8. 居眠り常習犯と夜の密談
▽を区切りに視点が変わります。
イリリア→アズハル視点
吹き荒ぶ風が、容赦なく小屋に叩きつける。
五人程が寝泊まりできる大きめの小屋は、風雪が入り込まないように戸は二重構造で窓は小さく、室内は薄暗い。
ここは標高五千メートル地点。
雪原という表現が正しいだろう。辺り一面は雪に覆われ、崖下から凍てつく雪風が吹き上げる。
僅かに生える草木も雪で覆い隠され、景色は白一色。
周囲に大きな建物や樹木がない代わりに風除けとなる遮蔽物もないため、風がそのまま小屋へとぶつかってくる。
小屋でも一番広くて安全な部屋に置かれたイリリアは、備えてあった布団を肩から被り身を縮こまらせた。
保温性のある水筒から白湯を注いでくれたリヤーフが「大丈夫か?」と心配してくれる。
「さ……さむい………」
「霊峰が人間にとって登頂不可の土地なのはさ、竜人族のナワバリってのもあるけど、標高によって景色がガラッと変わるからなんだよな」
「拠点のある七千メートル地点へ行けば、驚くほど穏やかになりますよ」
新情報を優しく教えてくれたルトフに、「そ、そうなん、ですね……」と歯をカチカチさせながら頷くので精一杯だ。
当然ながらここは寒さに強い竜人族が使う小屋であるため、暖房器具は殆どない。
申し訳程度に置かれている毛布にくるまり、ベッドによじ登って底冷えするような寒さを凌ぐ事しか出来ない。
この辺りは警備隊の新人研修にも使われるそうで、研修中にホワイトアウトに巻き込まれて迷子になった新人隊員がよく今のイリリアと同じようなポーズで自己反省しているのだとルトフは懐かしげに語った。
イリリアの気持ちを軽くしようと警備隊の事やこの辺りの事を話してくれるルトフの声に耳を傾けていると、軽いノックと共に部屋の扉が開かれた。
普段は流している白く長い髪を珍しく一本に束ねたアズハルが「戻った」と帰還する。
「アズハル様、如何でしたか」
「先日の雷の影響か岩壁が崩れ落ちたようだ………飛ぶほどではないが、道を変えたとしても多少の負担はかかるだろう」
この拠点に着いた後、アズハルとルトフは何やら話し込んでおり、イリリアを休ませている間にアズハルが周辺状況の確認に出ていた。
聞けば、大きな岩壁が崩れて道を一部塞いでしまっているらしい。
山に慣れた竜人族の男であれば強行突破も可能だが、イリリアがその負荷に耐えられるかわからない。
迂回路を使いながら出来る限り進みやすい道を選ぶが、リヤーフも通過が難しそうであればルトフが背負って行くという事になり、次の小屋に至るまでの時間や経路を含めた計画が素早く立てられていく。
もしもイリリアが根性を見せて「頂上まで自分の足で登る」と言っていたなら、途中の休憩も含め、大幅に時間を食っていたことだろう。
だがイリリアは、カモシカの集落を出て高度を二百メートルほど上がったところで早くも降参した。
最初は五百メートルくらいなら登れるだろうと楽観視していたのだ。
けれど、出発直後にルトフから五百メートル上へ至るためには、少なくとも二キロは歩かなければならないと言われて絶望した。
霊峰の南側は、ある程度の高度までは比較的なだらかな勾配であるため、水平移動の距離が長くなるらしい。
寒くないようにとアズハルが用意してくれた外套は確かに温かいものの、裾が長く厚手で動きにくいし、平地で育ったイリリアにとって、いくら勾配が緩やかであってもゴツゴツとした岩場を登るのは至難の技。
集落を出てしばらくは岩が多くとも歩ける程度に均された道だったが、もはや道とも呼べない山場を数十分間這うように歩き続けた結果、イリリアは唯一の持ち物である杖に寄りかかりながらぜぇぜぇと荒い息を吐いてアズハルを呼び止めた。
「は、花嫁は、自分で歩かなきゃ、ならないって、ルール、なんですか?」
「………いや、特に定めはないと思うが…」
不思議そうに返された言葉を聞いて、膝から力が抜けて思わずしゃがみ込む。
「イリリア!?どうした、体調が………」
「もう無理ぃ……!」
抱っこ…!!と恥も外聞もなく、幼子がやるように大きく両手を掲げたのは最早反射的な行動だった。
急に抱っこをねだられたアズハルは困惑していたが、そこはすかさずリヤーフが的確なフォローを入れてくれる。
「多分、自分で歩かなきゃいけないと思って今まで無理してたけど、そうじゃないってわかって気が抜けたんだと思います。ここから上は今以上に足場が悪いですし、自力での歩行が必要な場所以外はアズハル様が抱えられてはどうでしょう」
「わかった……そうしよう」
「イリリア様、環境に慣れる必要がありますので、小屋に着いた後、周囲を少し歩いて貰うことになりますが宜しいですか?」
「登るのがしんどいだけなので、大丈夫です……!」
すかさず入ったルトフからの補足にも頷き返す。
アズハルの手前、再びルトフは尊称を付けて呼ぶようになったものの、その眼差しは以前よりも温かい。
集落にいる時、日中ルトフは巡回の仕事に出ていたため夕食時くらいしか交流がなかったけれど、こうして行動を共にすると、まるで出来の悪い娘を陰ながら支えてくれるお父さんみたいで、その頼もしさについつい甘えそうになる。
アズハルも終始気を遣ってくれるが、やはり種族的な違いに気づく視点でいえばルトフ親子のほうが抜きん出ている。
抱っこされたままたどり着いた最初の山小屋で、イリリアは盛大に嘔吐し倒れた。
慣れない山登りで疲労がピークに達していたことと、イリリアを抱えたアズハルの移動速度が思った以上に早かったためだ。
ルトフが時折声をかけて速度を調整していたが、それでも霊峰を住処とする竜人族の男三人の移動は早かった。
急な気圧変化と環境変化、疲労…いくつもの要因が重なり合って、イリリアは二度目の高山病を発症し意識を失ったのだ。
寝ている間に霊薬を飲ませてくれたそうで、目覚めたときにはある程度回復していたものの、大事を取って三日間の休息を挟んでから次の山小屋へと向かうこととした。
平謝りするアズハルを、じゃあお詫びとして暖房代わりにになってくださいと狭いベッドへ引き込んだのは苦肉の策でもあった。
(王族なのに床で寝ようとするから……)
小屋には部屋がふたつあり、それぞれにベッドも備えてあった。
ルトフ親子には悪いが、イリリアがひとつを使わせてもらい、アズハルがもうひとつを使うのが順当な流れであるはずなのだ。
なのに、イリリアに何かあってはいけないと同室に留まろうとするアズハルは、一人用のベッドをイリリアに譲り自分は床に座して寝ようとした。
だから、床に居るくらいなら湯たんぽになって欲しいと半ば無理やりベッドへ引き摺り込んだ。
ふたりで寝転ぶと出来るだけコンパクトに収まらなければベッドから転げ落ちてしまう。
正面からぎゅっと抱きつこうとすれば丁寧にお断りされたため、背後から抱き込んでもらい安全ベルトになってもらう。
狭くないか?嫌じゃないか?としきりに心配されたし、正直とても狭い。
狭いのは狭いけれど、別に嫌ではない。むしろ温かいし、寝相のせいでベッドから落ちるリスクは減ったし、誰かがそばに居てくれるのは心強い。
唯一悩ましいのはアズハルが物凄く早起きだということ。
日の出よりも早く起きているんじゃないかと思うくらい、空気がキンと冷たい時間に起き上がる。
夜明け前の一番冷える時間にベッドから居なくなってしまうから、少しだけ寂しくもあり……背中がスカスカで寒い。
雑談の合間にこっそりリヤーフに愚痴ったら、アズハル様に堂々と伝えられてしまった。
そしてその日のうちにどこからか毛布を一枚調達して来てくれて、翌日からはベッドを抜け出したあとにそれを重ねてくれるようになった。
次の小屋へ至る行程では、大きく回り道をして時間をかけて登ってくれたおかげか軽い頭痛くらいで済み、身体が馴染むのも早かった。
心配性なアズハルが念のため休息日数を増やすべきかと悩んでいたものの、次の段階から周辺環境が厳しくなるため、そちらで日数を取りましょうというルトフの助言を受け、進んだ三つ目の山小屋にて、イリリアは生まれて初めて体の芯から凍えるという体験をしている。
今朝の計画では、到着後少しの休憩を挟んだら周辺を散策しつつ身体を慣らしていく予定だったが、この風雪では見通しも悪く今外に出るのは危険だろうと、このまま長めの休息に入ることとなった。
携帯用のモソモソした固形食をもらい、白湯を飲む。
このような環境下では水も食糧も貴重で、どのような粗末さでも文句を言うことは出来ないけれど、やはりリームのお粥が恋しく思えてしまう。
「イリリアさ、移動中寝てただろ?」
「ごめん…すっごく心地よくて…」
アズハルの花嫁運搬力はこの上なく高い。
抜群の安定感と優しい気遣い。難所を通る時にかけてくれる低い声も心を穏やかにするばかり。
風雪地帯に入るからと毛布で包んで抱き上げてくれたおかげで、それはそれは快適な心地で、イリリアは眠気に誘われるままに目を閉じてしまったのだ。
順化のためにわざわざ同行してくれているルトフとリヤーフからすれば、信じられない出来事だっただろう。
ルトフにも「ごめんなさい」と頭を下げたところでアズハルが戻ってきた。
布団に包まったまま頭を下げたせいでダンゴムシのようになっているイリリアに、ぎょっとしたようだ。ルトフたちに「何かあったのか」と急いで確認している。
「移動中、あまりの心地よさにうっかり寝てしまったので謝っていました……皆さんが頑張ってくれているのに、私だけ……すみません」
「ああ…あまりに静かだったから心配していたが、寝ていたのか」
「すやすやでした…」
アズハルもルトフも気にしなくていいと言ってくれるし、リヤーフも怒った様子はなく「霊峰に来る前も寝てたって言ってなかったか?」と呆れた様子だ。
アズハルの運搬力が高いのもあるが、自分のあまりの緊張感のなさにガッカリしてしまう。
「移動も全部任せきりだし、こんなの前代未聞ですよね……」
しょんぼりしていると、記憶を探ったアズハルが優しくフォローしてくれる。
「ナマケモノ族が花嫁として迎えられた時は、抱えての移動が基本だったと記されていた気がする」
「彼らは四肢の力が弱く、滅多に立ち上がらず歩行もしないと聞きますからね」
「ナマケモノと一緒……」
「移動中に好き勝手動き回られる方が、俺としてはしんどいかな」
「ああ…叔母上の花婿は豹族だが、プライドが高く指示されるのを嫌う性格らしく、移動中は散々振り回されて大変だったようだ」
うわぁ…と嫌そうな顔をしたリヤーフが、こちらを向いて小さく頷く。
「イリリアは寒がりだけど周辺の散策もサボらないし偉いよ」
急に褒められて、嬉しい半分照れ臭い半分になる。
にやけてしまう顔を毛布で隠しながら「ありがとう」とお礼を言う。
小さなことを褒めてもらえるだけで頑張ろうという気持ちになるのだから我ながら現金な性格だ。
雑談がてらアズハルの叔母とその花婿のことを聞いていると、山を勢い良く駆け上がろうとして倒れたり、食事が粗末だと暴れたり、行為の伴わない共寝を嫌がったりと…聞いているだけで辟易としてしまう振る舞いだった。
つい「ひっついて寝た方が温かいのに…」と呟けば、アズハルからは苦笑され、リヤーフからは呆れた視線を向けられてしまった。究極の寒がりだって言われるけど、動物のような毛皮もなければ防寒仕様の鱗も持ってないんだから仕方がない。
ベッドの側に腰を下ろしたアズハルが、明日の予定やこの先の行程を説明してくれる。
地図のようなものを広げているようだがベッドの上からではうまく見えないため、布団を巻きつけたままベッドを降りてアズハルの膝の上によいしょと座った。
ここで、「重い」という文句は頑固として受け付けない。
イリリアは決して羽根のように軽い体重ではないけれど、移動中も軽々と持ち運んでくれるから、竜人族は力持ちだと信じている。
「寒いのでくっついてていいですか?」
「その、ルトフたちの目があるのだから…」
「アズハル様、ここには私とリヤーフしかおりません。どうぞ今は花嫁様に寄り添って差し上げてください」
ルトフの言葉を受けて、アズハルは躊躇いながらも腰からお腹あたりに腕を回して支えてくれる。
すぐそばで聞こえる低く落ち着いた声と、険しい山道でもここに居れば大丈夫と思える逞しい体躯、僅かに感じる拍動と、じわりと温まる胸の内側。
なんて優しくて安心できる空間なのかしらと、窓を叩く風の音を遠くに聞きながらイリリアはゆっくりとまぶたを落とす。
うとうとし始めたことに気づいたのだろう、膝から転げ落ちないようにと引き寄せてくれるアズハルと、「道のり聞かなくて大丈夫なのか…?」と呆れ気味に呟いたリヤーフ、そして薄手の毛布を追加で掛けてくれたのはルトフだろう。
身体は寒さで震えているけれど、みんながそばに居てくれるから、心まで凍える心配はしなくて良さそうだ。
急激に変わる環境に順応しようとしているのか、何もしていないのに身体は疲れ切っていて、柔らかな休息を求めている。
意識が闇に溶けきる前にどうにか「おやすみなさい」と呟いたけれど、みんなに聞こえたかは定かではない。
▽
「眠られましたか?」
と穏やかに問いかけてきたルトフに頷き返す。
今でこそ家族思いで穏やかな父親という立ち位置だが、かつては高所警備隊の副隊長を務めており、アズハルが成人して近衛を持てるようになれば是非に…と思っていた程の人物だ。
彼が異種族に恋をしたため中腹へ下りたいと申し出た時、一体何人がその身を引き留めようとしたことだろう。
獣人族に対する偏見はさほど強くないものの、天上での地位や生活を捨ててまで一緒になるほどではない…と考える者も少なくない。
霊峰に居る獣人と恋愛はできても婚姻までは…という風潮が根強く残るなか、唯ひとりを決め、何もかもを捨てて天上を離れたルトフの生き方に、アズハルは言葉にならない感情を抱いた。
だからこそ、成人後の見合いの場で、霊峰に住む竜人族のなかに自分にとっての運命の花嫁が居ないとわかった時、いずれ他所から迎えるかもしれない花嫁の順化に協力して欲しいと真っ先にルトフを頼った。
低地ではなく中域の警備隊に戻したのも、こうして花嫁の順化の行程に同行できるようにという打算があった。
それに、低地の警備はやはり他に比べて侵入者との遭遇率が高くなる…怪我をして欲しくないという情けない願いを持ったのも確かだ。
ルトフも気づいているだろうが、彼は何も言わずに、順化の補佐と警備隊への復帰を受け入れてくれた。
花嫁を預かることは約束してくれたものの、どのような待遇をするかは相手を見てからにさせて欲しいと言われていた。家族と合わない場合は、別の集落へ移って貰う事になるとも。
ルトフの人柄を信頼していても、やはり不安はあった。
彼からすれば一番に守るべきは妻子であり家であり彼らの住む集落だ。
万が一にも花嫁に対して理不尽な振る舞いをするようであれば彼を罰さなければならなくなる。信頼できる古い知人を苦しめるような真似はできるだけしたく無かった。
だが、そんな懸念は杞憂だった。
花嫁が人間であることに驚きはしたようだが、イリリアの性格を見定めたうえでちゃんと対処してくれた。離れに閉じ込めずに妻子と交流しながら生活できるよう取り計らってくれたことには感謝しかない。
(イリリアが彼らに受け入れられる気質であったのも大きいか…)
顰め顔で眠るイリリアの髪を軽く撫でる。
彼女から初めて頭を撫でられた時のことを思い出し、思わず頬が緩んだ。
「…………堪らなく可愛い。こう……小動物が丸まっているかのようだ」
「寝入り端の『竜に羽毛があれば…』って発言は完全にアズハル様を羽織物として認識してる感じでしたね」
「リヤーフ、不敬が過ぎるぞ」
「はは。構わない。寝言のようなものだし、イリリアも悪気があって言ったのではないだろう……それに、いつも素直で面白い」
彼女のなかで竜とは幻の生物なのだという。御伽噺や物語に出てくる謎めいた生き物で、怖いというよりも不思議に思う気持ちが強いそうだ。
人間の描く理想や想像との差異もあるのだろう。たまに少しばかり不満そうにしていたり、不可解そうに首を傾げられることはあるものの、だからといって人間側の主張を無理やり押し付けられたことはない。
ルトフたちも、だからこそ彼女を受け入れ易かったのだろう。
「時々やはり…価値観や常識の違いは感じるが、そういうものは歩み寄れば理解し合える。寒いときに羽織となれる男が彼女にとっての良き夫であるのなら、いくらでも羽織物扱いされて構わない」
人間からすれば、いくら結婚の為とはいえ、このような環境に連れて来られる方が余程不満に違いない。
けれどもイリリアは天上へ向かうまでの行程にひとつも文句を付けない。
ルトフたちの手前、気恥ずかしくもあるが、こうして身を寄せてくれて安心したように眠る姿は可愛いばかりだ。
リヤーフを部屋に下がらせ、イリリアを抱えたままルトフと少しだけ込み入った話をする。
アズハルの近くで異種族と婚姻を結んだ者は、ルトフと竜帝の妹である叔母くらいのものだ。
叔母の伴侶は花印を持つ花婿ではあるものの、肉食の獣人族で気性が荒いことで有名だ。
性別的にもルトフの話の方が参考になるため、時間を見つけては経験談を聞かせてもらっている。
驚くべきはやはり、妊娠や出産に関することだろう。
竜人族は基本的に生涯ひとりしか子を産まない。
時間と手間をかければふたり産むことも不可能ではないが、そこまで熱意を持って子作りに挑む夫婦は稀だ。
だがルトフには既にふたりの子がおり、望めば更に成すことも出来るという。
「リームの肉体的な負担も大きいので…」とこれ以上を望むつもりは無いそうだが、天上に残された記録のなかにも、獣人族の花嫁は竜人族に比べて多産であったという記述は多い。
だが、やはりそれは、あくまで獣人族に関する情報だ。
これまでに人間を花嫁として召し上げたという記録は一度きりしかない。
王宮に残るその記録は途中から曖昧になり、花嫁は隠遁生活の末に早逝した…あるいは天上を下りて行方をくらませたとされ、記録も不自然にぷつりと途絶えている。
記録の限り、その花嫁が産んだ子の数は三人。それも竜人族が子を身籠る期間を考慮すれば、驚くほどに短い期間で産んだとされる。
人間や獣人族は竜人族に比べるとひどく短命である。けれど、霊草を取り込む事で寿命は伸びるというのが通説だ。
ルトフの妻であるリームも、本来の寿命を鑑みればそろそろ危険な時期に入る頃だが、うまく霊草を取り込み続ければあと二十年は生きられるだろう。
滞りなく順化が済めば、竜帝への謁見を済ませたのち、様々な儀式がおこなわれる。
その中に初夜と呼ばれる『授与の儀式』がある…いわゆる夫婦で営みをおこなうものだ。
花嫁への肉体的な負担やその先の事を考えると、従来通りに儀式を進めてよいものか悩ましくもある。
絶対数の少ない竜人族にとって、新たな命の誕生は大いなる喜びであり悲願でもある。
だからといって、産める者に多く産ませよという一方的な考えには賛同できない。
自分の妻となった女性が『産める者』であるからには、余計に。
眠るイリリアを大事に抱えたまま考え込んでしまったアズハルの背中を、ルトフはポンポンと叩いた。穏やかな眼差しには年長者としての経験が宿る。
「考えすぎてもどうにもならない事もあります。それに、女性はこういった事に対して我々よりも遥かに肝が据わっていて、いざという時に覚悟を決めるのも早い。
夫婦での話ですから、アズハル様がおひとりで悩まれるのではなく、イリリア様としっかりお話しなさったほうが良いでしょう」
「そうだな……イリリアは私より余程肝が据わっているのは確かだ。だが時々、自分の身を軽んじていないかと心配になることもある」
「私もリームと婚姻したときにはそう思ったことがあります。特に肉体的な交わりに関して、もっと自分を大事にしろと……ですが彼女がいうには、愛の交わし方は十人十色であり、竜人族には無いやり方や考え方がカモシカ族にはあるのだと、耳にタコが出来るほど言い聞かされました。
カモシカ族には発情期がありますからね……大きな声では言えませんが、正直今でも、その時期の妻の迫力には少々恐怖を抱きます」
「………人間にはあっただろうか」
「一説では、人間は年中発情期だとか。信憑性はありませんが…」
「そうか……」
霊峰に咲いていた竜胆の花を捧げた日に、額や目元に口付けられたことを思い出す。
キスもしてはいけないのかと首を傾げる姿は心底不思議そうで、禁止されていないのなら就寝前に抱擁や頬への口付けをしたいと告げられた時の微笑みには有無を言わさぬ迫力すら感じた。
その前にも、無防備に衣服をはだけさせる姿に何度懊悩したものか。
おそらく、人間であるイリリアと竜人族である自分との間には大きな常識の違いがあり、ルトフたちのように擦り合わせておくべき事柄が数多くあるのだろう。
(だが、ひとまず今は順化を終わらせるのが優先か……)
寝息を立てるイリリアは、倒れそうなほどの顔色ではないものの、疲労は溜まっているに違いない。
ルトフの家で共に眠っていた頃のイリリアはたくさん寝返りをうち、大きな寝台の上をジタバタと動き回ったあと、明け方には端っこに丸まって寝ていることが多かった。
あれを元気な証だとするならば、身動ぎもせずじっと縮こまって眠る今はあまり元気がないのかもしれない。
天上にさえ至れば、また大きな寝台で悠々と眠れるようになる。それまでの辛抱だとイリリアの髪をそろりと撫でる。
相変わらず折れてしまいそうなほどに細く小さな身体ではあるが、出会った当初に比べると随分と身綺麗で健康的な顔になった。
花からの呼びかけを受けて降り立った地で、湖の中、月下に佇む姿は細く儚く……ともすればこのまま、水に溶けて消えてしまうのではないかと思ったほどだ。
その後に聞いた彼女の境遇は到底信じられるものではなく、自分の花嫁がそのような苦難のなかにありながら気づけてやれなかったことを悔しく思った。
人間であることも、不遇な身の上にあったことも、ルトフの元へ預けるには不安の種ではあった。
だが、霊峰という見知らぬ土地に連れて来られ、どこか非現実を彷徨うかのような表情を浮かべる彼女を委ねられる場所は、他に考え付かなかった。
「これまで沢山苦労を重ねたのだろう……早く、安らげる地へ導いてやりたいものだ…」
「アズハル様も……今日まで苦難の日々を過ごされたことでしょう」
顔を上げれば、柔和ながらも鋭い色を隠し持つ瞳が向けられていた。
そこに浮かぶ労りに、苦く笑い返す。
彼が自分の近衛として隣に居てくれたならと、これまで幾度思ったことか。
「ルトフ以外に花嫁の預け先を考えていなかったから……うまく対応してくれて助かった」
「イリリア様のお人柄ゆえですよ。リームから、ハウラが失礼をしたと報告を受けたときはヒヤリとしました。それに、リヤーフも不適切な発言をしたようで…」
「イリリアから何か訴えかけがあれば補佐役から外すべきかと思ったが、その後も問題なく接しているようだったからな」
「親の心子知らずといいますか……お花様に対してあまりにも遠慮ない態度を取るので肝が冷えるばかりです」
「そうやって、子どもに振り回されるルトフを見るのは愉快だな。
態度や物言いに関してはイリリアがそうして欲しいと願ったからだろう……リヤーフは聡い。きちんと弁えている」
「そう言っていただけて安心しました」
成人後は天上に来ないかと言いたいくらいだが、彼は家族の元を離れないだろう。
それに、花嫁がリヤーフと仲良くしすぎて自分が嫉妬する未来がありありと見える。
「……花嫁が見つかったと報告したとき、兄上からはあまりいい顔はされなかった」
「私にはアクラム様の御心がわかるような気もします」
視線だけで先を促す。
花を得ることは王族として生まれた者にとって悲願ではあるが、それを喜べない理由があるとすれば、十中八九、自分の出自が関わるのだろう。
「アズハル様は竜帝陛下から政治に関わらぬようにと命じられておりますが、それでも第二王子であるというお立場は変わりません。姉君である第一王女殿下に花婿も子もいない現状では、王太子殿下とそのご子息の対抗馬として立てるのは貴方だけです」
やはりな…と、生まれてから今日までずっと巻き込まれている面倒事のことを思う。
生母から離され、半ば隔離するかのように父の実家で育てられたが、それもこれも、この身が政治的に利用されないため。
成人してからはさすがに王族としての仕事を任されるようになったが、父がもともと治めていた南側の管理を引き継いだに過ぎない。
私の花嫁が同族内では見つからなかったと報告した時、兄上は小さく安堵したあと「悪かった」とその態度を謝罪した。
あの頃は少々反抗的な気持ちが芽生えもしたが、花嫁を得た今ならばわかる。
兄上だって自分の花嫁が窮地に立たされるのは嫌だし、守りたいと思っているのだ。
もしも私の花嫁が竜人族であった場合、政治的ないざこざはより顕著になっていただろう。竜帝の正妃や兄上と対立するような構図を作られていた可能性は大いにある。
もちろん人間だからといってイリリアがその問題に巻き込まれないとは限らないが…。
ルトフも同じ考えなのか、苦々しい表情で言葉を続けた。
「花嫁を得たとなれば、否が応でも政治的な局面に巻き込まれるでしょう」
「だが、父上がそれを許しはしない。私はそのような約束のもとで生まれたのだから、それを無視するような振る舞いは竜帝陛下の意に背くのと同義だ」
「だとしても……北の動きには重々ご注意ください。それと……ナスリーン様とはいつ頃ご面談のご予定でしょうか」
「極力会わせたくはない……が、イリリアが天上に馴染んだら一度会わせておかねばならないだろう。……彼女が離宮で大人しくして居てくれるのが一番なのだがな」
「血統思想が強くていらっしゃいますからね」
「面倒なだけだ」
本来関わらなくて良いはずの面倒事が浮上するたびに嫌気が差す。
花嫁のことだけを考えて生きれたらいいのにとため息をこぼせば、ルトフの苦笑が深まった。
イリリアの胸元にかけた布団がずり下がったため、寒くないよう引き上げる。
柔らかく温かな存在が腕の中にある……それだけが救いだ。
「次の拠点を最後に、我々は離脱致します。この先は緊急時に備えて医師も必要となるでしょう」
「蛇人族の者ではあるが控えさせている。それに、兄上が王宮仕えの女をふたり付けてくださるそうだ」
「その者たちがイリリア様の侍女となるのですか?」
「いや、彼女らはあくまで天上へ至る前の補佐役でしかない。専任の侍女はこちらで手配しているが、今は離宮を整えさせている」
「早めに侍女を合流させた方が良いかもしれません。過酷な環境下で支え合うことにより主従関係や絆は強まりますので」
「そうか…全員を寄越すわけにはいかないが、ひとり下りてこちらに合流するよう伝えておこう」
「警護の者は?」
「拠点に置くのはルトフが警備隊を抜けてから入った者だ。まだ若いが、忠誠心は高い」
成人し、本格的に南側の管理を任されるようになった頃から正式に近衛を置けるようになった。
だが、竜帝の第三子で第二王子という立場上、兄や姉を上回るほどの武力を側に置いておくことは許されない。
ゆえにアズハルの周囲の人材は豊富とはいえないのが現状だ。
けれども数が少なく厳選されているからこそ、結びつきは強く、アズハルを心から慕い支えてくれる者も多い。
「本当はカイスに頼みたかったが……」
再びため息を零しかけたところで、イリリアが身動ぎをして胸元に額をぐりぐりと押し付けてきた。
どうして良いか分からずルトフを見れば、顎に手をあてて「おそらく甘えておられるか…姿勢がつらいかのどちらかでしょう」と言う。
「一緒に横になられてはいかがでしょう。見張りはお任せください」
「このまま共に眠って嫌がらないだろうか」
「嫌なときは抜け出すのではありませんか?リームは共寝を嫌がりますから、こればかりはあまり助言が出来ませんね…」
「……そうなのか?」
「カモシカ族は発情期以外は淡白なものですよ」と衝撃的な事を言われ、思考が固まっているあいだにベッドへ寝転ぶよう促される。
他種族が発情期以外は共寝をしないというのなら、人間が一年中発情期でむしろ良かったのかもしれない。万が一にも理由なく共寝を断られたら、心穏やかではいられないだろう。
身を横たえると、イリリアがころりと寝返りをうった。
「ああ、ほら…あまりそちらへ行っては転げ落ちる…」
一人用のベッドでは一回転できるほどの余裕はない。慌てて手を伸ばし、腹部を緩やかに引き寄せる。
その様子を微笑ましく見ていたルトフが、布団や毛布を重ねて掛けてくれる。
「こんなに布団を被られていては、暑いでしょう」
「イリリアが風邪を引くといけないからな……確かに熱は籠るが、起きてすぐ身体を冷やせばどうにかなる」
まさか早朝に布団から出て身体を冷やしているあいだにイリリアの背中が冷えているとは思わず、リヤーフから聞いた時はあの枚数でも足りないのかと驚いたほどだ。
就寝の挨拶を交わし、ルトフの去った部屋で『この先』のことを考える。
休息の重要性はわかっているものの、先ほどの話し合いのせいか、頭の中ではぐるぐると思考が絶え間なく巡り。
今宵はあまり眠れないだろうな…と思っていると、ひっついたまま眠っているイリリアが不意に、くふふ…と笑った。
夢を見ているか、ただの寝言なのだろうが、その愛らしさに頬が緩む。
腕の中でもぞもぞと小さく動いたかと思えば、収まりの良い場所を見つけたのか動きが止まり呼吸が深くなった。
(なんと愛らしいのだろうか…)
花嫁や花婿として迎え入れたとて、相手が他種族の場合、警戒されてなかなか心を開いてもらえないことも多いと記録にはあったし、実際に叔母はそうであったと聞いていた。
だがイリリアは、出会ったその日に警戒を解き、深くアズハルを信頼してくれた。
決して裏切らないと花印に誓いを残し、
心身の疲労や不安から花印に触れたいと望めばおおらかに受け入れてくれる。
儀式が済むまではアズハルが手出ししないと知っているからか、時折ツンツンとつつくように揶揄ってくることもあるが、引かれた線の内側に踏み入ってくることはない。
柔らかな身体と薄く香る花のような芳香に、心が溶かされるようだ。
疲れを残した顔で居てはイリリアが心配するだろう。
「おやすみ…」と囁き、温もりを抱きしめるように深く息を吸って目を閉じる。
意識はいつの間にか、穏やかな闇の中に沈んでいた。