最終話
集会場は、少し寒かった。
椅子の脚が床をこする音が、やけに大きく響く。
誰もが上着を着たまま座っていた。
「では、取り壊しに関する説明に入ります」
前に立った管理会社の男が、書類をめくる。
その間、住民たちは周囲を見渡していた。
顔見知りばかり。
何年も一緒に暮らした人たち。
――1人だけ、違う。
後ろのほうに座っている男。
静かで、目立たない。
けれど、どこかで見たことがある。
「あの人……」
誰かが小さく言った。
───
名簿が配られた。
部屋番号と、世帯主の名前。
おばちゃんは、指でなぞる。
あれ。
あれ?
「……高瀬、って、あったかしら」
隣の女が首をかしげる。
「え? 高瀬さん? いるじゃない。ほら……」
言いながら、言葉が止まる。
どこにも書かれていない。
管理会社の男が言った。
「本日、傍聴として参加されている方が一名いらっしゃいます」
ざわり、と空気が揺れる。
「高瀬さんです」
後ろの男が、ゆっくり立ち上がった。
「私はこの団地の住民ではありません」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
「……え?」
「じゃあ、なんで……」
「前から、いたじゃない」
声が重なる。
高瀬は、深く頭を下げた。
「二年前まで、住んでいました。
家族と」
その言葉で、
何人かの記憶が、同時に動いた。
植え込み。
音。
声。
夜。
「……あの事故の」
誰かが言った。
高瀬は、うなずいた。
「屋上から、娘は転落しました」
淡々と。
「植え込みに落ちて、
すぐには、見つからなかったそうです」
“そうです”。
その言い方が、妙に冷たく響いた。
子どもは、足をぶらぶらさせながら思い出していた。
葉っぱの向こう。
声。
動かなかった自分。
女は、洗濯ばさみを留めたときの音を思い出した。
コツン。
おばちゃんは、
「解決したと思った」
自分の言葉が、頭の中で転がった。
「……気づかなかったんです」
誰かが言った。
「夜だったし」
「まさか、あんなところに」
言い訳は、自然に出てきた。
いつもの調子で。
高瀬は、否定しなかった。
責めもしなかった。
ただ、言った。
「そうですね」
それだけ。
「だから」
高瀬は、少し間を置いて続けた。
「皆さんが、ここでどんなふうに暮らしていたのか、
知りたかったんです」
ざわり、と息が詰まる。
「見ていました。
皆さんが、悪い人じゃないことも」
誰も、目を合わせられなかった。
「団地が、壊れる前に」
高瀬は、最後に言った。
「ここで、何が起きていたのか、
自分の中で、終わらせたかった」
それ以上は、何も言わなかった。
集会が終わる。
人々は、ばらばらに立ち上がる。
「かわいそうだったわね」
誰かが、言いかけて、やめた。
その言葉は、
もう、安全じゃなかった。
外に出ると、植え込みが見えた。
きれいに整えられている。
何事もなかったように。
高瀬は、立ち止まらなかった。
振り返らなかった。
団地は、静かだった。
助けを求める声は、
もう、聞こえない。
――だから、
すべては、解決したことになっている。




