第2話
洗濯物を取り込もうとして、手が止まった。
風が強かったわけじゃない。
ただ、植え込みの奥が少しだけ乱れて見えた。
葉が、重なり合う向きがおかしい。
誰かが踏み入ったみたいに。
「……猫かしら」
そう口に出した瞬間、安心した。
猫なら仕方ない。
この団地は猫が多い。
彼女は洗濯物を取り込む作業に戻った。
白いシャツ。
靴下。
子どもの体操服。
そのとき、下から音がした。
――コツン。
何かが落ちたような、
何かが当たったような、
判断できない軽さ。
彼女はベランダの手すりから身を乗り出した。
見えるのは、いつもの植え込みだけ。
「風、強いわね」
そう言って、室内に戻った。
夜。
子どもが寝つかず、何度も水を欲しがった。
時計は二度、三度と確認した。
その合間に、
かすかに聞こえた気がした。
「……う……」
声、だったかもしれない。
気のせいかもしれない。
テレビの音量を少し上げた。
子どもが起きるのが一番困る。
翌朝。
団地の掲示板の前に、人が集まっていた。
「大変だったわね」 「まさかあんなところに……」 「夜だったから、わからなかったのよ」
彼女は人の輪の外で立ち止まった。
植え込み。
昨日、乱れていた場所。
胸の奥が、少しだけざわついた。
でも、それはすぐに別の感情に置き換えられた。
――見てない。
――知らなかった。
――気づかなかった。
「事故よね」
誰かの言葉に、彼女はうなずいた。
事故。
その言葉は、とても便利だった。
その日の午後、
彼女はいつも通りベランダに出た。
植え込みは、きれいに整えられていた。
まるで、何もなかったみたいに。
彼女は洗濯物を干しながら、
ほんの一瞬だけ考えた。
あの音。
あの声。
でも、考えるのをやめた。
考えても、どうにもならない。
そういうことは、
世の中にたくさんある。
彼女は、洗濯ばさみを一つ、
強く留めた。




