25.発熱と鼎談
▽視点の切り替えあり
▽イリリア→アズハル
「美しすぎて誰にも見せたくない」
と抱きしめてくれたアズハルの背中にそっと腕を回す。
朝から儀式衣装の合わせでラウダたちの着せ替え人形になっているのだが、婚礼の儀式のうち、結婚式に相当する『誓いの儀』で着る衣装をお披露目したところ、同じく儀式で纏う豪奢な衣装を着たアズハルから腕に閉じ込められた。
誰よりも神々しい姿をしているのに、こちらの衣装ばかり褒めてくれるのが嬉しいやら気恥ずかしいやらで、照れ隠しに頬とこめかみへ唇を寄せる。
すかさず額に口付けを返してくれるあたり、相当ご機嫌なようだ。
背中が濡れて透けてしまうことを懸念したアズハルは、川から上がったあとに羽織れるよう、大判のストールを用意してくれた。布の両端には星図を模った細やかな刺繍が施されている。
背中から胸元にかけてをそのストールで包んで、どうですか?とくるりと回ってみせると、再びぎゅっと腕に閉じ込められた。
言葉もないまま暫く抱擁される。
「……儀式が待ち遠しいですね」
「そうだな……寒くはないか?」
「今は平気ですけど、儀式は夜に外でおこなうんですよね?」
「月がある程度の高さに来てからだな……その後の儀式もあるし、遅い時間にならないようあらかじめ月の動きを測って決めているから、真夜中の寒々しい時間帯にはならないはずだ」
先日星見の時に見せて貰った回転盤を思い出す。
時間が配慮されているとはいえ、夕焼けを見に行っただけで蒼白になるのだから油断はできない。
寒ければ儀式の前にもストールを巻いていて良いと言われ、ほっと胸を撫でた。
「代々竜帝陛下が管理する土地であるし普段は近寄らない場所ゆえ私もあまり詳しくはないが、湖の深さは女性の腰よりも下だったと思う。だが、叔母上の儀式の日には少し水位が上がって腰あたりまであった気もする」
「水量が変わるものなんですね」
「湖にある木の根元には、初代竜帝陛下が眠っておられるそうだ。ゆえに、水の増減は初代様の機嫌に左右されるという言い伝えもある」
儀式をするのはいわゆる陵墓的な場所で、初代竜帝の眠るとされる大木は湖に浮かぶ浮島に聳え立つという。
そして澄明な湖から流れ出た水は川となり天上を流れ渡り、やがて滝雲へと合流する。
川には寿命を迎えた竜の心臓部にあたる玉が流されているため滝雲付近の下流には供養や弔問に訪れる者も多いが、源流となる湖は厳重に管理され、基本的に王族とそれに近しい者しか立ち入ることができない。
花嫁とそれを迎える王族はそれぞれ幅三メートルほどの川の対岸に立ち、互いに渡り合って川の中央で合流する。手を取り合って川を遡って湖まで至り、そこで誓いと口付けを交わせば儀式は終了となる。
見届け人たちへ儀式の終わりを告げたあとは離宮へ戻り、大急ぎで次に控える初夜と呼ばれる『授与の儀』の支度へと移る必要がある。
儀式をする当人たちも大忙しだが、少人数で支度を整えなければならないため、ラウダたちも大変だろう。
儀式のあとは各々ゆるりと休める時間を作って欲しいと思うばかりだ。
寝所で儀式衣装を脱いでからアズハル様の居る隣室へ戻ると、ハルクと何やら話しているようだった。
花嫁付きの隊士は、室内警備ができるようになる。
これまで警備といえば扉外にキッチリ立っているか、アズハル様が連れて来るカイスさんが壁際に立つくらいだったから、隊士服を着たハルクが室内にふらっと立っているのは何とも不思議な感じだ。
ちなみにサディオさんは壁際にお行儀よく立っていて、目が合うと、微笑むとまではいかないが軽く目元を緩めてくれる。
素敵…と密かに胸を弾ませていたところ、アズハル様が少しだけ拗ねてしまった。
ハルクはよくウィンクをくれるが、あまり胸は弾まない。代わりに流れ弾にあたったラウダがよく倒れているから、そろそろカイスさんから厳しい報復措置が取られるかもしれない。
そんなことを考えながらアズハル様のもとへ向かう。
気づいて隣に座れるよう椅子を引いてくれたが、遠慮なく膝に乗り上げた。
サディオさんが警備に立つ日はちょっと恥ずかしくて出来ないけれど、ハルクの日なら、もう何度も見られているし大丈夫だ。
ご機嫌なアズハル様はお腹に手を回すと後ろからぎゅっと抱き込んでくれる。
ハルクが少々呆れた眼差しでこちらを見ているが、気づかないふり。
リヤーフだったらきっと遠慮容赦なく「距離感バグってるな」とつっこんでいるところだろう。
「イリリア、ファティナ様のことは覚えているか?」
「もちろんです。瞳に星花印をお持ちの、王太子妃殿下ですよね?」
「ああ。以前からお願いしていた事があったのだが、先日の顔合わせで問題ないとご判断くださったのか、色よい返事をいただけてな……七日後に、兄上の離宮でファティナ様とお茶を共にしてもらえないだろうか」
「お茶会ですか?」
「お茶会兼勉強会といったところか。私が王宮で兄上たちと会議をしているあいだ、ファティナ様のもとで花嫁教育を受けてもらいたいんだ」
花嫁教育と聞いて思い浮かぶのは、シャイマとの勉強会の内容だ。
礼儀作法についてはもちろんのこと、竜人族特有の文化や風習について詳しく教えてもらっている。
アズハルが言うにはそれとは別に、初夜に向けて王族特有の閨作法についての指導が必要とされるらしい。これは一般の女官ではなく、既婚の王族女性あるいは王族の花嫁が口伝する特別なものだという。
アズハルは姉であるサーリヤを指導者として見込んでいたのだが、残念ながらサーリヤにはまだ花婿がいない。
不義の子であるアズハルが王妃殿下に頼めるわけもなく、叔母であるヌーラに頼むとしても、出来れば乱暴者と名高い獣人の花婿がいる西の離宮へイリリアを向かわせたくはなかった。
ファティナに頼めないだろうかと王太子殿下に話を持っていったところ「お前の花嫁は人間だろう」と渋い顔をされた。さらに時期が悪いことにその直後に雷鳥騒ぎが起きてしまったため、「暴れ狂うような人間を花嫁に近づけたくはない」と警戒が強まってしまい八方塞がりの状態だったという。
頭を悩ませるアズハルを見兼ね、先んじてイリリアの人柄を確かめた陛下がファティナに「息子の花嫁が見つかる前に、練習がてら指導してやったらどうだ」と声を掛けてくださったらしい。
命令ではなく提案という形であったため、最終判断は王太子とファティナに委ねられ、顔合わせの結果、了承の運びになったという。
イリリアが順化の最中に熱を出したり空腹で暴れたり血を吐いたりしているあいだに、そんな事まで考えて手配に奮闘してくれていたのだと思えば、アズハルはどれだけ忙しく悩み多き日々を送っていたことか。
ありがとうの気持ちを込めて、頬を寄せる。滑らかな肌触りが心地よい。
「口伝のあいだはファティナ様とふたりきりになるが……問題ないか?」
「はい。行く前にちゃんと黒焼きセットを見つめてから向かいますし、食欲が絡まない限り、大抵の事では感情を荒げない自信もあります」
「陛下の依頼を受けたという体裁でもあるし、雷鳥の一件以来、王妃殿下の目が厳しい状況が続いているからな…まともな女官は罰を恐れて手を出してはこないだろう」
「まともでない女官の相手はこのハルクにお任せください」
「ハルクが同行してくれるのですね」
「ハルクがイリリアの側付きになったとお聞きになられたのだろうな……護衛隊士二名の同行と、うち一名は室内への随伴を許すとの記述がある。兄上は頑なにハルクとファティナ様を会わせなかったから、意趣返しのつもりかもしれない」
「殿下には何度もご説得申し上げたのですがね。魅力が溢れて申し訳ない」
「覆面でもしたらどうだ」
「至宝と名高いこの顔が隠れては王宮中が悲しむかと」
「南の離宮では誰も……ラウダが悲嘆するか」
「この前カイス殿に膝裏を蹴られました」
「顔を狙われたらいよいよ本気だと思え」
軽快なやりとりが面白くて思わず笑ってしまう。
付き合いの長さでいえばダントツでスハイルが飛び抜け、カイスとルトフ、そしてハルク、ユスリーと続くのだが、年齢の近さもあってかアズハルとハルクとのやり取りは気安くて微笑ましい。
少し前、明け方に安全ベルトなアズハルが寝所を抜け出していたせいで盛大にベッドから落ちておでこを打った日があった。
慌てて駆け戻ったアズハルに抱っこであやされながら、「身を冷やすついでに外でハルクと話していたら戻りが遅くなった」と申し訳なさそうに言われたため、枕で叩くのはやめておいた。
代わりに色々なところに口付けをしてヘロヘロにしたあと仲良く二度寝したのだが、以降、ふたりが友人のような距離感で話しているのをよく見かける。
アズハルに凭れかかりながら「仲良しですね」と言えば、イリリアの方が大事だとぎゅうと抱きしめられる。体温を分け合うかのように背中の花印がじわりと温かくなる。
「おふたりは仲睦まじいと聞いていましたが、ここまで熱烈だと目のやり場に困りますね」
「夫婦の時間なのだから気を利かせて扉前に移動したらどうだ?」
「はいはい。お花様、魅力溢れる自分が近くに居るとアズハル様が嫉妬してしまいますので、少し離れて待機することをお許し下さいますか?」
「いいですよ。でも、ひとつだけお願いを聞いてもらえますか?」
「勿論、何なりとどうぞ」
「どなたかにスハイルさんを呼んできて貰ってください。多分……熱があるので」
驚いたハルクがアズハルの顔を確認しようとするが、肩口に額を乗せているからよく見えないだろう。
抱き込まれているイリリアは伝わる熱がいつもより高いことがわかるし、普段のアズハルは人前で熱烈に抱擁したり、躊躇いなく額に口付けを贈るようなことはしない。
まずはラウダに伝えて、体温を確認してから主治医であるスハイルを呼んでもらう。
熱で朦朧となったアズハルは私邸に運ばれ、イリリアは久しぶりにひとりの時間を過ごすことになった。
▽
柔らかな花を抱きしめたまま、揺蕩うように水底へ沈む夢を見る。
青紫色の花は楚々とした美しさに満ち、霊峰の山肌のなかでも特に切り立った崖の上で一本だけ咲く姿は、孤独でありながらも気高く愛おしかった。
そんな竜胆の花を身に宿す花嫁は、こちらへの愛情を惜しみなく示してくれる。
皆に向けて堂々と開く大輪の花ではなく…自分にだけ咲き開いてくれる奥ゆかしさと秘めやかさに、心は蕩けるばかり。
深く沈んでいた意識が浮上すると同時に、自分が今寝台で眠っているのだと気づいた。
であるならば隣には愛おしい花が眠っているはずだ。
最近は寝る時から腕の中に収めていることが多いのに、今日は柔らかな感触を感じない。
寂しいと思うよりも、彼女がベッドから転げ落ちてしまわないかと心配になって、そっと目蓋を押し開ける。
と、視界には皺々の老翁の顔が広がった。
「……………心臓が止まるかと思った」
「おや、それほどに重症でしたかな?」
「花嫁が横にいると思っていたのに、眼前に爺の顔が来れば心臓も止まる」
「ほっほっほ」と笑った老翁はこちらの額に皺立った手を乗せると「熱が出ておいでですなぁ」と子どもへ言い聞かせるように言ったあと、「あっちっちですぞ」とさらに幼子へ言う時のような表現をする。どう見ても楽しんでいるようにしか思えない。
「お花様が真っ先にお気付きになられまして、儂が呼ばれたわけです」
「ああ……では、心配をかけただろうな」
深く頷いたスハイルは、その時の状況を嫌というほど詳しく教えてくれる。
まず、熱に気づいたイリリアはハルクに、近衛の誰かにスハイルを呼んで来て貰いたいと頼んだらしい。それからラウダに熱を測ってもらおうとしたのだが、背中にしがみ付いたまま離れなかったため、後ろ手でよしよしと撫でながら「あっちっちなので、お熱を測りましょうね?」と根気強く説得して、ようやく計測に至ったらしい。
その時点でもはや記憶はないが、部屋に戻るのを嫌がったため手を繋いで私邸の玄関先まで送ってくれたという。
別れ際にしょんぼりするアズハルを一度胸に埋めてから、髪を梳くように撫でたあと「ゆっくりおやすみなさい」と額に口付けまでくれたというのだから、その行いはもはや女神と呼んでいいだろう。
だが、親代わりとして百五十年近くそばに居る爺の口から聞かされるのはひたすらに地獄だった。
「………………熱を出したのなんて久しぶりだ」
視界は揺らぐようにぼんやりしている。
喉や頭の痛みはなく、熱以外に症状は見られないという。
スハイルは額に乗せる濡れたタオルを取り替えながら、「懐かしいですな」と呟いた。
「昔はご実家に遊びに来られた陛下が王宮へ帰られるたびに熱を出しておいででした」
「そうだったか?……覚えてないな」
「帰らないでと引き留めたい気持ちを飲み込んで我慢して……見送りが終わったあとにいつも熱を出しては、身体がしんどいと泣いておられました」
染み入るような呟きに、当時の記憶を重ねてみるが全く覚えていない。
ただ、昔の自分を想像してみると…しんどいのはきっと、身体ではなく心だったのだと思う。
父はおそらく実家へ寛ぎに戻ったと言いながら、私の身辺に関する報告を受けていたのだろう。泊まることは殆どなく、夕刻には王宮へと戻っていく竜車を、縋るような思いで見送り続けていた。
「今に至るまでよく頑張られましたなぁ」とスハイルに呟かれ、幼少期の記憶に、ここ最近の記憶が重なる。
薄暗い室内でこちらを見る年老いた眼差しは深く、労りに満ちている。
しっかり話をしたのはイリリアが吐血した時だったか…と、あの時の苦く苦しい記憶が甦る。
「………儀式衣装を纏う姿を見たことで、気が緩んだのかもしれないな」
「ようやく…という万感の思いもあったのでしょう」
「まだ何ひとつ解決していないのだがな……むしろ、これからだろう…」
「とはいえ、喜べる時に喜ぶべきかと。お花様も儀式を待ち望んでおられるのでしょう?」
「そうだな………だが、初夜に関してはおそらく人間とは作法が異なるだろう。イリリアはこちらに合わせようとしてくれるだろうが、我慢を強いたいわけではない……花嫁修業のあとに改めて話し合う必要がありそうだ」
「成程…それで最近また、過去の記録を調べておいでだったのですな」
「相手が異種族の場合は作法の一部を変えられるようだからな…どこまで許容範囲か見定めたかったのと、以前の人間の花嫁はどうだったか知っておこうかと。……とはいえ、記録は書き直されたかのように『つつがなく終えた』としか残されていなかったが」
「………おひとりで考えても栓ないこと。必要とあらば爺も手伝って差し上げますゆえ、今は頭を空っぽにしてお休みくだされ」
額に冷やした布が置き直され、上がりすぎた熱を吸い取ってくれる。
ここ最近はイリリアの額を冷やすばかりだったな…と思い、彼女が異郷に慣れるためにどれだけの負荷を負い続けているかを改めて知る。
「爺の添い寝は要りますかな?」
「いらん。うっかりイリリアと間違えようものなら大惨事だ」
寝ぼけて抱擁でもしようものなら、庭の御池に頭から飛び込むだろう。
愉快そうに目元を細めた爺が、歌うように眠りの挨拶を述べる。
幼少期からずっと聞かされていた定型文はどこか懐かしく、心まで幼く戻ったような気になってしまう。
「よくよく、おやすみくだされ」
薄手の毛布の上から一定のリズムで刻まれる手の拍子に、意識は再び深く沈んでいった。
どれだけ寝ていただろうか。
大滝雲から顔を出す時のような感覚で、ふぅと息を吐くと同時に目を開く。
薄暗い室内に小柄な影を見つけて、思わず呼びかけた。
「………………爺?」
寝台の脇に座っていた人物は微笑んだだろうか。
空気が優しく揺れて、額からズレ落ちた布をそっと拾い上げてくれる。
その眼差しはどこまでも甘く、そばに居たのが思った人物でないことに落胆するどころか、思いがけない人物が居てくれたことに心は静かに歓喜した。
「スハイルさんをお呼びしましょうか」
「いや………イリリアがいい…………来てくれたのか?」
「アズハル様が心細いようなので…隣に行く許可をいただきました」
寝言で何か言ってしまっただろうかと思ったものの、基本的に自分は寝ているあいだは動かないし喋らないと聞く。寝ぼけてイリリアの花印を食んでしまった事は自分でも本当に驚愕だったのだ。
イリリアがそっと手を握り、それを豊かな胸へと導いてくれる。手の甲が布越しに花印に触れ、そこからじわりと温度が混ざるような気がした。
「……何か感じるものがあったのか?」
「寝ようかなと思っていたのですけど、細い糸の先にアズハル様が居るような感覚があって………不意に、寂しさが込み上げたから」
本当は私が会いたくなっただけかもしれませんね、と付け加えられて、苦しいほどに愛おしさが込み上げる。
イリリアは花印に触れてさせていた手の指先に小さな口付けを落としたあと、そばの桶で額に乗せる布を冷やしてくれる。
「御池のお水は冷たいですね」という言葉にハッとして無理をしなくていいと伝えたが、彼女は指先を赤くしながらも丁寧に布を絞って額に乗せ直してくれた。
その優しさに、今すぐ抱きしめたいという衝動が疼く。
薄い毛布を捲るようにして「入るか?」と問えば、困ったように眉を下げながら「熱がこもってはいけないので、ここで」と断られてしまった。
「……いつも私が言っている事だな」
「お布団に招き入れようとする気持ちがわかるでしょう?」
「そうだな……熱いはずなのに胸のあたりが寒く感じる」
彼女が常々、熱が出ていても隣に寝て構わないと言っているのは、このような心細い気持ちを埋めるためなのだろうか。
ためしに聞いてみると、イリリアは首を横に振りながら「アズハル様が頑張り過ぎてしまうからですよ」と苦笑した。どうやら私の過労を心配してのことだったらしい。
「もう少し眠れそうですか?」と細い指の背が頬を撫でる。
薄闇の中で見るイリリアの肌は白く透けるようで、消えてしまうのではないかという不安から咄嗟にその手を握る。
寂しがっていると勘違いしたのか、静かな声で「大丈夫ですよ」と囁きかけてくれる。
間違いなくそばに居るという事実に、少しだけ不安が和らいだ。
「昼間……とても綺麗だった。私の花嫁が目の前に居るのだと改めて感じて………嬉しすぎて熱が出てしまった」
「儀式での、誓いの言葉を考えないといけませんね」
「………儀式のあとの夫婦生活で、改めて求めるものはあるだろうか」
ゆっくり頬を撫でていた指先が、そっと下唇の縁に触れる。
こちらを見つめる瞳には静かに欲の色が見え隠れして。
儀式が終わったらたくさん口付けて欲しいと言われていたことを思い出し、どのくらい求められるのだろうかと少しばかり困ってしまう。
ただ、これまで何度も額や頬に口付けを送ったことで、すでに触れ合う喜びについては理解しているし、不思議なことに彼女の持つ欲は透明で、かつて寵を求めて近寄ってきた女たちの宿していた色とは明らかに違うように見える。
天上の清らかなる湖の真ん中で、誓いと口付けを交わす……その厳かな場面の訪れが待ち遠しい。
薄紅色の柔らかな唇が己のそれと重なる瞬間を思えば、それだけで幸福の底に沈みそうだ。
「……………他には?」
「何も。アズハル様が居てくれれば、それで」
微笑んで額に口付けを落としてくれたイリリアの唇はとても冷えていた。
外套は着ているようだが寒いのではないかと心配になる。
アズハルの表情を読み取ったのか、「逆に心配をかけてしまいそうなので、そろそろ向こうに戻りますね」と椅子から腰を上げた。
「おやすみなさい」
と立ち去ろうとする姿に再び一抹の不安を覚えて、つい呼び止める。
「………………イリリア、」
振り返った顔はどこまでも優しく甘やかで、胸に芽生えた不安はそっと姿を隠す。
「いや………来てくれてありがとう」
「無理せず、今はしっかりと休んでくださいね」
どうやら扉の外にはラナーが待機してくれていたようだ。
入り口から覗き込むようにぺこりと頭を下げられ、扉が閉ざされる。
今の時間はわからないが、今日はこのままひとりで眠る事になりそうだ。
イリリアも今夜はひとりの夜を過ごすのだろう。
花の裁きを受けた夜のことを思い出して心臓は僅かに早まったが、今の体調で寝所へ押しかけても迷惑がられるだけだ。
不安で眠れなくなるのを見越されていたのか、スハイルの用意した解熱剤には睡眠作用のある草も混ぜられていたようで、意識は再び暗闇へと落ちていく。
明け方、部屋を訪れたラウダから「お花様は布団をたっぷり被ってお行儀よく眠っておいででしたよ」と言われ、イリリアがひとり寝の快適さに慣れてしまう前に早くそばへ戻らなければと、全力で治癒に専念した。
▼
その数日後。
王宮に数ある会議室のなかでも、王太子の持つ離宮にほど近い部屋に集まった面々は、決して友好的な雰囲気ではなかった。
円卓の一席に座す主人のうしろには、それぞれ信頼のあつい護衛隊士と腕のよい事務官がひとりずつ立ち並び、室内はどこか物々しい空気に包まれている。
当然のように議長の立場で発言を始める王太子に文句を言う者はいない。
この会議室を用意したのは彼であるし、ここに集う三人のなかでは一番地位が高い。
アズハルとサーリヤも横並びとはいかない。サーリヤは成人後に王宮内に一室を得たが、アズハルは部屋を持たない。序列は明確に決まっている。
「さて、お前の婚礼についてだったな。花嫁の身支度に王宮からの助けは不要、着替えのために貸し出す部屋は出来る限り秘匿して欲しい…だったか」
「身支度は専任の侍女らがおこないます。私の着替えはシャイマが主導でおこないますので、補佐として適任の者をひとりお貸し頂ければ」
「なるほど、元女官長の目があるとなれば、個室でお前に悪戯を仕掛けることも出来ないだろうな……ファティナの侍女は当日はアクルの身支度で忙しいゆえ、陛下の元に適任が居られないか聞いておこう。部屋についてはダミーも含めて四部屋用意しておいてやるから、そちらで良いように動け。儀式の三日前から基本的に部屋は厳重に施錠されるため立ち入りは不可能となる」
「それまでに出入りする者は?」
「知らん。安全確認がしたいのであれば、幾らかの時間を用意してやるから自分の目で確かめろ」
「そうさせて頂きます」
「随分と警戒を深めているようだが、北から何か接触があったのか?」
「いいえ。むしろ、驚くほどに何もなく……だからこそ事態は急に動くのではないかと懸念しています」
「お前にしては良い判断じゃないか」と口を挟んできたサーリヤに、アズハルは「姉上がもう少し情報をくだされば」と苦言を呈す。
「私とて全てを把握しているわけじゃない。あの者たちはコソコソと隠れて動くのが好きだからな……ところで、イリリアは元気か?」
「問題なく過ごしております」
「天上に来て少しは身体は強くなっただろうか…小屋で会った時の顔色は、病人よりも酷かったからな」
「先日顔を会わせた時も細い娘だと思ったが、順化の頃はもっと酷かったのか?」
「よくあれで霊峰の環境に耐えられるものだと感心しましたよ。愚弟よりもずっと覚悟と根性がある」
「随分と気に入っているじゃないか……お前は月下の祈祷をまだ続けているのか?」
「毎日毎晩欠かさずやっておりますよ。愚弟に呼びかけがあったのなら、こちらにもあって然るべきだと思うのですがね…」
「なかなか見つからんものだな」
「本当に姉上は儀式に参加して大丈夫なのでしょうね。余計な嫉妬など抱かれませんよう」
「阿呆。お前のような愚者に嫉妬などするか」
サーリヤの長い足が伸びて、アズハルの椅子の脚をゴンと蹴る。
護衛として後ろに立つカイスは眉を動かしたが、それ以上の攻防は無いと判断して姿勢は崩さぬまま。
「痛………そうやってすぐに手足が出るから言っているんです」
「あんな細い花嫁を蹴るものか」
「確かにな…あれではファティナに掴みかかったところで何も出来ないだろうと、今日の茶会の許可を出したが…」
「イリリアが茶会をしているですか?ファティナ妃と?」
「ああ。花嫁教育がてら、離宮で茶を飲んでいる。報告書に閨事の基礎知識はあると書かれていたから、ひと通りの流れと留意点のみ簡潔に伝えると言っていたが、構わんな?」
「助かります。叔母上へ頼もうにも、あちらの花婿の振る舞いがいつも問題にあがっていましたので」
「互いの花の気質を考えれば、向こうの離宮へ赴くことすら危険だろう。さて、儀式の打ち合わせの前に報告を聞こうか。中央は変わりない。西は獣人が何やら言っているようだが無視を通している。東は…母上の管理地であった小屋が一時的に南へ貸し出されたくらいだな。悪用はしておらんな?」
「しておりません。順化の際に有難く使わせていただきましたと、王妃殿下に御礼をお伝えください。南は上方、下方域は変わりなく。中腹の雷鳥族の集落を潰して追放とし、今後の立ち入りを禁じました。西から回って北へ逃げようとしていた者たちも捕縛しております」
「北の境界まで南の者たちが現れたため、少しザワついたがな。愚弟にしては徹底的にやったと褒めてやろう」
「そのせいで王宮には花嫁の悪評が流れているがな。雷鳥族の不手際以降、女官長の辞任により母上からの睨みがきつくなったことで、北の一派は一旦なりを潜めたようにも見える。だが、あの者たちが簡単に手を引く筈もない。
恐らくはアズハルの懸念通り、儀式当日かその後に何かしらの方法で接触を図ろうとするだろう。サーリヤ、あの一族の事で話せる情報があるのなら寄越せ」
「北の情報は繊細ですから、そう簡単にお渡しできるものはありませんね…。そういえば先日ハルクの名が流れ聞こえてきたが、イリリアの側付きになったというのは本当か?」
「本当です。今日も茶会に随伴していますよ」
「ん?今日は王宮に慣れているサディオが同伴するのではないのか?」
「護衛ふたりの同行を許されましたので、どちらも連れて来ております。妃殿下からの手紙には、茶室への随伴はハルクにするようにという遠回しな言葉もありましたが」
「………聞いていないな」
ファティナがここぞとばかりにハルクと会おうとしていると知った王太子は物凄く渋面になる。おそらく妃殿下の口からハルクの名が出ていなかったため油断したのだろう。
「ファティナ妃のそういうところは本当に好ましい。叶うならまた茶会をしようと言いたいところだ。イリリアとも、いつか…な」
「お断りです」
すかさずアズハルが拒絶すれば、再び椅子の脚が蹴られる。
「痛………」と文句を言いはするものの、椅子が引き倒されないだけマシかという空気感があるのは、ここに居る誰もが、サーリヤが激昂したときの勢いを知るからだろう。
「愚弟よ。お前はここぞとばかりにハルクを利用するつもりだろうが、逆に利用されないよう気をつけておけ。ただでさえ王宮内では、竜人族の至宝たるハルクを人間に渡すなんてどういう事だと、その判断を下した王太子の評判が下がっているようだからな」
「頑なにファティナ様と会わせないことで、兄上と妃殿下との仲が良好であるというアピールにもなっていたというのに、よく手放そうと思いましたね」
「確かに損失はあるが、離宮勤めの女官らがハルクを巡って少なからず諍っていたのも面倒だったからな……お前のところのラウダは表面上は楽しむだろうが身持ちは固いし、あとは年下ばかりだ。あのハルクもさすがにシャイマ殿に手出しはしないだろう」
王太子はアズハルの背後に立つカイスをちらりと見てから「イリリアは何か言っていたか?」と含みのある顔を向けて来た。
おそらく自分たちのように「他の男に見惚れるな」「まさか浮気を疑っているの?」という言い合いが起きることを期待していたのだろうが、王太子の目論見は大外れで、ハルクはイリリアの心を射止めはしなかった。
「色めくことも騒ぐこともなく、特別な反応は何もないように思えましたね」
「つまらんな……」
「やはりな……カイスへの態度を見て、ハルクにはさほど興味は持たないだろうと思ったのだ。私が送ったシナンのことは気に入っていただろう?」
「準隊士は訓練所に通わせています」
「遠ざけたということは気に入ったのだな」
勝ち誇った笑みを浮かべるサーリヤに、アズハルは思わずジトッとした目を向ける。
サディオとハルクの到着から遅れること二日。
サーリヤから送られてきた結婚祝いは前もって聞いていた通り、まだ未成年の準隊士であった。
花嫁の護衛として今すぐ側付きに任じることは出来ないものの、訓練をして必要な技能を身につければいずれは問題なく仕えられるようになるだろう。
「サーリヤ様より、アズハル様のお花様にお仕えするよう言われて参りました!シナンと申します、よろしくお願いします…!」
金色に近い茶色の髪は毛先がくるんと巻いていて、目は大きく顔立ちは愛らしい。美少年と呼ばれるに相応しい外観の少年は、キリッとした態度で挨拶をした。
イリリアはその挨拶を受けるなり相好を崩した。
にこにこと満面の笑みを浮かべ、ふわふわの毛を撫でたいとばかりに手元をそわそわさせた。
極め付けは「とても可愛らしいわ…」とため息交じりに呟いたことだ。
アズハルは挨拶を早々に切り上げさせると、ラナーに「シナンを執務室へ連れて行き、共に茶を飲んで待つように」と指示を出し、イリリアには、シナンを撫でるのも抱擁するのも絶対に禁止だと厳しく制限したのだった。
「手紙の内容も『花嫁好みの少年を送る。好きに育てろ』などとふざけた事を……一体何を考えているんです」
「お前にはわからんだろうが、育てる楽しみというのもある。準隊士の派遣自体は嫌がらせではあるが、シナンは人間に偏見は持たぬし、性根の優しい努力家だ。大事にしろよ」
「援助いただけた事には感謝しますが…………イリリア?」
「どうした?」
突然会話を切ったアズハルに、サーリヤは怪訝そうな顔を向ける。
円卓の向かいに座るアクラムも眉を顰めると、背後の文官に指示を出した。
「ファティナが何かに怯えている。離宮へ人を派遣しろ。アズハル、お前のところはどうなっている」
「わかりません。こちらはまだ強い感情をたまに感じる程度ですから……胸がザワつくような不快感があります。中座しても宜しいでしょうか」
「本題にすら至っていないが、ここで会議を終えて私も離宮へ戻る。サーリヤも構わんな?」
「ええ。心配ですので私は陛下の元へ向かいましょう」
皆が椅子から立ち上がった時、部屋の扉が開かれまだ若い隊士がひとり、姿を表した。
身に纏う衣装は陛下の近衛のもので、全員が即座にその隊士の言葉へ耳を傾ける。
「ご報告申し上げます。王宮内に侵入者あり、王妃殿下が顔に傷を負われました。そして王太子殿下の離宮から交戦の報せありとの事!」
「母上が怪我しただと!?おい、外の護衛の半分を離宮へ急がせろ!」
「先に離宮へ向かいます…!カイス、来い!」
「は…!」
アズハルとカイスが大急ぎで部屋を飛び出したあと、サーリヤは伝令で来た隊士に「私を近衛隊長の元へ案内しろ」とせっついている。
周囲へ指示を出していたアクラムは、アズハルの椅子の後ろに立ったままのユスリーに「お前は人質としてここに残れ」と静かに告げた。
「今回の襲撃がアズハルやその花嫁が仕組んだ事だという可能性は否定できない」
「構いませんよ、現場に行ったところで殆ど役に立ちませんので。出来る事なら何か…手慰みとなる仕事をいただけると嬉しいのですが」
大した反論もせず先ほどアズハルが座っていた椅子に悠々と腰掛けたユスリーにアクラムは文句を言いかけたが、ため息と共に飲み込み、控えていた隊士に見張りを指示して部屋の扉へと向かった。
「部屋からは出すな。暇そうなら西の報告書を渡して収支計算でもさせておけ」
そして固く閉ざされた扉の内側で、ユスリーはさて誰にどれだけの賠償を追求すべきだろうかと頭を巡らせながら、俄かに慌しくなった廊下へと耳を済ませたのだった。




