26. 竜胆と死人花
綺麗な衣装を着させてもらい、アズハルと共にやってきた王宮はやはり荘厳だ。
王族へ嫁ぐ女性には花嫁教育というものがあり、その指導者としての役目をファティナが担ってくれることになったと聞いて以降、アズハルが熱を出すなど南の離宮は少しだけ慌ただしかった。
お茶会の場所は、以前お邪魔した王太子殿下の持つ離宮の一室。
ちょうどアズハルが王太子殿下やサーリヤと会議をする日があるからと、その日に合わせて開催してもらえることとなった。
王宮に入り口は三つあるが、その中でも離宮に近い外門前に竜車を停めてもらったのは、少しでもイリリアの歩く距離を短くしようというアズハルの優しさだろう。
輝かしい笑顔のウェンから今日の御衣装は愛らしいですねと褒めてもらい、アズハルからのエスコートを受けながら離宮前へ辿り着くと、そこにはファティナ妃付きの筆頭侍女が待ってくれていた。
イリリアは今回侍女を連れていない。代わりにふたりの護衛役の随伴が許され、サディオとハルクがついて来てくれている。
さすがに元陛下の近衛ということもありサディオは王宮内で顔が利く。そしてハルクが筆頭侍女に「お久しぶりですね」と微笑みかければ、少し厳しい顔立ちだった年配女性の表情が和らいだ気がした。
「我が花嫁が世話になるため、ファティナ妃殿下にご挨拶申し上げてから会議へ向かおうと思っている。茶室の扉前まで同行しても構わぬか」
「妃殿下より、アズハル様がおいでになった場合はお通しして良いと指示を受けております。どうぞこちらへ」
筆頭侍女が案内してくれた部屋は先日の部屋よりも少し奥まったところにある一室で、女性が使うのを目的としているのか内装は華やかで愛らしかった。
奥の椅子から立って扉の前まで来てくれたファティナに、アズハルは丁寧に言葉を伝えた。
「花嫁教育を引き受けてくださり深く御礼申し上げます。会議が終わりましたら迎えに参りますので、どうぞよろしくお願いします」
「ふふ。アクラム様がアズハル殿は絶対に付いて来るだろうと仰っていましたが、本当に大切になさっているのですね。イリリアさんに意地悪なことは致しませんのでご安心ください」
「ありがとうございます。イリリア、私はこれから内宮にある会議室へ向かう。何かあれば遠慮なくハルクを使っていいからな」
「はい。いってらっしゃいませ。ファティナ様、今日は場を設けて頂きありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
立ち去るアズハルの背に小さく手を振って見送ってから、ファティナ妃に御礼を言って室内に入る。
サディオが「私は此処に」と一礼して外の扉前に立ち、ハルクは入室の許可を得て後ろに着いてきた。
ハルクが入るなり室内が俄かに色めき立ったのは気のせいではないだろう。
部屋には筆頭侍女の他にふたりの女性が居て、ひとりは茶器の乗った盆を持ち、ひとりは資料と思しき紙の束を持っている。
凛とした佇まいの女性たちだが、視線はハルクに釘付けだ。
筆頭侍女の咳払いで茶の用意が整えられ、茶器を持っていた侍女は名残惜しそうに控室へ戻って行った。
今日はウィンクは飛ばさないのねと普段の軽薄さを潜めたハルクを振り返る。……と、こちらへ向けてパチリ⭐︎とウィンクされた。部屋に残っていた侍女が「きゃあ」と声を漏らし、慌てて口元を押さえている。
なるほど面倒な事にならないよう人を選んでいるのね…と納得して頷き返し、正面を向き直せば、どこか嬉しそうな雰囲気のファティナから「お茶をいただきましょう」と促された。
「先日のご挨拶の折にも思いましたが、アズハル殿とは随分と仲睦まじいご様子なのですね。本日の指導に対して、直筆のお手紙まで頂戴しましたの」
王子の手紙は基本的には文官の代筆だ。とても親しい場合や、心を込めた大事な内容の時以外は直筆で書くことはないとされる。
ファティナが受け取った手紙には、花嫁教育の指導を受けてくれた事への御礼や、異種族の花嫁ゆえに認識の差異があることへの事前の断りなど、それは丁寧にアズハルの心遣いが籠められていたという。
手紙を検分した文官がもしやと思いアクラムに確認したところ、アズハルの文字だな…と証言を得たそうだ。
ベール越しのためその顔ははっきりとは見えないものの、穏やかで柔らかな表情であることは間違いない。
アズハルの優しさをしみじみと感じながら「とても良くして頂いています」と微笑み返す。
「貴女の護衛に声を掛けても良いかしら?」
「勿論です。存分にお話しください」
王太子殿下の嫉妬によりハルクはファティナから遠ざけられていたと聞く。ただ、ファティナのほうはハルクの顔を好ましく思っていたようだから、イリリアの側付きになったのを機に、こうして顔を合わせる場を作ったのだろう。
嫉妬で何か意地悪をしてくるわけでもないし、花嫁教育という面倒事を引き受けてくれたのだから、好みの美男子鑑賞くらい存分に楽しんでいただければと思う。
「久しぶりね、ハルク。貴方の自由な発言を許すわ」
「お久しぶりでございます王太子妃殿下。こうして言葉を交わすのはおよそ五十年ぶりでしょうか」
「アクラム様の疑い深さは相当なものね」
「妃殿下が魅力に満ちていらっしゃるからでしょう。本当は離宮の奥に閉じ込めて一歩も外へ出したくないと仰せでしたよ」
「まあ。そんな事を言って」
くすくすと笑うファティナは、ハルクからのお世辞にもアクラムからの言葉にも喜んでいるように見える。
先日の王太子の様子からはそのような嫉妬深い一面は感じられなかったが、やはり作り付けた外面と本性は異なるのだろう。
イリリアの頭上を飛び越えて会話がなされることに嫌悪感はない。
ファティナは事前にお茶と茶菓子に手を付けて話し始めてくれた為、イリリアも遠慮なくお饅頭のような柔らかな菓子をひとくち大に切り取り、ゆっくり口へ運ぶ。餡に練り込まれた甘みが口いっぱいに広がって至福だ。
霊峰外にある獣人族の集落と繋がりを持ち、公的に行商とのやり取りできるのは竜帝陛下のみ。
献上された茶菓子などが供されるのは王宮でのお茶会だけで、南の離宮で侍女たちとお喋りを楽しむ時も基本的に華やかなお茶菓子はない。
そもそも竜人は基本的に霊草や薬草しか口にしない。
以前リヤーフはリームさんのクッキーを食べながら、食に関しては霊峰の途中に住む者の方が楽しんでいるかもなぁと呟いていた。当時はまだ、何か食べさせてもらえるだけでも嬉しいなという空腹具合だったため聞き流していたが、確かに、カモシカ族の集落に居た頃の方が色々なものを口にしていた気がする。
イリリアがお饅頭を味わいながら懐かしのカモシカ族の集落へ思いを馳せているあいだにも、ハルクたちの会話は弾む。
「南の離宮へ送ると聞かされた時にはもう送り出しが済んでいて、お別れの挨拶すらさせてくださらなかったのよ」
「こうしてすぐに再会する運命だと、ご存知だったのかもしれませんね」
「そうかしら。ただの意地悪にしか思えないけれど……ハルクを花嫁の近くに置くなんて、アズハル様は随分と大胆なことをなさるものだと、皆が口にしておりましたよ」
チラリと視線がこちらに向けられた気がして、お饅頭を食べる手をとめる。
「ハルクのおかげでアズハル様の色々なお顔が見れて嬉しく思っています」と頷けば、後ろのハルクからすかさず「私もお花様のおかげでアズハル様の新たな一面を拝見していますよ」と返された。
「陛下からはサディオ殿が派遣されたと聞きましたが、サーリヤ様のところからはどのような人員が送られたのかしら」
「とても愛らしい雰囲気の少年です」
「そう……てっきりサーリヤ様が直々にお鍛えになっていると噂の、屈強な隊士かと思いましたわ」
「私を怖がらせないようにとご配慮下さったのでしょう。それに、優秀な護衛は王太子殿下より預かるだろうとのお考えだったようです」
「アクラム様がこれ幸いとハルクを渡すことは読まれていたのね」
「私が嫌われ者のようではありませんか」
「素敵な殿方はいつでも妬まれるものよ」
ハルクとファティナの会話はそこで終わり、先に花嫁教育を済ませてからまたお茶の時間へ戻りましょうと提案される。
筆頭侍女がお茶を足してくれて、ハルクに見惚れながら待機していた侍女が資料をテーブルに広げる。
王族に嫁ぐ者以外は聞いてはいけない内容のため、準備の済んだ室内にはイリリアとファティナだけが残された。
「先ほど、わたくしとハルクとが話している最中もイリリアさんは穏やかなご様子でいらっしゃったでしょう?ご不快ではなかったかしら」
「久しぶりの再会だと聞いておりましたし、殿下の目がない場所でお会いになる機会は滅多にないでしょうから、心ゆくまでお話を楽しんで頂けたらと思っておりました」
「そう…お気遣いを頂いたのね、ありがとう。実は今の時間はわたくしの侍女たちに、イリリアさんがどのような人物かを見て、納得してもらうための時間だったの。出迎えに立った筆頭侍女は特に心配性で、殿下の許可が下りたとはいえ、逃げ場のない個室でふたりきりになるのは…と難色を示していたものだから」
「これまでの人間の所業を思えば、ご懸念を抱かれるのも仕方のないことかと…きっと隣室でも気を揉んでおられることでしょう」
「これからお話しするのは王家が秘匿する内容ですから、耳はそば立てないよう重々言い聞かせております。イリリアさんも言葉を控える必要はありませんわ、不明なところは尋ねて貰って構いません。では……初夜における授与の儀の契りの作法からお伝えして参りましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
竜人族にとって初夜は特別な意味を持つ。
王族だと特に儀式色が濃く、初夜から連なる三日間は夫婦の営みに相当する『授与の儀』が行われ、直前の支度までは侍女の介助が入るものの、儀式そのものはふたりきりで臨むという。
基本的には男性側による導きの通りに身を任せれば良いが、女性側もある程度は何が行われるか理解しておくのが良いとされる。
さらに白き竜に連なる血筋は、その身から授与されるもの全てが高貴で貴重なものという扱いで、ファティナが厳かに語る規則や作法を聞き逃さないよう頭に刻む。
口伝の内容とは別に、用意された紙の資料に書かれていたのは侍女たちの補佐できる範囲や竜人族における一般的な閨作法についてだった。
そちらはシャイマから指導を受けた内容もあり、特に難なく理解することができた。
ひと通り話し終えたのか、ふぅ…と息をついたファティナがお茶に手を伸ばす。
イリリアも同じようにお茶をいただいていると、ファティナから「あまり驚きにならないのね」と声を掛けられた。
「獣人族の花嫁は、作法の違いに少なからずの嫌悪感を抱くと聞いております。特に…儀式の前に薬を服用するでしょう?それが受け入れ難いようで…」
儀式では身体を強制的に興奮状態にする薬が使われる。その製法は花嫁の主治医にだけ伝えられ、一般の営みで使われるものよりも強い効果があるらしい。
発情期という自然の周期に身を任せる獣人にとっては、強制的に身体を興奮状態にする事に対して嫌悪感や抵抗感が強いというが、人間であるイリリアからすれば然程ではない。
「苦痛を強要されるよりも良いと思います」と伝えれば、納得したように頷かれた。
とはいえやはり、根本的な認識から違っているのだなと痛感した。
竜人族の営みはあくまで『繁殖』を目的としたもので、余計な手順は付随しない。一方で人間にとっての男女の営みは、繁殖を目的にする事もあるが、遊興の一環でもある。
欲を満たし快楽を得るために行為を楽しむというのは人間特有の文化なのだろう。
戯れにも似た甘やかな触れ合いを期待していただけに、少しだけ落胆する気持ちはあるものの、アズハルにこちらの事情を押し付けるつもりはない。
行為の前後にキスの時間だけ付け足してもらえないか交渉してみようかな…と考えていると、お饅頭をひと口食べたファティナが護衛たちを部屋に戻して良いか聞いてきたため頷き返す。
真っ先に部屋へ戻った筆頭侍女は、落ち着いた様子のふたりを見てホッと胸を撫でている。
ファティナはそんな侍女の態度をフォローするように「先ほども少しお話ししたように、作法に嫌悪感を抱いた獣人族の女性が暴れて爪を立てたという事例があるので、余計に神経質になっているのでしょう」と苦笑した。
自分の爪を見てもあまり伸びていないし、今は隠されているが竜人には硬い鱗がある。生半可な攻撃は通用しないだろう。
「そういえば……アズハル様の叔母様の花婿殿の指導は、殿下がなさったのですか?」
「ええ……軽微ではありましたが怪我をして戻られたので、とても肝が冷えました。お相手を務めた指導員の女性もお怪我なさったとか」
「え!?」
王族の閨指導と聞けばナヒーダの顔が浮かぶものの、相手を務めたのは彼女の母親や祖母にあたる人物だろう。大変なお役目だわ…と思う一方で、今日の話し合いが物凄く警戒されていた理由にも改めて合点がいく。
「何事もなく済んでよかったです」と思わず口にすると、ファティナは一瞬動きを止めたあと、「イリリアさんがそれを仰るのね」とふふふと笑ってくれた。
資料を片付けている侍女が驚いてファティナを振り返っているのは、人間相手にそうして笑うとは思っていなかったからだろうか。
戻ってきたハルクがすかさず「ベールに隠された笑顔も神秘的で魅力的ですね」とにこやかに告げたことで、ファティナの機嫌は一層に良くなったようだ。
「ハルクは控室で悪さをしていませんか?」
「勿論です。アズハル様やお花様の評判を落とすような真似はしていませんよ」
ちょっと襟が乱れていますよと指先で示すと、悪戯な風が吹いたようですねと悪びれた様子もなく襟を正す。
まだ御礼を言っていなかった事を思い出して「ご指導いただきありがとうございました」と頭を下げれば、柔らかな声で「イリリアさんがとても真剣に聞いて下さって、こちらこそ助かりましたわ」と返された。
「うちの子の花嫁も同じように真面目な方だと良いのだけれど……予定よりも早く終わりましたので、会議が終わるまでまだ時間がありますわね。もし良ければ離宮の庭を案内致しましょうか」
善意で言ってくれた事だけに、庭を歩き回れる自信がないとは言えない。
さてどうしようかと思っていると、扉が小さく叩かれた。顔を覗かせたのは部屋の前に立っていたファティナ付きの護衛隊士だ。
「どうなさいました?」
「今しがた、南の隊士が緊急の連絡があると離宮を訪問したため、サディオ殿が確認へ向かわれました」
その言葉にハルクと顔を見合わせる。
イリリアがアズハルと共に王宮へ向かったことは離宮の皆が知るところだが、花嫁教育の件は伏せられ、婚礼の儀式に関する会議に同席することになっているはずだ。
こちらで会議がおこなわれていると勘違いしたのだろうか…と思っていると、扉前の隊士がハッとしたように廊下側へ顔を向け「止まれ!」と鋭い声を立てた。
明らかに武装している複数人が廊下を駆けて来る音がする。
俄かに増した緊張感に、ファティナとイリリアも立ち上がる。
バン!と大きく扉が開かれた先に居たのは、確かに南の所属であることを示す隊服を着た隊士。だがその手には抜き身の剣が握られており、顔は憎悪に満ちていた。
「サイル……?」
ハルクが記憶を探って隊士の名を呟くと同時に、イリリアの脳裏には嫌な記憶が蘇った。
霊峰上層の拠点で、イリリアに悪感情を向けてきた隊士だ。
雷鳥の一件により花嫁のそばに近づくことが禁じられ、その後の人員整理でアズハルの近衛から外されたと聞く。どう考えても恨みを募らせているのは間違いない。
「ハルク…ッ」
喉が詰まるような必死の呼びかけと、振り上げられた剣が目前に迫るのは同時だった。
ハルクは鞘入りの剣でそれを難なく弾き、長い脚でサイルの身体を蹴り飛ばす。
「っ、人間を庇うな!それでも貴様は竜人か!その女のせいでアズハル様の高貴なる血が穢れるのだぞ!!」
「悪いが、男の命令を聞く趣味はない」
冷静に一歩踏み込んだハルクはいつのまに鞘を外したのか。
咄嗟に剣で受け止めたサイルとのあいだに鋭い剣戟の音が響く。
「その人間はアズハル様を不幸にする!今すぐに殺せ!!」
「……お前ごときがあの方の心情を語るな」
ぞっとするほどに冷たい声と共に、ハルクの剣がサイルの脇腹を刺し貫いた。
怯んだところに顔面に拳が叩き込まれ、完全に意識を失ったサイルが床へ倒れ込む。
だが立て続けに、廊下での争いから抜け出してきた見知らぬ隊士が数名、部屋へ入り込もうとする。
誰かが「北の…!」と呟き、室内の者たちが一斉に身構えた。
だが賊は部屋に踏み入ることは叶わず、背後から強く打たれて床に倒れ伏す。
「なぜ!?」「足止めしている筈では!?」と戸惑う賊共に容赦ない一撃を喰らわせて気絶させたサディオは、これ以上外からの立ち入りは許さないとばかりに素早く室内へ身を滑り込ませた。
その頼もしさに少しだけ緊張がほどける。
「たかが三人程度で抑えたと思われては困るな…」
「サディオ殿、ご無事だったか。皆、今のうちに妃殿下を避難させろ!お花様も…」
「人間のお花様はこちらへ!」
「え…っ!?」
振り返ったハルクが手を伸ばすよりも先に、誰かに襟元を引っ張られて身体が後ろに倒れ込む。
そのまま先ほどまでハルクが待機していた控室に引き摺られ、乱雑に顔に布を被せられた。
「っ、くそ!…お花様!アズハル様をお呼びください!!」
剣戟の音と、ハルクの叫びが聞こえる。
布を被せられる直前、複数人の見知らぬ隊士が控室にいるのが見えたため、彼らとの交戦が始まってしまったのかもしれない。
一度雑に持ち上げられ、どこかに放り込まれたかと思えば、また襟首を掴まれ身体ごと引き摺られる。
隠し通路でも通っているのか布越しにカビ臭いにおいがするし、とても寒い。
容赦なく引き回される身体は、進む方向が変わるたびに色々なところを打ち、もう全身が痛い。
「っ、ぅあ、!」
どれだけ引き摺り回されただろう。
突如乱暴に放り捨てられ、顔に被せられた布が剥ぎ取られた。
「ああ………お前がそうなのね」
感情が突き抜けた冷たい声に、痛みを堪えて顔を上げる。
「ぁ………」
そこに居たのは『母』だった。
イリリアの生みの母ではないが、母と同じ眼差しをした年配の女性が、底なしに冷たい瞳で床に転がるイリリアを見下ろしていた。
向けられる嫌忌と憎悪の瞳に、かつての記憶が重なって、どうしようもない恐怖に囚われる。
「お前がいなくなれば、わたくしの愛する息子の目も覚めるでしょう」
女性の右手は竜のように硬い鱗に覆われ、その先には鋭い鉤爪が鈍く光っている。
(こわい……)
傷つけられる恐怖よりも、母に似た女性に見つめられる恐怖が勝る。
「お前など、誰も必要としていないの」
(こわい……、おかあさん……どうして…)
止まっていた記憶の歯車が巡る。
やめてと心が悲鳴をあげるのに、まるで走馬灯のように映像が、声が、強制的に頭の中で反芻される。
『そう…』と月のない夜に母が呟く声。
薄暗い室内。テーブルの向かいには兄が座っていて、腹立たしそうに『女に騙された』と机を叩いている。
『でもイリリアを差し出せば借金は返せる。家の仕事が滞るなら下女を手配しないとな…あいつが居なくなれば、母さんもようやく肩の荷が下りるだろ?』
『そうね……やっとあの子を見なくて済むようになる。せいぜい…地獄の果てで苦しみ抜いて死ねばいいわ』
こちらに背を向けていた母の顔は見えなかった。でも、その言葉だけは鮮明に聞こえた。
たしかに自分は生まれる時に母の身体を傷つけた。
だけど、母を裏切って愛人を作り不貞を働いたのは父だ。
どうして自分ばかりがこんなにも否定されるのかわからなかった。
悲しくて、苦しくて、せめて何かに抗いたくて家を飛び出した。
見つかったら捕まって、とても酷いことをされると知っていたから、必死に逃げて、逃げて、隠れて逃げて…。
そうして最後は……自分で、自分の命を否定して、…胸を刺した。
(花が……あつい)
恐怖で動けないイリリアを嘲笑う『母』の表情が、あの時の母の言葉と重なる。
これまで苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて迎えた顛末がこれなのだとすれば……あの夜の母の願いは、今ここで叶えられることになる。
どうしてだろう。
やっと……生きたいと思えたのに。
思い描いたあたたかな未来がもろもろと崩れ落ちていく。
(夢だったらよかったのに……)
これまで何度も、夢の中にいる心地だった。
抱きしめてもらえるたび、優しい言葉をもらうたび、夢のようだと思って、夢じゃなければいいなと何度も思った。
だけど今は、これが夢であればと思う。
夢ならば、残される人のことを考えずに済む。
わたしひとりが消えて、それで終わりになる。
ギラリと光る鉤爪を、ただ言葉なく見つめる。
あの鋭い爪はこの身を抉り、私は無惨な骸に成り果てるだろう。
(………アズハル様、)
天窓から見上げた満天の星を思い出す。
叶えてあげられなかった願いにごめんなさいと心から謝る。
ふたりで幸せになりたかった……
でも、……私はもう、私の幸せを願わない。
だから。
神様でもお星様でも誰でも構わない。
願いを聞いてくれる人がいるのならば
どうか、あの人だけは、幸せにして。
優しいあの人が、いつかまた…大切なものと出会って、穏やかな幸福に身を浸せるよう。
どうか………果てない幸せを得られるよう。
どうか………、
歪んだ笑みを浮かべた『母』の目に宿る殺意が、膨らみ燃え上がる。
鋭い爪のついた竜の手が力いっぱい振り上げられ、顎先から脳天へ突き抜けるように重い衝撃と熱が走る。
勢いのまま身体が後ろへ吹き飛ばされ、受け身も取れずに床に叩きつけられた。
追いかけるようにじくじくとした痛みが降りてくる。
(痛い……)
もうどこもかしこも痛くて、首の骨が折れていないのが奇跡だわ…と、動かない四肢を投げ出したまま少し笑った。
(ここが地獄の果てかしら……)
おかあさんは、これで、ゆるしてくれるだろうか。
やっと願いが叶ったと、喜んで笑うだろうか。
視界は赤く、徐々に痛みすら遠ざかっていく。
意識の遠いところで「イリリア!」と懸命に呼びかけるアズハルの声が聞こえた気がして、その愛おしさに気持ちが救われる。
ひとりぼっちは寂しいから
どうか最期に手を握って欲しくて
ここにいるよ……と、小さく小さく呼びかけた。




