第1話
男は夜勤明けだった。
靴を脱いで、時計を外して、
流しにコップを置いたところで、音がした。
どすっ。
高い音ではない。
乾いた音でもない。
下に落ちた、というより、
重さが一度だけ地面に伝わった感じ。
男は反射的に窓に近づいた。
三階。
植え込みは街灯の影に入っていて、
葉の表面だけが光っている。
枝が、少し揺れていた。
風はあった。
天気予報で強いと言っていたのを思い出す。
男は窓を少し開けた。
冷たい空気と一緒に、
何かが擦れるような音が入ってきた。
――ぎ、
――ぎ、
規則的ではない。
でも、一度きりでもない。
男は腕時計を見た。
二時を少し過ぎている。
「……猫か」
そう口に出したが、
自分でも確信はなかった。
この団地では、
夜中に音がすることは珍しくない。
空き缶。
ゴミ袋。
酔って帰ってきた誰か。
男は、もう一度だけ下を見た。
植え込みの奥は、
枝が重なっていて、黒く潰れている。
その時、
南口のほうで人が動いたように見えた。
はっきりとは見えない。
街灯が一つ、瞬いたせいかもしれない。
男は、窓を閉めた。
カーテンを引く。
その直後、
外の音は聞こえなくなった。
男は布団に戻った。
夜勤明けで、
体は重く、眠りは深かった。
朝。
ゴミ出しのために外へ出た。
植え込みの前を通ったが、
特に変わったところは見えなかった。
枝が少し、踏まれたようにも見えたが、
剪定が遅れているせいだと思った。
男は、
そのままゴミを出して戻った。
後になって、
あの夜の話になった時、
男はこう言った。
「音はしたけどさ。
南口のほうに人、いなかった?」
誰にともなく。
それ以上、
男は何も付け足さなかった。
それで、話は終わった。




