雨宿り
平気で嘘をつく奴がいる。それも日常的に、大勢の人間に対してだ。
つい数分前、軒先のビニール屋根からすたすたと滴り始めた雨垂れは、ついに点から線へと変わり、雲ひとつ無かった空は、まるで昼夜逆転したように重く濁った。
今更後悔してももちろん遅いのだが、数十分前の俺はなぜか今日に限って、普段素通りしているこの本屋で、少し時間を潰して帰ろう、と思ってしまったのだ。
やっぱり真っすぐ家に帰るんだった。そうしていればきっと今頃、風呂で今日の仕事の疲れを取りつつ、タイルの溝にへばり着いたカビでも眺めていたことだろう。数十分前の俺よ、お前の選択は間違っていた。
つくづく自分の気まぐれと、今朝テレビの中から、「今日は傘を持たなくてもいい」と満面の笑みで嘘の情報を吹き込んだお天気キャスターに腹が立つ。
どれくらいここに留まっただろうか。もう雨が止むことを願うのも忘れてぼんやりしていると、若い女が店内から出てきた。小さな顔に幼さの残る大きな瞳。服装もひらひらしていて、可愛い、という表現がよく似合う女の子だ。
彼女は俺から数歩分離れた場所で足を止め、止む気配のない雨を眺め軽くため息をついた。すると、そのため息に機嫌を悪くしたのか、急に雨が強さを増し、まるで彼女に抗議するかのように雨音が大きくなった。
ああ、これでまた当分帰れなくなった。しかし、可愛らしい女の子と二人きり、本屋の軒先で雨宿り。まるで恋愛ドラマの主人公になったようで悪い気はしない。
ところが、彼女はハンドバッグの中をごそごそと漁り、これまた女の子らしいピンクの折り畳み傘を取り出した。俺はどうやら主人公にはなれないらしい。
滝のように地面に叩き付けられる雨は濃い霧を立て始め、目に映る景色の輪郭を溶かしていった。
………
傘を広げ終えた彼女と目が合った。
目があったというよりも、視線に気付き俺の顔を見た、と言うべきか。無意識のうちに彼女を凝視してしまっていたらしい。
変な人と思われただろうか?
「あの…」
彼女は少々申し訳なさそうに俺に歩み寄り、申し訳なさそうな声で言った。
「私、駅に向かうんですけど、もしよかったら一緒に行きませんか?傘ちっちゃいから少し濡れちゃうかもしれないけど…」
なんということだろう。神様は俺を主人公に選んだらしい。
近くで見る彼女はさらに申し分なく可愛かった。
小さな傘に肩を寄せ合い、いろんな話をした。
彼女は二つ年下で、19歳の女子大生だった。見た目に違わず、人懐っこくて明るい女の子だった。
駅までの距離はそれほど長くはなく、別れの時間はすぐにやってきた。
少し名残惜しそうにしていた彼女は、別れ際に「電話番号を教えて下さい」と恥ずかしそうに言った。
二人が恋に落ちるのにさほど時間はかからず、二人は付き合うことになった。
それからの俺の生活は、幸せそのものだった。
一人暮らしの俺の家に毎日のように通い、コンビニ弁当ばっかりじゃ体に悪いと、料理を作ってくれた。
二人でいろんなことをした。映画を見たり、ドライブしたり、一日中部屋でのんびり過ごしたり、冬には温泉旅行にも行った。
彼女とたくさんの時間を過ごし、思い出の数もどんどん増えていった。
しかし、別れは突然やってきた。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎて行き、付き合い始めて1年が経とうとしていた頃。
俺たちこれからもずっと一緒だよな。そう言うと彼女は少し困った顔をして、語り始めた。
「あなたにずっと隠していたことがあるの…もうあなたとは一緒にはいられない」
予想外の反応に目を丸くしていると、彼女はこう続けた。
「私、本当はこの星の人間じゃないの。私は、この星の悪の組織と戦う為にモエモエ星からやってきた、戦うメイドさんだったのです!」
そう言うと、彼女の体が眩しい光に包まれ、よくテレビで見かける、秋葉原のメイド喫茶の女の子のような格好に変身した。
………
そんなことがあるはずがない。なんだこの展開は。
我に帰ると、まだ空から降ってくる滝が轟音を立てており、目の前の景色はなにも変わってはいなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう?それすらも理解できないほど妄想の海に溺れていたようなのだが、彼女が立っていた場所に目をやると、彼女は広げ終えた折り畳み傘のカバーをハンドバッグにしまっているところだったので、どうやらほんの数十秒しか経っていないようだ。
彼女を眺めつつ、自分の妄想に馬鹿馬鹿しさと情けなさを感じていると、彼女が少々申し訳なさそうに歩み寄ってきた。
「あの…」
まさか。
「私、駅に向かうんですけど、もしよかったら一緒に行きませんか?傘ちっちゃいから少し濡れちゃうかもしれないけど…」
小さな傘に肩を寄せ合い、いろんな話をした。
雨は少しも弱まっていないが、彼女と歩く駅までの道のりはとても居心地がよかった。
「あのさ」
「はい?」
「モエモエ星って知ってる?」
「なんですかそれ?」
「いや、なんでもない」
彼女は突然変なことを言い出した俺の顔を見上げ、笑った。
「面白い人なんですね」
俺は、今朝の嘘つきに心から感謝した。