーブティーをいれてくれる。
「それで。イレーネ様」
ティーリアはティーカップをおいて、やや身を乗り出した。
「どうして急にハロルド様にハンカチを?」
「と、とくに理由はないわよ」
そんな事を良いながらイレーネの声は上擦っている。何かあったと明らかに分かる様子にティーリアはにんまり笑った。
「何があったのですか?」
「何であった事前提なのよ。普通は何かあったの? って聞かない?」
イレーネが分かりやすいからだとは言わない。じっと青い瞳を見つめると、ため息を付かれた。
「……た、たいした事じゃないのよ。その。最近ハロルドに対してなんだか上手く対応できなくて……。それで、なんでかしら? って考えていたらね。気が付いたのよ」
心臓がドキリとはねる。
イレーネは鋭いくせに好意には鈍感だ。他人のものにも、自分のものにも。
正直、ティーリアから見てこの後宮の主ハロルドと、イレーネは両思いだ。イレーネはまだ恋心を自覚していないが、時間の問題だと思っていた。しかし、予想外に早い。
ハロルドは容姿こそサディスティックに見えるが根はまっすぐだ。後宮を開いているのは王族嫌いだったイレーネと会うためで、最初から正妃を一人決め次第皆帰すと宣言していて、ティーリア達に婚姻関係は無い。ティーリア達のここでの身分は側室ではなく、側室、王妃候補なのだ。
「何に気が付いたのですか」
「ええ。胸がもやもやして、落ち着かなかったからだって」
「! もやもや、ですか」
その台詞はほぼ決定打だ。ティーリアは息を飲む。
イレーネとハロルドが結ばれればこの後宮は終わる。ティーリアにも自由が戻ってくる。やっと、きちんと姉、シンティアを待つことが出来るのだ。後宮に来てからずっとこの日を待っていた。
それなのに。
―――どうして、胸が痛むのだろう。
脳裏をよぎったのはフィルラインだ。
(そっか。フィルライン様とは“ティリー”で会っているから後宮からでたらもう会えなくなるのよね……)
以前のティーリアなら、気にしこそするものの、シンティアを待てる喜びの方が強かっただろう。だが、今は―――……。
「何で、もやもやしていたかっていうと……って、ティーリア?」
「あ、ごめんなさい。考え事していて」
はっと意識が浮上した。胸の痛みに気が付かないフリをして、「なんなのですか?」と促す。
「罪悪感だったのよ!」
「…………は?」
得意げに言うイレーネに目を瞬かせた。
「ほら、新月の儀式の時ハロルドの顔殴っちゃったじゃない? あれからなのよね。謝って許してもらったけどやっぱり心の中で気になっていたのよ」
「……」
言葉も出ない。
確かキシからイレーネが殴った後にハロルドが際どいアプローチをしたと聞いた。それで意識してしまったのだと思うが……。
ティーリアの困惑に気が付かないイレーネは続ける。
「だからね、正式に謝罪しようと思って。でも外に出られないじゃない。手作りのもの渡すしか無いでしょう? だからハンカチ贈ろうって」
「……そうなのですか」
ティーリアの感情の無い声に何を勘違いしたのか物憂げに「やっぱり、ハンカチじゃない方がいいのかしら?」なんて、的外れなことを言いだすイレーネ。
どうやら後宮が解体されるのはまだまだ先のようだ。
*イレーネがハロルド殴った~という下りは番外編の新月の儀式でしています(^^)




