26.5(幕間)無月
▽アズハル視点
離宮の入り口に折り重なり倒れる北の隊士たちに目を瞠る。
奥からはまだいくらか剣戟の音が聞こえているが、険しい表情のサディオが残った隊士を斬り倒しながらこちらへ走ってくる。
「人間の花嫁を狙った襲撃です。茶室の控室からお花様が連れ去られました。相手は妃殿下も知らぬ隠し通路を使って侵入、逃走した模様。ハルクが通路から追っております」
「私もそちらから行こう。カイス、もう少し事情を聞いてから追ってこい」
素早く竜に変じて奥へ飛ぶ。
挨拶の時に部屋の場所は確認しているため迷いはないが、そうでなくとも、通路に転がる負傷者が行く先を教えてくれる。
茶室内には至る所に血痕があった。
すでにファティナ様は避難したのだろう。不意に飛び込んで来た白き竜の姿に残っていた隊士らが目を瞠ったが、そちらに構わず血のあとを追って隣室へ入る。
部屋の壁の一部が破壊され、その奥に暗い隠し通路が覗いていた。
一体いつから用意されていたのだろうか。
兄上が把握していないのであれば、この通路は王宮の記録からも除外されていたことになる。
躊躇う時間も惜しく、迷いなく隠し通路へと飛び込む。
埃っぽい通路には、何かを引き摺ったような跡と、点々と残る血痕。
血の量は然程多くはないが、ハルクが負傷しているのであれば加勢が必要だろう。
無事かどうか確かめたくて、心の中で何度も何度もイリリアの名を呼びかける。
一瞬、身体の奥深いところに鋭い痛みを感じた。
何事かあったのかと呼びかけを強めれば、掻き消されそうなほどの小さな声で「ここにいるよ…」と囁かれるのを感じて、返事があったことに胸を撫でる。
けれども、どうしても拭いきれない不安が渦を巻く。
前方にかすかに見えていた竜の背が、さっと人型に変じるのが見えた。
腕と脇腹から血を流しながら明かりの差す出口の前に立ったハルクは、何故かそのまま硬直した。一瞬でその背に追いつき、その身体を押し退けるように出口の先へと踏み込む。
いけません!!と制止する声よりも、目の前の光景に意識が持っていかれる。
三人の女たちは今まさにタペストリー裏に作られた隠し通路へ立ち去ろうとしているところで、
部屋の奥に一瞬だけ、四肢を投げ出して倒れ込む少女の姿を見た気がした。
周囲の壁や床に散る赤の量に絶望する前に、身体が反射的に動いていた。
通路に消えようとしていた女の一人を床に叩きつけ、もう一人の首を掴み背後に投げる。引き攣った声でこちらの名を呼んだ女の顔面を爪で引き裂けば、咄嗟に身を捻ったのか年配の女は顔の左側から血を迸らせながら、素早く竜に変じて通路奥へと逃げて行く。
逃すものかと追いかけようとしたところで、ハルクが「お花様…!」と呼びかける声が聞こえた。
振り返ると同時に、部屋へ飛び込んできたカイスが「私が追います」と竜の姿のまま、女が逃げた通路の奥へと身を滑らせる。
すべてが一瞬の出来事だった。
滅多になく興奮しているのか、耳の奥で鼓動がうるさく鳴り響く。
白き竜の速度に勝るものはない。自分が竜となり駆ければ、先ほどの女に追いつき捕らえるのは容易いだろう。だが、今は……。
優先すべきは何だと短く自問自答し、荒い息を落ち着かせ背後を振り返る。
壁に散る赤と床に溜まる血の量に、心臓が激しく脈を打つ。
「イリリア……」
床に倒れた少女の顔はハルクのマントで隠されていた。
それでは呼吸が苦しいだろうと伸ばしかけた手は制され、「見てはなりません」と硬い声で告げられる。
「いけません。お花様はこのような姿を貴方に見られたいとは思わないはずだ……至急、医者を手配してください」
「………。」
その言葉に、どうして頷けるだろう。
この王宮にアズハルを助ける者など居ない。
頼めるとしたら陛下の主治医くらいだろうが、このような時に陛下のそばを離れて駆けつけてくれるとは思えない。
女官らが使う医務室の場所など知るはずもなく、王宮が危機に晒されている今、無力な王子の花嫁の為に、誰が力を貸してくれるというのか。
表情からそれを読み取ったのか、ハルクが奥歯を噛み締めた。
血溜まりの中に膝を折り、手を伸ばしてイリリアの身体に触れる。
どこもかしこも血で染まり、連れ去られた時に引き摺られたのか肌にも多くの傷がある。
顔を覆うマントの隙間からも止めどなく血が溢れ、その下が凄惨な状態であることは嫌でも想像がついた。
それでも、目を逸らすわけにはいかない。
「……ハルクのマントよりも、こちらの方が柔らかいだろう」
自分の上着を脱ぎ、顔を覆っていたマントを外す。
顎先から目元にかけて爪で切り裂かれたのか、顎の骨は砕け、顔の右半分が無惨に潰れていた。
それでも、左半分は、眠っているように穏やかで。
流れ続ける赤を止めるために上着の柔らかな布地を押し当てる。
ハルクが倒れた女を縛り上げるついでに布を剥ぎ取って来たようで、それも使って丁寧に丁寧に傷口を押さえる。
耐えきれずに一度だけ、手のひらで自分の目を覆った。
まぶたの裏には今朝見たイリリアの笑顔があるのに、目の前に横たわる彼女はもう、言葉ひとつ発さない。
王宮になど連れて来なければと思う一方で、襲撃されたのが王宮で良かったと思う理由もある。
「……ハルク、このまま止血を続けろ。私は陛下の居室より竜血樹の樹液を頂いてくる」
「竜血樹……?」
「王族にしか伝わらぬ、霊峰で最も強い薬だ……」
その雫は一滴で脈を促し、啜れば新たな命を授かるといわれるほどのもの。
採取には規制があり……無断で手を出したと知られれば懲罰は免れない。
だが、そんな事を気にしている暇はない。
一刻を争うと部屋を飛び出そうとすれば、息を切らせたサディオが戸口に立った。後ろには老婦人を伴っており、彼女は部屋の惨状を見るなり臆することなく「入りますよ」と立ち入って来た。
アズハルとは殆ど面識のない女性だが、記憶が正しければスハイルの妻君だろう。
「王妃殿下より許可をいただいてお連れしました。怪我をなさっているのであればお花様の手当てを、と…」
言葉が続かなかったのは、まさかこれほどの惨状だとは思わなかったからだろう。だが、サディオのおかげで少しばかり救いが見えた。
竜血樹を貰うついでに父上の主治医の身も攫って来ようと思っていたが、まさか王妃殿下の主治医を連れてきてくれるとは。
「ありがとう」と告げると、無言で首を振られ謝罪された。花嫁の身が危険に晒された時点で、護衛としては失格だと考えているのだろう。
「………すぐに竜血樹を持ってくるとリーラン殿に伝えてくれ」
「は…!」
扉を出ると、見覚えのある場所だった。
謁見の間と竜帝陛下の居室の中間あたりだろうか。このような内部にまで外敵が侵入したとなれば、さすがに陛下が黙っていないだろう。
そして王妃殿下が怪我を負ったとなれば、北の一族は問答無用で粛清の対象となる。
竜血樹のある部屋まで急ぎながら、隠し通路へ逃げようとしていた女の顔を思い起こす。
見間違えるはずもない。あれは、自分を生んだ女だ。
左目は潰してやったが、もっと深く抉ってやれば良かった。
たとえ生みの親であろうとも、我が花嫁を傷つけたのだから、相応の報いは受けるべきだろう。
居住区画との境界に立つ隊士に「我が花嫁がナスリーンの手で傷つけられた。命に関わるため陛下の居室にある治療薬を貰い受けに来た」と告げる。
手や服にべったりと大量の血が付いているため、嘘ではないと判断したようだが「陛下から立ち入りの許可が下りたとは聞いていない」と制止される。
「花嫁は今、王妃殿下の主治医であるリーラン殿が診てくださっている。薬の届きが遅く万が一にも花嫁の命が損なわれた場合、リーラン殿が責を問われ、王妃殿下が深く悲しまれることになるが……それでも構わないのであれば事実確認が済むまで待とう」
王妃殿下の名が出たことにぎょっとした隊士は僅かな葛藤の末に道を開けた。
先日シャイマ殿が引退なさったことで王妃殿下は相当機嫌を損ねていたというし、ここでリーラン殿まで居なくなればとんでもない事になると判断したのだろう。
王妃殿下の離宮が荒れれば、その波紋は王宮内に多大な影響を及ぼす。
ナスリーン達が反旗を翻すような真似をし、王宮内部が危機に晒されている今、これ以上の波乱や混乱は当然ながら望ましくない。
静かな廊下を迷いなく歩き、陛下の私室に程近い部屋に置かれた金庫の前に立つ。
成人したあとに一度だけ父上から見せてもらった事があるものの、ここにあるものはたとえ王子であっても、竜帝の許可なしに持ち出すことは許されない。
そう教えられた金庫の鍵を、祈るような気持ちで解錠する。
そして中に収められた貴重な霊薬の入った小瓶を抱えられるだけ抱えて、竜に変じてイリリアの居る部屋へと駆け戻る。
金庫番の男は、陛下からの許可の証明がない限り薬は渡せないと小煩く抵抗していたが、腹へ拳を叩き込み気を失ってもらった。ここで罪状が増えようとも花嫁の命には代えられない。
急ぎ戻って赤黒い樹液の入った瓶を手渡せば、リーランはぎょっとしたように目を剥いた。
「こんなに…!?陛下はご承知なのですか!?」
「懲罰はいくらでも受ける。必要な量がわからなかったゆえ、多めに頂戴してきた」
小瓶の中には数滴の樹液しか入っていない。
あの傷を確実に治すためにはそれなりの量が必要だと判断したのだが、リーランからは「確かにある程度の量は必要ですが、飲ませれば飲ませるだけ効くというものではありませんよ…!」と叱られてしまった。
スハイルから聞いてはいたが、怒り方がルゥルゥとよく似ている。迫力はその数倍はあるが。
「止血は既に済んでおります」という言葉に小さく胸を撫でる。
だからといって救われたわけではないが、あのままでは確実に失血死していただろう。
顔は歪に包帯で巻かれており、口を無理やりこじ開けて樹液を飲ませようとするリーランにもっと優しく頼むと言いかけてどうにか口を噤んだ。
命を救うためには強行せねばならぬ場面もあるだろう。
「………喉は繋がっているか?」
「繋がっております……右側の顎から上の骨が砕け、頬から目にかけて大きく裂けておりますが、喉も繋がり、首の骨も折れてはおりません。
倒れた衝撃で頭を強く打たれたように見受けられますが、物が突き刺さるなど外部からの傷はありません……内部の損傷は、残念ながら外からでは判断できかねます」
「そうか……他に何かすべき事はあるだろうか」
「損傷箇所の復元には時間がかかりますし……最悪の場合、痛みで錯乱するか死に至ります。離宮へ連れ帰るのであればスハイルに診せると良いかと。あの人は一時期、竜血樹の研究をしていましたし、対処法も心得ているでしょう」
「わかった。リーラン殿、助力に感謝する」
「義理の息子から平身低頭頼まれましたからね。それに、孫娘が悲しむ顔は見たくありません。あの子にとってこの状態の花嫁を診ることは大きな負担となるでしょうが……負けないようにと伝えて下さいませ」
「伝えよう。それと……万が一の時は貴女に類が及ばぬよう尽力する。責任はすべて私に押し付けてくれ」
こちらを見上げたリーランは「花嫁が救われたところで貴方様が処刑されるのでは目もあてられませんね」と鋭い声で言い放った。
言葉のキレの良さはシャイマによく似ているな…と言い返せないままでいると、戸口のあたりが俄かに騒がしくなった。どうやら金庫番が倒れているのが見つかったらしい。
第二王子を出せと言い募る王宮警備の隊士の前に出たのはカイスで、一触即発の二人のあいだに割り込んだのはリーランだ。
二十センチも低い身長の小柄な老婦人から睨まれた隊士は、その眼光の鋭さに思わず半歩引き下がる。
「このような時に何をしているのです。アズハル王子の花嫁を襲ったのはナスリーンですよ。あの女共はこのような王宮の奥深くまで、隠し通路を通って侵入していました。今は持ち場を離れず戻りなさい。王子を捕縛する必要があれば陛下が改めてご指示なさいます」
「しかし、王子殿下は金庫番を襲って薬を持ち出したのです」
「だから何だと言うのです。緊急時に金庫を開ける判断もできない無能者は今すぐ王妃宮へ引き摺って来なさい!」
老嫗の剣幕と王妃宮へ連れて来いという一種の最終通告に、隊士は顔を引き攣らせながら一礼して下がった。
集まりつつあった野次馬達も一喝して蹴散らしたリーランは一度室内へ戻り、処置の為に使った道具類を鞄に仕舞うと、もうこれ以上ここで出来ることはありませんと立ち上がる。
「花嫁の容体が安定したら陛下への謝罪や陳情書、そして王妃殿下へのお礼状をスハイルに持たせなさい。交渉次第では幾らかの猶予をもらえるでしょう。王妃殿下は今回の一件に同情的です。わたくしからもこの惨状についてはお伝えしておきましょう」
「何から何まで、本当にありがとう」
部屋を出ていくリーランに深々と頭を下げる。
いつのまにかハルクが居なくなっていたが、どうやら襲撃のあった王太子の離宮へ、状況確認と事実の擦り合わせに向かったようだ。
サディオは安全確認と花嫁の受け入れ態勢を整えるために先に南の離宮へ戻ったという。
隠し通路に追って入ったものの、分岐が多くナスリーンを見失ってしまったカイスは珍しくも悔しさを滲ませていたが、取り逃したことを責める気にはならなかった。
血塗れの衣服を隠すようにカイスのマントを掛けてやり、イリリアの身体をそっと抱き上げる。
「………帰ろうか」
心は不思議と凪いでいて、夢の中を歩くかのようだ。
イリリアもかつてはこのような気持ちだったのだろうか……。
恵まれすぎると夢か現実かわからなくなるときがあるんですよね…と困ったように微笑んでいた少女の儚さを思い出す。
幸せを祈った星はあんなにも美しく煌めいていたのに。
ただ、一緒に居られればそれで良かったのに。
これが夢であるなら、どうか醒めて欲しい。
目覚めた先にいつもの愛らしい寝顔があるのなら、それ以上の事はない。
だが、もしも夢が醒めて、その先に彼女が居なかったら………私の命も共に潰えて欲しいと切に願った。




