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7. 雷鳴と告解




「イリリア、明後日出発予定な」


「へ?」


突然のリヤーフからの宣言に、素っ頓狂な声が出てしまった。

リヤーフは座談会用の白湯を準備しながら「アズハル様から聞いていないか?」と首を傾げる。


「ここの環境に慣れたみたいだし、ひとつ上の山小屋に移動して、また身体を慣れさせるんだ」


「そういえば…徐々に慣らして行くんだっけ?」


「そう。だいたい五百メートル毎に警備隊の駐在所があるんだけどさ、そこで一泊か二泊くらいしながら少しずつ上を目指してく。標高七千メートル地点に大きな拠点があるから、ひとまずそこが目標かな」



先日、霊峰に咲いた花を取り込んだことでより一層身体が馴染みやすくなったと言われているが、その効果はイリリアにも感じられる程だった。

今までは一歩一歩踏みしめてのろのろと移動するので精一杯だったのに、息切れもなく普通に歩けるようになった。足場の悪くない場所ではスキップだって出来る。


リヤーフも「凄いな」と感心していたし、何より、それを聞いたアズハルがとても嬉しそうに顔を綻ばせたのがイリリアにとって喜ばしかった。



(私の苦痛を減らすために頑張ってくれたんだもの…)



花を見つけ終えてからのアズハルは明らかに疲労感が減った。

とはいえ、今度はイリリアを天上へ迎える為の準備が本格的に始まり、侍女を選別して離宮を整えさせたり、生活に必要そうなものを全て整えたりと色々手配してくれているらしい。

そして何より、ここから上へ向かう行程ではアズハルが付きっきりとなる。

必要な執務を前倒しで済ませておいたり、部下に割り振ったりと、今は花探しとは別の忙しさに見舞われているようだ。



「明日ハウラ姐さんが必要な物資を届けに来てくれるから、準備が出来次第、上に向かう事になると思う」


「リヤーフたちとはお別れってこと?」


「俺と父さんは五千か六千メートル地点くらいまでは一緒に行くよ。でもそれから上は管轄外で立ち入りが出来ないから、アズハル様が別の人達を待機させてると思う」



ルトフは霊峰中腹を哨戒する警備隊に所属している。三千メートルから六千メートル付近までは巡回路として往来することができるが、それより上は別の警備隊の管轄になるため立ち入りが許可されない。

もちろんアズハルが特例として許可すれば天上(さいご)まで同行する事も可能であるけれど、リームやラシャを集落に残したまま同行する以上、ルトフはそれを望まないだろう。

リヤーフはイリリアの補佐役であり、イリリアの体調変化にも気付きやすいだろうという事と保護者(ルトフ)も居るからという事で同行を許されている。



「上に行ったらもうここには戻って来れない。気になる場所があるなら今日か明日連れてくな」


「戻って来れないんだ……リームさんのお粥が恋しくなりそう」


「順化が進んだら、あんまり食事も必要にならないそうだし大丈夫だろ」


「そうなの?」


「天上に住む竜人たちは霊草と清らかな水を口にするだけで、食事はあまり摂らないって父さんが言ってた。イリリアはまだ取り込める霊草の量が少ないから穀物とか野菜で不足分を補ってたけど、ここ最近は、前に比べるとずいぶんと霊草を食べられるようになってる」


多分、霊草の味ももう殆ど感じてないんじゃないか?と言われ、知らない間に自分の身体の内側が変化しているとわかって驚いた。

これだけの効果があるなら、アズハルが必死で花を探し回ってくれた理由もわかる気がする。



「そういえば母さんが、お別れの前にイリリアに話しておきたいことがあるから、今日か明日時間が欲しいって」


「私はいつでも大丈夫だから、リームさんの手が空いたときがあれば声を掛けて貰えるかな」


「わかった、そう伝えとく」


基本的に日中は母屋(おもや)で過ごしているため、話をする機会はいくらでもあるだろう。

リームと二人きりで話をするのは、イリリアが離れに閉じ籠って以来だ。

改まってどんな話をするのかな…と気になる一方で、『お別れの前に』という言葉が、心の端っこに悲しく引っ掛かった。






夕飯を終えて離れで寝支度を整えていると、いつも通り枕を持ったアズハルが訪ねて来た。

律儀な夫を笑顔で迎え入れ、今日の出来事や明後日から始まる順化の第二段階について話をする。

霊峰は上に行くほどに過酷な環境となる。

駐留予定の小屋の設備では十分に休めないかもしれないとアズハルはしきりに心配してくれるけれど、屋根と壁があるだけ野宿よりはマシだろう。

あの実家からの逃亡生活は思いがけず自分を逞しくしてくれたようだ。



霊峰に咲いた特別な花を貰った翌日、イリリアはアズハルにひとつのお願い事をした。

アズハルは渋面で物凄く考え込んでいたけれど、生真面目に悩んだ結果、「イリリアが無理しない程度で…」と許可してくれた行為だ。


お互いの就寝準備が整ったことを確認して、正面からぎゅっと抱擁しあう。

アズハルが悩ましげに目を閉じ、少し屈んでくれたのを合図に、イリリアは狙いを定めて背伸びをする。

「おやすみなさい」と囁きかけ、少し冷たい頬に唇を触れさせる。

背伸びを解けば、長いまつ毛に縁取られた瞼が開かれ、美しい夜の色が覗いた。


就寝前の頬へのキス。


もう三度目なのにまだ慣れないのか、アズハルの表情には照れと困惑が交じる。


「……おやすみ」


「素敵な夢を見てくださいね」


まだ抱擁は解いていないため、むぎゅっと抱きついて頬を寄せる。

アズハルは控えめに抱擁を返してくれるものの、どのタイミングで離れていいのかがわからないようで、あまり長い時間くっ付いていると困り果てた声で「イリリア…」と名を呼ばれてしまう。


(そういうところも、可愛いのだけど…)


目の前に居る純情かつ素敵な男性が自分の夫なのだと自覚するほどに、愛でたくて堪らない気持ちが湧いてくる。


ただ、イリリアの寝相に問題があると判明して以降、正面からむぎゅっと抱き込んでの就寝については慎重にタイミングを窺うことにしている。

疲れ果てている人を最悪の寝相で蹴り飛ばしてしまうわけにはいかない。

昨日も夜中にガクンと揺れた気配で目を覚ましたら、ベッドから落下しそうになっていた。アズハルが腕で引き留めてくれなければ床で顔か頭を打っていただろう。

優しいアズハルは「離宮の寝台はもう少し大きいから」とフォローしてくれたが、少なくとも三人は並んで眠れるサイズの寝台から転げ落ちるのだから、離宮の寝台がいくら大きくとも落ちゆく宿命な気がしている。


(実家では、薄い布団を床に敷いて寝ていたから…)


掛けて寝たはずの毛布がクシャクシャになって放り投げられていることはあったけれど、不思議と朝目覚めた時には薄い敷布団の上にお行儀よく戻っていたため、まさか夜中にひとりで転げ回っているとは思わなかった。


アズハルを蹴り飛ばさないようにしっかり距離を取って寝れば、寝返りと共に寝台の縁から転げ落ちることになる。かといって、堂々と中央に陣取るわけにもいかない。


今日もお行儀よく上を向いて目を瞑るアズハルの横顔を眺めながら、誰かと一緒に眠るのは難しいわ…と儚い気持ちになる。


今のところアズハルが全く気にしていないのが救いだけれど、続けばウンザリする事もあるだろう。



(でも、気にしないで居てくれるなら、今くらいは一緒に寝れたら嬉しい。いつまでも隣に居てくれるとは限らないから……)



天上への道が拓かれるたび、イリリアの胸には安堵に似た喜びと、一抹の不安が広がっていく。

それは恐らく、天上へ至ったなら、今とは違う『王族』としてのアズハルと直面しなければならないという、必訪する未来への怯えなのだろう。


(今は花印を持つ花嫁として優先してくれているけれど、アズハル様は王族だから………王族として果たすべき役割がある以上は、私だけを相手にしていれば良いという訳ではないはず……)


故郷にいた頃でさえ、王族や宮廷生活というものは遥か遠い存在だった。

噂で流れてくる王や王子らの話はどこか空想的かつ非現実的で、人々は、面白おかしく脚色された噂話をどこまでが真実かも知らぬまま、口々に囃し立てていた。


イリリアの生家は武門の家系であったこともあり、父親や兄は宮廷に出仕する騎士や政治家とも多少の縁があったようで、彼らの口から語られる王族や政治家たちの姿は市井で聞くものよりもいくらか生々しい響きがあった。


だから……とイリリアは隣で眠るアズハルの横顔を見つめる。


王族でありながら、何も持たないイリリアにこんなにも真摯に向き合ってくれる存在(アズハル)と出会えたことは、本当に奇跡的なことなのだろう。


大切にしたいと思う。

望まれることがあるのなら、出来る限り叶えてあげたいと思う。


全く知らない異郷へ行くことに不安がないとは言わないが、それでも。

花嫁を天上へ迎えることがアズハルの望みであるのなら、たとえ多少の無理をしてでもそこへ至るべきなのだ。



「………今だけでも、もう十分すぎるほどに幸せだから」



この幸せを返すためにも、明後日からの行程は頑張らなければ。



今日は寝台から転げ落ちませんように…と願いをかけて目を閉じる。

暫くは悶々と頭の中でいろんな考え事が浮かんでは消えていたけれど、気づけばすっかり深い眠りに落ちていた。







そして、天が割れるほどの轟音と振動で目を覚ます。






「きゃ…!?」



ドォン、バリバリバリ…と大きな音が辺りに轟いた。

霊峰全体が揺れたのでは!?と思うほどの衝撃を感じて跳ね起きたイリリアは、隣から伸ばされた腕に抱き寄せられる。



「イリリア、こちらに……」


アズハルも目覚めたらしく、その表情は僅かに険しい。

普段よりも強い力で引き寄せられた事に気づき、何か不測の事態でも起きているのかしらと身を強張らせた。


再び天が怒りの咆哮をあげる。

轟音と同時に窓の外に目が眩むほどの稲光が走ったことで、落雷なのだと気づく。

ただ、普段耳にする雷よりもずっと鋭く、破壊的な音がしているため不安が募る。

肩を抱いてくれているアズハルの手に手のひらを添えて見上げれば、「ここは大丈夫だから」と宥めるようにポンポンと軽く叩かれた。

その言葉と仕草に、少しだけ身体の強張りが解ける。



「急に天気が悪くなったんですか?こんなに大きな音で雷が落ちるなんて……」


「怖いなら耳を塞いでいるといい。それと…少し、部下を部屋に入れるが構わないか?」



尋ねられると同時に、コンコンと小さく扉がノックされる。

これまで頑なにイリリアと会わせようとせず、離れの外で待機させていたアズハルが部下を立ち入らせるというのだから、それだけの事が起きているのだろう。

了承を示すために頷けば、「ありがとう」と頭からすっぽり毛布を被せられる。

どのような事態であれ、寝間着姿のイリリアを見せるつもりはないようだ。



「失礼致します。花嫁様との貴重なお時間を割くこととなり申し訳ありません」


「よい。夜間ゆえ報告は簡潔にせよ」


「低地の夜間哨戒班よりご報告です。標高二千メートル付近に人間が侵入したため排除したとのこと。侵入した人間の数は四名…他に同行者がいないか、地域集落への被害も含めて確認中です。また、討ち漏らしがないよう、落雷にて帰路を断ったようです。賊の一名は直撃により絶命したと聞いております」


「サイル!」


「同族が排除されたのです、花嫁様の心中お察し致しますが、正確に報告申し上げるべきかと…」


「余計なことは言わなくていい、下がれ!」



普段では絶対に聞かないようなアズハルの鋭い声で退出を命じられた部下は、素直に従ったようだ。

静かになった部屋の中で苛立ち混じりのため息が聞こえたため布団から顔を出せば、眉を寄せて苦しげな表情をしたアズハルが「すまない」と謝罪した。



「聞かせるべき内容ではなかった…不愉快な気持ちになっただろう」


「いえ……霊峰に人間が立ち入ってしまったのですか?」



重々しい頷きによって肯定される。

リヤーフから、たまに人間が霊峰を登ろうとすることがあると聞いていたけれど、ここまで大ごとになるとは思わなかった。


(でもまあ……竜人族からすれば勝手に国土に入られたようなものだもの…)


霊峰は聖域であり禁域だ。

禁止区域に強引に立ち入った者に裁きが与えられるのは、人間社会に於いては因果応報として受け止められる。それに、他国へ無断で立ち入った者が兵士により排除されることも珍しくはない。


そう告げれば、アズハルの表情が少しだけ緩んだ。それでもまだ、霊峰に入った人間を悉く排除したという報告を聞かせてしまった事を心苦しく思っているようだ。


イリリアはアズハルの肩に凭れるように寄り添い、指と指を絡めるようにその手を握る。



「人間が二千メートルも登って来るのは珍しいことなのですか?」


「いや…実はそう稀なことではない。信仰の為にと請われ、千メートル地点までは霊峰の一部を解放しているが……境界と定められた地点よりも上へ登ってきた場合は、排除の対象となる」


「全員?」


「ああ……全員だ。なかには純粋な登山者も居るのだろうが…入山者の多くは、希少な動植物を求める密猟者(ハンター)だ。

彼らはかつて無害な登山者や研究者を装って霊峰に立ち入り、山肌を傷つけ集落を襲った…ゆえに、不法侵入者は誰であれ、見つけ次第すべて排除することになっている」



イリリアに対してどこか申し訳なさそうな響きを持ちつつも、これまでの被害を憂い、これ以上の暴挙は許さないという確固とした意思の宿る言葉を受け、イリリアはアズハルの手をにぎにぎしながら頷き返す。


規則を破って他者の領域に無断で立ち入った挙句、許されざる暴挙を働こうとする人間こそが悪いのだと、イリリアにもしっかり理解できる。



人間が排除されたことよりも、対峙した竜人族の隊士が怪我をしていないかが気になるということ。

落雷で霊峰が傷ついていないか心配であるということ。

そして何より、この集落に危険な侵入者が来なくて良かったと安堵していることを伝えると、ようやくアズハルの顔から強張りが解けた。


握っていた手を持ち上げて、その甲に小さな口付けを落とす。


「事態が落ち着いたのならもう一度寝ましょうか」と提案すれば、戸惑うような視線が向けられた。このまま共寝を許してくれるのか?と言いたげな表情に、イリリアは苦く笑い返す。



「先ほどの部下の方は私の心中を察するなんて言ってましたけど、残念ながら私は、人間が排除されたことにさほど心を痛めていないんです」


「イリリア…?」


困惑するアズハルに、申し訳ないなと思いながらも自分の胸中を打ち明ける。



「竜人族のなかに、同族の女性を捕らえて、金銭と引き換えに売り払う人は居ますか?」


「いや、居ない。そのようなことは決して許されることではない」


「でも、人間には居ます。たとえ同族であろうと、命や尊厳を平気で踏み躙ろうとする人はたくさん居ます。

だから私は、たとえ今ここに他の人間が現れて、私を逃がしてやると手を差し伸べてきたとしてもその手を払い退けるでしょう。

私は人間が怖い。

私は見知らぬ人間を根拠もなしに信頼しようとは思わない。

だから、これまでに多くの被害を受けて来たのであれば尚のこと…竜人族が霊峰へ侵入した人間を警戒し排除することは、当然のことだと思います」



きっぱりと宣言すれば、アズハルは眉根を寄せつつも、今の言葉に嘘偽りはないのだと理解し、頷き返してくれる。


「私たちの行為に理解を得られたことは……ありがたいのだろう。だが、イリリアが人間に対してそのような感情を抱いているとは思わなかった」


「実際、身内に売られる寸前でしたからね」


「……惨いことをする」



優しく抱きしめてくれたアズハルの背中に両腕を回す。


湖畔で出会った時、イリリアはまさに家族から逃げているところだった。

自業自得で抱え込んだ負債を帳消しにするために妹を売ろうとした兄も、それを知りながら黙認した両親も、イリリアにとっては最早敵と呼ぶべき存在だった。

彼らの住む場所に大雨を降らせ雷を落としてくれたのは他ならぬアズハルだ。


「私はアズハル様のおかげで、追われる恐怖から解放されて自由を得たんですよ」と告げれば、まるで花印を辿るように優しく背中を撫でられる。



「私はあの時、花嫁であるきみの境遇を聞いて冷静では居られなかった。そして考えなしにきみの家族を排除すべく雷雲を呼んでしまった……後になって、とんでもない事をしてしまったのではないかと後悔した。そして、少なからず恨まれているだろうと思っていたのだ……」


「そんな風に考えていたんですか?」


「故郷や家族から引き離しただけでなく、雷で打つなど…」


「アズハル様………むしろ感謝しているくらいですから、全然気にしないでください。

いきなりの事にびっくりはしましたけど、あの時、ようやく逃げきれたんだって安心できたんです。それまでは、いつか捕まって引き戻されて…痛くて怖い思いをするんじゃないかって、ずっと恐ろしくて眠れなかった……でも、アズハル様の天誅(かみなり)と抱っこのおかげで、その後は安眠すやすやでした」



霊峰への移動中にイリリアがずっと眠っていたことを思い出したのだろう。

困ったように微笑みながらも、そんな悲しい目に遭わせてしまった事が心苦しいと言ってくれる。

だけどこうして出逢えたのだから、今はもう救われたのだから、イリリアにとってはそれだけで十分だ。



背中を優しく撫でられて眠気が戻って来たのか、ふぁ…と欠伸が出る。

甲斐甲斐しくベッドに寝かせてくれたアズハルは、寒くないようにと何枚も毛布や布団を重ねてくれる。


……もしかすると布団が重くて邪魔だから全力で動き回っちゃうのでは?という可能性に思い至ったけれど、今日ばかりは素直に好意を受け止めることにした。明日はさりげなく、布団の枚数を減らしてみよう。



「もう雷は鳴りませんか?」


「巡回して問題がなければな……麓に、霊峰への侵入を安易に許した街があるのだとすれば、そちらにも然るべき措置が取られるだろう」


重大な被害や規定違反がない限り、あとは警備隊に任せておけば良いという。

アズハル様のお仕事が無駄に増えなくて良かった……と思っていると、お行儀良く上を向いて横になっていたアズハルが不意にこちらを向いた。

静かに見つめられ、眠たいながらも見つめ返す。


ややあって、そろりと手が伸ばされた。


「………触れてもいいだろうか」


アズハルからそのような申し出を受けるのは初めてだ。

嬉しくなって両腕を広げて受け入れの姿勢を取れば、はにかむような、少し困ったような笑みが返される。


「遠慮はいりませんので思いっきりぎゅっと来てください」


「受け入れて貰えるのは嬉しいが……男としては複雑だな」


「アズハル様とはもう夫婦なんですから、何をされても大丈夫ですよ」


「………。」


逡巡するような気配のあと、そろりと身を寄せてきたアズハルが収まったのはイリリアの両腕のなか……胸元に程近い場所で。色白ながらも男性らしい腕が遠慮がちに腰へと回される。

花印のある胸にダイブする勇気はなかったのか、絶妙な距離が保たれているのが何とも彼らしい。


広げていた両腕を閉じて、心のままに胸元へぎゅっと抱き込む。

頭部を抱き潰され、顔を胸に埋めたアズハルが悩ましげに「イリリア…」と呟いたが、抗議は聞こえないふりをしておやすみなさいと目を閉じる。



遠ざかった意識の向こうでもう一度雷鳴が聞こえたけれど、怖くはなかった。

イリリアにとって喪いたくない人は、今この腕のなかに居るのだから。












翌日イリリアは、集落のなかでも足場の良いところを選んで散歩していた。


つば広の帽子と肌を露出させない服、それから程よく足に馴染んだブーツ。

いつもの散歩服と違うのは、つば広の帽子に薄いベールが取り付けられていることだろう。


明日はこの格好で朝早くに出発して、五百メートル上方にある山小屋を目指す。

外を歩く時間が長いため、完全防護のスタイルだ。


薄布のせいで視界はあまり良くないが、肌のためだと言われては仕方がない。


集落周辺の環境に慣れたとはいえ、日光に直接肌を晒せばすぐにピリピリとした痛みが走る。

無理をすれば顔に水ぶくれが出来ると言われ、想像しただけで耐えられない痛みを感じたイリリアは、大人しく用意してくれた装備を身につけることにした。

今は、ベール越しの視界に慣れるために母屋の近くをあてどなく歩いている。



明日からの道中、イリリアが持つ荷物は自分の歩みを支える杖くらいだ。

着替えなどの必要物資は最低限の量だがルトフが背負ってくれるし、いざとなればアズハルがその都度、天上や近くの集落から調達して来てくれる事になっている。


(五百メートルってどのくらいかしら……)


平地で生まれ育ったイリリアは山登りなんかしたことはない。

昨日はアズハルの為なら多少無理してでも頑張るぞと気張っていたが、正直、散歩がてら集落のなかを歩いているだけで早くも疲れているし、気力は徐々に萎んできている。



迷惑かけたらどうしよう…。


全然登れなくて、途中で挫けても嫌われないかしら。


毎日毎晩数千メートルを往復しているアズハル様の移動スピードについていけるとは思えないし…。



気持ちが萎むと同時に、思考もどんどん後ろ向きになってくる。


モダモダと考えるのが嫌になって、あてどなくぶらぶら歩き続けていた足を止めた。



リヤーフは数分前に畑の責任者に呼ばれてしまい、渋々ながらこの場を離れている。

以前ちょっと離れた隙に倒れたこともあり、少しでも不調や異変を感じたら絶対に無理をしないでくれよと念押しされている。

小さな音でも聞こえるからいつでも吹いていいと言われて首に吊るされたホイッスルを、指先でくるくると弄ぶ。



草を踏む音が微かにしたためリヤーフが戻ってきたのかなと思えば、振り返った先に居たのはカモシカ族の女性だった。


行商人らしい旅慣れした格好をしていて、灰がかった緑色の目がイリリアを捉えるなり大きく見開かれる。



「アンタ……」


(……確か、ハウラさん、という名前だった気がする…)


リームさんの妹さんの孫で、リヤーフの遠い親戚。

またあの時のような憎悪の視線を向けられるのかしら…と思い反射的に目を逸らせば、躊躇うような空気と沈黙のあと、低めの静かな声で話かけられた。



「…………上に向かうんだってね。そんなに細っこい身体で本当に大丈夫なのかい?」


気遣うような問いかけに、目線を上げて、小さく頷く。

こちらを見る瞳に以前のような勢いはなく、代わりに、悔恨のようなものが滲んでいた。



「………お花様だって、うまく順化出来なきゃ死ぬことがあるって聞いたよ………だから、………だから、無理したら命に関わるって肝に命じときな」


「はい……」


必要物資を届けてもらうと言っていたから、その流れで旅立ちのことを知ったのだろうか。


アズハルやリヤーフは、「随所に危険があるから気をつけて行こう」とは言うものの、『死』という直接的な表現を使うことはない。けれどもイリリアにとって、山中で体調を崩すことは間違いなく命に直結することだ。

彼女は嫌がらせや脅しではなく、イリリアの置かれている状況を見定めて忠告してくれたのだろう。


ハウラは、どこか傷ましさの残る強張った表情で言葉を続けた。



「………アタシ、身籠ってたの。そしたらウチの人、低地のほうが草が多いし栄養があるからって山を下りて、うっかり人間の領域に踏み込んじまって………アンタに非がないことはわかってる。領域を侵したのはウチの人の咎だ。それでも、アタシにとっちゃ、人間はあの人の仇なんだ……」


灰がかった緑の瞳に宿る悔恨は、失った旦那さんや子どもに対する思いだろうか。

それとも……人間だからという理由で一方的にイリリアを見咎め責め立てようとした事への後悔も含んでいるのか。


被害者側(だんなさん)にも多少の非があり、イリリアが当事者じゃないことは理解できても、どうしても人間が許せないのだと苦しげに告げたハウラは、目を閉じて俯くと、自身を落ち着かせるように深く息を吐いた。


「ごめん、急にこんな話をして…」


リーム姉さんの所に荷物は届けてあるから、と言い置いて去ろうとするハウラに、イリリアは「あの、」と声を掛けた。



「物資を届けてくださってありがとうございました」



ゆっくりと頷き返され、静かに立ち去る背中を見送る。


ややあって、がさりと低木の葉を掻き分ける音がして、リヤーフが隣に戻ってきた。

「大丈夫だったか?」と問う表情から、ハウラとの邂逅を近くで見ていたのだと察する。


「………隠れてた?」


「ごめん。勿論何かあったら飛び出してくつもりだったけど……ハウラ姐さんの様子が前回と違ったからさ。それに、あの人の本当の気持ち、聞いてみたくて」


「…………お子さんは生まれなかったの?」


「姐さんはショックで失ってしまったと思ってるけど……そもそも身籠っていなかったかもしれないって母さんたちが話してるのを、偶々耳にしたことがある」


「そうなんだ……」


どこまでを知り、受け止めているのかはハウラにしかわからないという。

イリリアにはあのように言ったけれど、心の中には別の真実を隠し持っている可能性もある。

それでも…彼女は人間であるイリリアの道行きを案じてくれた。言葉は決して優しいものではなかったけれど、だからこそイリリアの胸に響くものがあった。


「ハウラさんは旦那さんを亡くしてからずっと一人で…?」


「そうだな……家に腰を落ち着けるんじゃなくて、行商人として色々なところへ行く事を選んだんだろうな…」



「難しいよなぁ」という呟きに、「難しいね…」という呟きで返す。


しんみりとした空気にしばらく身を浸し、

どちらからともなく、そろそろ戻ろうかと母屋の方へ足を向ける。


「昨日、母さんとも話したんだよな?」


「うん。カモシカ族での視点だし、お節介かもしれないけどって、これからの夫婦生活で気をつけた方がいいこととか色々と教えてくれた……アズハル様と居ると、やっぱり人間とは違うなって感じるところはあるし…」


「そういうのって、片方だけが飲み込んで我慢しても、うまくいかないもんだろ?

イリリアとアズハル様はなんとなくお互い遠慮してる部分があるし…そういったところでズレてそうだから、話せる時にちゃんと話しとけよ。明日からは毎日一緒に居るわけだし、これまでより話す時間も増えるだろうしさ」


「うん……」



正直なところそれも不安なのだと明かす。

これまではルトフ邸の離れで、寝る前の短時間だけ共に過ごすばかりだった。

朝から晩まで……しかも人前でアズハルと一緒に居る機会は殆どなかったため、適切な距離感や過ごし方がよくわからない。


そんな懸念を口にしたイリリアに、リヤーフはすっかり呆れ顔だ。


「離れでどんなやりとりしてるかは知らないけど……とりあえず、最初の一週間くらいは俺と父さんの目しかないから、その間に距離感を掴めばいいんじゃないか?」


「そうする…ありがとう」



母屋の扉を開けて室内に入ると、優しく通り抜ける風が肌を冷やしてくれた。

気づかなかったけど、思ったよりも暑さにやられていたようだ。


ベール付きの帽子を脱いで手扇で顔まわりを仰いでいると、ちゃんと座って休むようにとリヤーフが冷水と皮膚の塗り薬を手渡してくれる。


「ありがとう。天上にも、リヤーフみたいに仲良くしてくれる人は居るかな…」


「少なくともこんな雑な態度取るヤツは居ないだろうな」


「無理言ってごめん…」


「まあ…見知らぬ土地で急に敬われても大変だろうし、イリリアが嫌な気分にならずに高所に慣れるのが一番大事だからな」


「理解が深くて感謝しかない……本当にありがとう、リヤーフ」


「天上の離宮にいる人たちは皆アズハル様を敬愛してるはずだから、イリリアの事も大事にしてくれるよ」



いつも座談会を開いている茶卓の周りに腰を下ろす。

霊峰に来てからおよそ一ヶ月間続いた集落での生活も今日で終わりだと思うと、寂しくてたまらない。



「最初に案内してもらったのが、ここで良かった…」


「無事に次の段階に行けて良かったな。ハウラ姐さんが、他の商人から仕入れた珍しい食べ物も持ってきてくれたみたいだし、今夜は送別会だ。ちなみにイリリアって虫とか食べる?」


「食べない……」


蜥蜴も蝙蝠も蠍も食べないと言えば、ちょっとだけ驚いた表情を浮かべたリヤーフは「あれだけ毎日たくさん話したのに、まだまだ知らないことが多いなぁ」と感慨深げに呟いた。






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