6. 霊峰に咲く花
明け方の空気と夜中の空気は不思議と感じ方が違う。
冷気を感じてぶるりと身を震わせたイリリアは、自分の衣服が大きく乱れていることに気がついた。
上衣の合わせが大きく開かれ、肩から布がズリ落ちている。
胸の真ん中で引っ掛かるように留まっているけれど、鎖骨から肩にかけては大きく露出しており、背中も半分ほど剥き出しになっているようだ。
いつも通り横向きの姿勢で眠りに就いたのは覚えている。
隣に寝転ぶ美しい男性を観察しながら穏やかな眠気に身を委ねた筈なのに、どうやら眠っている間に反対向きになるよう大きく寝返りを打ってしまったようだ。
(というか、ベッドの端だわ…)
もう少しで落ちそうなくらい、際に寄ってしまっている。
せっかくの大きなベッドだというのに中央で大の字になるどころか端で縮こまっているところがなんとも自分らしい。
背後からお腹あたりにかけて太い腕が回されているのを感じて、あらこれは安全ベルトかしらと考える。
後ろから回された二本の腕が、イリリアがベッドから落ちないよう支えてくれているようだ。
ただ、寝乱れて剥き出しになっている肩甲骨の下あたりに、微妙にくすぐったい感触があるのも気のせいではないだろう。
(私は今、抱き枕にされてしまっているのかしら……)
安全ベルトな腕に支えられつつ、背後からぎゅっと抱き込まれてしまっている。
背中にあたっているのはおでこか鼻筋ね…と悠長に考えていると、不意に背中の皮膚をぱくりと食まれた。
歯は立てられていないが、少しカサついた唇が背中をはむはむと食む。
「っ、」
擽ったさに堪らず息を詰める。
背後に居るのがアズハルでなければタチの悪い悪戯を仕掛けられているのかと疑うところだが、何せ後ろで寝ている男性はズバ抜けて貞操観念が高く、純情で、儀式までは絶対に手出ししないと公言しているような人だ。間違いなくこれはただ、寝ぼけているだけ。
(それに多分…花印を辿っているんじゃないかしら…)
背中いっぱいに広がった竜胆の花は、肩甲骨の下から腰元にかけて咲き開いている。
乱れた衣服がイリリアの寝相によるものか、寝ぼけたアズハルが剥いたのかはわからないけれど、むにむにと押し付けられる唇は間違いなく背中の花印に触れている。
腹部に回された腕の拘束性は低く、えいや!と勢いよく動けば簡単に抜け出せるだろう。
すぐ近くにある胸の膨らみに触れるでもなく、イリリアがベッドから落ちないようにそっと引き留めてくれている安全ベルトな腕から抜け出すべきかどうか考えていると、アズハルの顎が服の端に引っ掛かったものか、胸元の絶妙な位置で留まっていた服が更にずり落ちた。
それなりにふくよかに実っている胸が服から溢れてふるんと揺れる。
同時に込み上げるものがあり、咄嗟に口元を覆ったが、残念ながら堪えることは出来なかった。
「ん………っくしゅん!」
肌にあたる冷気が刺激になったのか、鼻からくしゃみが飛び出した。
背後でハッとするような気配があり、数秒の沈黙のあと、腹部に回されていた安全ベルトは素早く引き抜かれ、後ろにあった存在が一気に離れた。
布と大きな塊が床に滑り落ちるような音と共に、ゴッと固いものがぶつかるような音がしたため慌てて振り向くと、大きなベッドの上からアズハルの姿はすっかり消えていた。
どうやら驚き過ぎて勢いよく飛び退いた拍子に、寝台から転げ落ちたようだ。
「………大丈夫ですか?」
すっかりずり落ちた服を元に戻しながら、寝台の向こう側へ声をかける。
すまないと大丈夫の合わさった返事を聞きながら復活を待っていると、たっぷり時間を掛けたあと、目元を赤く染めたアズハルがよろよろと立ち上がった。
「すまない…!」
勢いよく頭を下げられたものの、別に大したダメージはない。
転げ落ちた自分の身体よりもこちらを心配して、寒いだろうと布団を掛けようとしてくれる過保護な相手に「打ったところは大丈夫ですか?」と尋ねかければ、寝台から落ちたことも恥ずかしかったのか耳先まで赤くなる。
「…………寝ぼけてたんです?」
「……花蜜を吸う夢を見ていた」
「竜って花の蜜も飲むんですね」
意外だなぁと思っていると、「天上には小さい花が多い。だが、ある希少な条件下で月下美人のような大輪の花が開くことがあってな……花蜜を吸えるのは王族の特権だ」と教えてくれる。
「その貴重な花を夢見て、ついあむあむしてしまったと」
「いや……夢の中でも、目の前にあったのは確かに竜胆なのだ……色鮮やかで芳しく、つい……」
「つい、あむりと」
「あむり……うむ、まあ……食んでしまったわけだ。本当にすまない」
「皮膚を齧り取られていたらさすがに悲鳴を上げて逃げたでしょうけど、あむあむされたくらい……少しくすぐったい程度なので大丈夫です」
立っていては見上げるのが大変だからと座るよう促せば、アズハルは控えめに寝台の端へ腰掛ける。
悪戯心がわいて「美味しかったですか?」と聞いてみると、悩まし気に眉を寄せたアズハルから小さな声で「……とても」と返された。
その返事が気恥ずかしくもあり、真面目な人をこれ以上揶揄ってはいけない…という申し訳ない気持ちになる。
アズハルは昨日、霊峰に咲く竜胆を探しに随分と遠くの方まで足を運んだそうだ。
先日のイリリアとの話し合いがあった手前、無理はしていないと主張していたが、離れに着いた時には見るからに疲労困憊の様子で、ひとことふたこと交わしたあとはすぐに眠りに落ちていた。
今朝の奇行も疲れから来るものに違いない。どう見てもオーバーワークだ。
「ここまで来るのが大変なら、本当に無理しなくていいんですよ?」
「いや……」
「一緒に寝るほうが疲れが取れます?」
無言で頷き返されたため、ベッドの上を渡ってアズハルの元へ行きその手を取った。
ほんのりと朝の気配はするけれど、恐らく起きるには早過ぎる時間だ。
それにまだ疲れが残っている顔をしているのだから、仕事よりも休眠を優先すべきだろう。
「じゃあ二度寝しましょう。少しでも身体を休めないと」
「しかし……」
「抱きしめます?」と腕を広げて小首を傾げれば、「大丈夫だ」と生真面目そうに首を横に振られる。
甘やかしが効かないのなら、こちらが我儘を言って甘えてしまうのが一番だろう。
「アズハル様が寝てくれないと私も眠れないんですけど」と唇を尖らせれば、アズハルは少しだけ視線を彷徨わせたあと、観念したように寝台へ上がってきてくれた。
どさくさに紛れて抱きつこうとすれば、キープアウトとばかりに手で制され、あからさまに距離を取られてしまう。
儀式まではそういった行為に付随するような振る舞いがダメというのは理解しているが、『花嫁』や『我が妻』と主張してくれている割には、同じベッドで眠る以外に恋人らしい事は殆どしていない気がする。
(まあ、順化が済むまでは微妙な関係なんだろうけど……)
無事に天上へ到達し、儀式とやらが終われば正式に妻として振る舞うことになるのだろうか。
そもそも自分に、竜人族の王子妃として出来ることが何かあるのだろうか。
「そういえば……私とアズハル様は今、婚約者という間柄になるんですか?それともまだ、奥様候補的なやつですか?」
「………イリリア?」
「え……?」
あまりに呆然とした表情を向けられて、イリリアも呆然と返してしまう。
首を傾げるイリリアを見つめるアズハルの顔はみるみる青ざめ、青ざめすぎて白くなってきている気がする。果たしてそんなにも血の気が引くような話題だったろうか。
(もしかして私ったら何か…大変な思い違いをしている…?)
それからは顔面蒼白なまま茫然自失となったアズハルを懸命に揺さぶって正気に戻し、順を追って事情を説明してもらう羽目になり、もはや二度寝どころではなくなってしまった。
▼
「リヤーフ聞いて、結婚してた」
本日の議題を端的に提示したイリリアに、リヤーフは「はあ?」と怪訝そうな顔を向けた。
母屋の居間で繰り広げられるリヤーフとの勉強会こと座談会は、一方的に教えてもらうスタイルから、互いの疑問や常識を擦り合わせながら種族間の差異を埋めていくスタイルに変わりつつある。
正直、現時点ではアズハルよりもリヤーフのほうがイリリアの事情に詳しいだろう。
(おそらく何らかの形でアズハル様にも報告されているんだろうけど。)
白湯の入ったふたり分の湯呑みと、おかわり分の入った急須を持ってきたリヤーフが定位置に腰を下ろしたのを見計らって、イリリアは朝からずっと誰かに話したくて堪らなかった話題をようやく切り出した。
つまり『アズハルとイリリアは既に結婚していた』という事だ。
茫然自失となったアズハルからどうにか聞き出した話を纏めると、花印に口付けを受けた時点で婚姻は成立していたのだという。
つまり今は、入籍はしているものの結婚式は挙げていないという状況らしく、夫婦として清く正しい共寝生活を送っている真っ最中だったのだ。
(たしかに先日の朝のお見送りは新婚さんっぽいなと思ったけど…)
あくまで『ぽい』だけで、実際にそうだとは思っていなかった。
アズハルが噛み締めるように照れていたのも、結婚後の生活を想像してみたのかな…くらいに考えていたのだ。
「今朝アズハル様に、私たちって婚約者なのかな?って聞いたら物凄く驚かれて…」
「……花印に口付けを受けたって言ってなかったか?」
「まさかそれが婚姻相当の行為とは思わなくて…」
やはり竜人族にとっては一般常識レベルだったらしい。「知らない間に結婚してた!」と主張するイリリアに向けられる眼差しは、あまりにも胡乱だ。
「毎晩一緒に寝てるじゃん」
「でも…繁殖行為はしてないし」
「順化も儀式も済んでないのに繁殖行為は無いだろ……あー……人間って確か伴侶以外とも同衾するんだっけ?」
「なんなら恋人でもない赤の他人と一夜の遊興に耽る人たちも居る。非公認だけどお金と引き換えに身を売る仕事もあるし」
「……というか、こういう話をリヤーフとして大丈夫?」と、見た目が自分よりも幾分か幼くも見える青少年な相手に確認を取れば、ケロリとした顔で「俺、八十歳」と返された。
自分よりもご長寿な事実に、今更驚きはしない。
なぜなら勉強会が始まった当初に、竜人族は人間に比べて驚くほど長命だと聞いていたからだ。
その時は遠慮して年齢までは聞けなかったが、ようやく聞けてちょっとスッキリした。
「全然大丈夫そう。……アズハル様は?」
「百五十歳くらいだと思う」
人間の寿命が百年であるのに対し、竜人は五百年生きるとされる。
成人が百歳だというから、アズハルは人間の年齢でいうと二十代後半から三十歳手前くらいだろうか。
イリリアは実年齢で今年十七歳になる。少しばかり年の差は感じるものの、種族差もあるし、あの純情さを思うと大丈夫かなという気もする。
「イリリアの年齢で結婚するのは早い方なのか?」
「そうでもないよ。故郷では十五を過ぎたら婿探しが始まって、二十までには大抵の子が結婚するかな」
「じゃあ問題ないじゃん」
「問題の有る無しっていうか…覚悟が出来てなかった感じかなぁ…。
儀式までは健全なお付き合いってことは聞いてたよ?でもてっきり、天上に着いてから結婚するものだと思ってたから」
むしろ儀式というのが入籍に相当するのだろうと思っていたくらいだ。
微妙に違う捉え方になっていたのだと理解したリヤーフは、腕を組んで「あー…」と天井を仰いだ。煤けた木で組まれた家には、じんわりと沁みるようなぬくもりがある。
「うーん…正規の婚姻の手順と違うのは確かだな……花印を持つ相手が見つかった時はとにかく保護を優先することになってるし、花印への口付けが結びの証になるから諸々の手順が変わるっぽいんだよなぁ」
「そもそも、王族と一般の竜人族とで、結婚の形式が違う感じ?」
「そりゃあな……いわゆる運命で結ばれた『花嫁』や『花婿』を得るのは王族だけだし。
ああそうか…そういえば、アズハル様は王族だから婚姻に際する儀式にも色々あるって聞いた気がするな…」
今の王太子が結婚した時リヤーフはまだ生まれていなかったため、王族の婚姻という祭事を実際に見聞きしたことは無いそうだ。
「当事者なんだからちゃんと確認しとけよ?」と言われ、イリリアは微妙な感じで頷いた。
今朝も詳細が知りたくて訊ねてみたものの、「こちらで全て手配するからイリリアは心配しなくていい」とあまり教えてもらえなかったのだ。
責任感が強いのだろうが、自分の結婚式の準備に全く関わらせてもらえないというのも少しだけ寂しい。
(とはいえ、天上に伝手があるわけでも、有用な個人資産があるわけでもないし…)
儀式と仰々しい名で呼ばれている以上、イリリアの知る一般的な結婚式と違うことは明らかだ。慣習などもあるだろうし、余計な口を挟まず大人しく待機している方が迷惑にならない気がする。
やっぱり自分に出来るのは疲れきったアズハル様を花印効果で癒すことくらいかなぁと考えていると、リヤーフは白湯を飲み、納得したように頷いた。
「だから今朝のアズハル様はふらふらだったのか」
「まあ…その話をする前にもちょっとした事故があってね…回復していないところに追加のダメージを負ったから…」
「なんだよ事故って…普通に寝てるだけじゃないのかよ」
アズハルの名誉のために背中あむあむ事件の事は黙っていたが、リヤーフからは「何の事件かは知らんけど絶対イリリアに原因の一端がありそうだな」と疑われてしまった。
イリリアはただ、寝ている間に服が乱れているし背後から抱きしめられているし背中があむあむされているなぁ…という事実を寛容に受け止めていただけだ。
悪いことをしたつもりはないし、素肌とはいえ背中に触れられたくらいで大騒ぎするつもりもない。既に夫婦であるなら尚更何の問題もない。アズハルが純情で真面目すぎるだけなのだ。
「なんつーか、イリリアとアズハル様って変なところで微妙に噛み合ってないよな」
「寝る前くらいしか会わないし、アズハル様は疲労困憊ですぐ寝ちゃうからお喋りする時間ってあまりないんだよね。それに……お互いに、当然だと思い込んでいて伝えてないことが、ズレの原因になっているような気がする…」
「まあ、父さんも母さんも価値観のズレは揃えるのが大変だって言ってたし、微妙にズレたまま許容し合ってる部分もあるって言ってたからな。取り返しのつかない大喧嘩とかにならなけりゃ、別に良いんじゃないか?」
さすが異種族結婚した両親を持つ身。的確なアドバイスをもらえてイリリアの気持ちも軽くなる。
「リヤーフの奥さんになる子は幸せ者だろうなぁ」と呟けば、ちょうどタイミングよく居間に入ってきたリームさんの目がギラリと輝いた。
息子の恋バナ聞きたさに乱入してきたリームさんを交えて異種族恋愛の話も少し出来たし、今日の勉強会は実りあるものだったと言えよう。
終わったときにリヤーフがぐったりと疲れて倒れ込んでいたのは、ご愛嬌だ。
▼
夜、いつものように寝支度を整えていたイリリアの耳に、いつもとは違うノックの音が聞こえた。
拳で扉を叩くだけなのにどうして個性が出るのかしら…と思いながら、恐らくアズハルではない人物からのノックに「はい」と答える。
「入っても宜しいでしょうか」と聞こえた声には馴染みがあり、イリリアはドアを開け、正面に立っているリームに首を傾げてみせた。
「何かありましたか?」
「アズハル様が特別な花をお持ちになりましたので、少しだけ身支度を整えさせていただいても宜しいでしょうか」
「は、はい。よろしくお願いします」
リームの手には、アズハルが普段身に纏っているような仕立ての良い豪奢な衣装が持たれている。
ひとりで着れと言われても絶対に着れない気がするし、着替えのあいだに今から何がおこなわれるのかを少しでいいから説明して欲しい。
アズハルがイリリアの為に天上から持参したという衣装は、薄衣を幾重にも重ねたような繊細で美しいものだった。
一枚一枚は薄く羽衣のように軽いが、重ねればそれなりの重さになりそうだ。
どうやら下着から全て用意されているらしく、普段の防御力重視の無骨な下着に比べると装飾的でセクシーな感じだわ…アズハル様の好みかしら…なんて余計な事を思いながらハーフカップの下着を装着し、慎重に衣へ袖を通していく。
胴にコルセットのような幅広の帯を付けたせいか、ボディラインがはっきりと浮き上がる。もともとイリリアの胸はそれなりのボリュームがあるが、こうして寄せて上げるとなかなかの迫力だ。
貧相な自分にとっての数少ない武器ね…と、花印の刻まれた豊満な胸を心中で褒める。
着替えの最中に左胸に咲いた花を初めて目にしたリームは小さく息を呑み、「とてもお美しいですね」と褒めてくれた。
「あの、特別な花を持ってきてくれたって事は…」
「ええ。ずっとお探しになられていた、霊峰に咲く、お花様の為の特別な花です。外でお待ちでいらっしゃいますので、上着を羽織って向かいましょう」
羽織らせてくれた上着は、初めてアズハル様と出会った日に纏わせてくれた外套によく似ていた。
少し重さがあるけれど、肩に羽織っているだけで全身が羽毛で包まれているかのように温かい。
それでも、ドアの向こうは身を切るような寒さだった。
(そういえば、こんな時間に外に出たのは初めてかもしれない…)
いつもアズハルを迎え入れるためにドアを開け閉めするくらいで、夜半に外を出歩いたことはない。
暗いし寒いし危ないし…と夜間外出を禁止されていたからだが、昼の陽射しが嘘のように、外の空気は厳しい寒さに覆われている。
外には、普段見回りに出る時の制服を身に纏ったルトフが背筋を伸ばして待機していた。
リームからルトフの手に渡され、先導する彼の後ろをゆっくり一歩ずつ進む。
空には満点の星が広がり、地上からは決して見ることのできない小さな星まで細やかな点の集合となって空に広がっている。
キンと澄んだ空気を裂くように月光が降り注ぎ、昼の陽射しに負けないくらいの強く鋭い光に、胸元の花が小さく疼いた。
そう離れていない丘の上に、普段よりもずっと壮麗な衣装を纏ったアズハルが立っていることに気づいて、イリリアの胸がドクンと跳ねる。
その麗しい立ち姿と、彼の足元に恭しく傅いたルトフの仕草に、彼が間違いなく王族であるのだと改めて理解する。
「お花様をお連れいたしました」
「ご苦労…」
イリリアを見たアズハルは、僅かに驚いた表情を浮かべたあと、無言でこちらを凝視する。
(……何かおかしなところがあったかしら)
リームはテキパキと着替えの補助をしてくれたあと、驚くほどの早技で軽くお化粧を施し、髪も結んでくれたのだ。
いつもの姿に比べるとなかなか良い出来栄えでは…?と内心自画自賛していたが、普段纏っている衣装と違いすぎて、どこか変なところでもあるだろうかと心配になってくる。
(……そういえば、アズハル様の前でおめかしするのは初めてかも)
出会いは水浴び中だったし、野宿続きのボロ雑巾のような姿だったと言っても過言ではない。
カモシカ族の集落に来てからはお風呂をいただけるようになり多少は身綺麗になったものの、リヤーフたちのお下がりを借りながら、デザインよりも紫外線や寒さ対策重視の服装をしていた。
わざわざ天上から持ってきてくれたというだけあって、今身に纏っている衣装は驚くほどに繊細で優美だ。
綺麗な衣装を纏うと身が引き締まる。
ただ、オシャレは寒い。
立派な外套を貸してもらっているとはいえ、頬に冷気があたると身体がぶるりと震えてしまう。
「くしゅん、」
思わずくしゃみを漏らすと、無言でこちらを見つめていたアズハルの意識が戻った。
自分の上着をさらに掛けようとしてくれるので「これ以上は重くて羽織れません」と申し訳ないがお断りする。
「美しい衣装を貸してくださいまして、ありがとうございます」
「それはイリリアの為に誂えさせたものだ。普段の姿も愛らしいが、その衣装を纏った姿はあまりに美しく言葉を失ってしまった。
寒いだろうが少しだけ我慢してくれるか?月下で渡した方が良いだろうと思ってな…」
照れを滲ませた柔らかな微笑みを向けられて、イリリアの頬も緩む。
アズハルが手にした小さな籠の中から取り出したのは、一本の竜胆。
紫色の星形の花弁が大きく開かれており、月の光を反射して輝いて見える。
「ようやく見つけた……厳しく切り立った崖の上で、密やかに美しく咲いていたのだ」
見過ごしてしまいそうな程にひっそりと、けれども堂々と花弁を開いて。
青紫色の花は確かに、イリリアの胸に咲いている花と同じ姿をしている。
根っこから丸ごと引っこ抜いてきた様子なのが少々気になったものの、土汚れなどはなく綺麗に整えられている。
アズハルは籠を足元に置くと、膝をついてイリリアに目線を合わせた。
掲げられた花が、ふたりの間で小さく揺れる。
「イリリア……我が運命の花嫁。改めて、妻として生涯共に居てくれないだろうか」
「……はい」
頷いて、捧げられた竜胆を手に取る。
胸に咲き開いた印と同じ花が手の中にあることに言いようのない奇跡を感じ、アズハルと出逢えた運命を思う。
こうして改めてプロポーズのような場を設けてくれたのもきっと、今朝までイリリアがアズハルとの結婚を自覚していなかったからだろう。
どこまでも誠実に向き合おうとしてくれるアズハルの姿勢に、喜びを感じると共にじわりと涙が浮かびそうになる。
「……ご面倒をおかけしますが、末永く宜しくお願いします」
「面倒ではない。天上で暮らすのが人間にとっていかに大変なことか、わかっているつもりだ」
「弱音を吐く事もあるかもしれないけど、一緒に乗り越えてくれますか?」
「勿論だ……どうかいつまでも、側に」
立ち上がったアズハルは、竜胆をイリリアの口元に運んだ。
口付ければいいのかな?と唇を寄せたものの、特に変化はないし、花を退かしてくれる気配もない。
むしろ、不思議そうに首を傾げられてしまった。
「どうした?天上の流水でちゃんと清めてある。遠慮せず口にして構わない」
「……もしかして食べるんですか?このまま?」
「リヤーフに説明されたんじゃなかったのか?」
「取り込むとは聞いたけど、そのままムシャムシャ食べるとは思わなくて……ええっと、確か、竜胆の根っこって物凄く苦いのでは…」
「霊草が地上の植物と同じ味かはわからない」
困ったなという表情になってしまったアズハルを見上げ、イリリアは決意を固めた。
アズハルがこの花を見つけるためにどれだけ頑張ってくれていたか知っているつもりだし、やっと見つけてくれた花を無駄にはしたくない。
目をぎゅっと閉じて、えい!と紫色の花弁をひと思いに口に入れる。
歯を立てれば茎と花が切り離され、口の中にころりと落ちた花をむぐむぐ噛み締める。
むぐむぐ…ごくん。
「……無味!」
「そ、そうか…大丈夫か?」
「食感はあるんだけど味がないです……あ、でも、中心はほんのり甘かったような…そうでもないような?」
夫婦で分け合うのかと思えば花嫁が全部食べて良いのだと言われ、残りの茎と葉を噛み、苦味のない根っこも口に入れて咀嚼する。
全部飲み込むと、じわりと胸と背中が温かくなった気がした。
「ごちそうさまでした。……特別な感じになりました?」
「明瞭な変化はないが…身に馴染めば今よりも環境に順応しやすくなるだろう」
寒いだろうから部屋へ戻ろうか…と気遣ってくれるアズハルに、イリリアは勢いよく挙手してみせた。突然のことに驚いたのか「どうした?」と丸くなった目が少し可愛い。
「キスして欲しいです」
「ん!?」
「口付けも、諸々の儀式を終えてからじゃないと難しいですか?」
夫婦であるなら、もう少し近づきたい。
隣で眠るだけでも幸せを感じるのは確かだけれど、抱擁や口付けといった形で愛情の受け渡しがしたい。
けれどもそれは人間ならではの欲求で、竜人族であるアズハルには無い欲求かもしれない。
だから、したいのか、したくないのか。あるいは『してはいけない』と定められていることなのか、教えて欲しいのだ。
イリリアの訴えを聞いたアズハルは瞠目した。
「すまない…口付けは、天上での誓いの儀式でおこなうことになっている」
「じゃあ、抱擁は?」
「それは構わないが…」
竜人族は日常的にそのような触れ合いをしない。ゆえに悩ましいのだと白状したアズハルに、イリリアは遠慮なくぎゅっと抱きついた。
「可能な限り健全な感じでぎゅっとしますので、いいですか?」
「健全な……うむ……」
アズハルの服は外気で冷やされていて、くっつけた頬もひやりと冷たい。
それでも感じる僅かなぬくもりに、自分が飢えていたのはこういう感覚なのだと改めて思う。
誰かを慈しみ、誰かに慈しまれたい。
ずっと、ずっと、願い続けてきたものだ。
そろそろ離れようかなと思っていると、遠慮がちに背中へ腕が回された。
首だけで見上げてみると、照れたような表情を浮かべたアズハルが穏やかな眼差しでこちらを見下ろしている。
「…………大切にする」
噛み締めるように告げられた言葉に、微笑んで頷き返す。
本当はキスをしたいなという欲求がむくむくと湧き上がっているけれど、ここで一方的に押し付けるわけにはいかない。
代わりに精一杯背伸びをして腕を首筋に回し、ぎゅっと抱きついた。
頬に唇を押し付け、驚き見開かれた目元にも唇を触れさせる。
「イ、イリリア……」
「唇へのキスは我慢しますけど、頬とか目元なら健全ですよね?」
「い、いや…それはどうだろうか……」
判別がつかないということは、誰かに見咎められたとて「ダメだとは知りませんでした」という主張で押し切れるはず。
ちゅ、ちゅと冷えた肌を温めるように頬や鼻先に唇を押し付けていると、耐えきれなくなったのか勢いよく抱き上げられた。
真っ赤な困り顔で「中に戻ろう」と足早に歩き出してしまう。
「嫌でした?」
「嫌ではないが………察してくれ」
ゴツゴツとした岩場も難なく歩くアズハルに抱かれたまま、ルトフの家へ向かう。
家のそばで待機してくれていたルトフとリームは、ふたりの姿を見るなり、おやおやと優しい眼差しになった。
離れへ入る前に、アズハルの首筋に腕を絡めたまま天を仰ぎ見る。
風でたなびく白い髪の向こうには、白銀に輝く大きな月と、いっぱいに広がる満天の星。
遠くに薄く見えるのは月虹だろうか……
思わずアズハルの名を呼べば、夜よりも美しい濃紺の瞳が向けられる。
「どうした?」
「向こうの空に、虹が…」
「ああ…美しいな」
寒さも忘れて、その朧な輝きを暫く見つめた。
この景色を、きっと一生忘れないだろう。